陸拾陸
源太郎の帰宅が遅かった。
理由は何てことはない。単に、宴会に参加した半数の者たちが酒による寝坊で仕事に遅れ、その分だけ働くことになったらしい。
待っている間、蘭丸は気が気ではなく、不安に駆られて農場まで向かおうとした時、源太郎は帰ってきた。
「お蘭は作り笑いが下手だと思う」
夕餉を終え、後片付けをして、源太郎が風呂からあがり、蘭丸が待つ寝室に戻って来た。布団は一組だけ用意して、やっと二人きりになれた時だと言うのに、源太郎は真顔だった。
「はい?」
蘭丸は咄嗟に顔に触れた。無意識に笑っていたかも知れない。
「蘭は、笑っていましたか?」
「うん」
「あの、それは源太郎様と二人きりになれたのが嬉しくて、作り笑いではないです」
「うん、今のは可愛かったよ。作ったのじゃないって分かる」
源太郎は布団に入り、蘭丸を隣に促した。蘭丸は源太郎に寄り添いながら、共に布団の中に包まれる。
「唐八が心配してただ。昼、お蘭が無理してたって」
「昼、うたた寝をしてしまいまして、少し目覚めが悪かっただけです」
「怖い夢、見ちまったか?」
源太郎に肩を抱き寄せられ、蘭丸は頷いた。
「けれど、一時的な…発作みたいなものですよ。今は源太郎様と一緒ですし、見ないと思います」
「今だ」
「今?」
「うん、作り笑い。誰だって分かるだよ」
源太郎は蘭丸の頬を摘んだ。
「あとな、鍵探してたことも教えてくれた」
源太郎の声音がより重たくなる。
「お蘭、まだ城に行こうとしてるんか?」
源太郎は蘭丸が返事をする前に蘭丸を強く抱きしめた。
「駄目だよ、絶対行かせないだ」
「源太郎様…。蘭は、何処にも行きません」
「本当か?」
「はい」
「悪かった。痛くなかったか?」
源太郎は腕の力を緩める。
「大丈夫です」
「でも、なして急に鍵なんて…」
「ふと思い出したんです。今朝、唐八殿も先生もおりませんでしたし、掃除も終わってしまって、やることも見つからず、荷物の整理をしていたら、なくなっていたことに気付いて」
「でも、確かにおら、鍵持ってきただよ?」
「はい、蘭もここに来てから何度か目にしておりましたし……」
源太郎が蘭丸の身を案じて隠した訳ではないらしい。やはり、菊之助が持ち出したのだろう。
蘭丸は夢の情景を思い返した。源太郎の胸に顔をくっつける。
「菊之助が持って行ったんかな」
「蘭もそうだと思います」
「じゃあ、菊之助は城に戻ったんかな」
「どうでしょう。蘭だったら、戻らないと思います」
本能寺で信長を失った蘭丸は、家名も何もかも捨てて何の躊躇いもなく出会って間もない源太郎の元に留まった。たった一つの存在が己の総てで、それを失ったのならば、帰る場所をも無くしたことと同じことだ。
「お蘭がそう言うなら、そうなのかもな」
「菊之助は、あの中の少年の一人だったのでしょうか」
「どうだろうな」
そう考えるのは妥当だろうか。けれど、真実はわからないし、分かる術もない。
「今、とても混乱しています。菊之助のことなんか、早く忘れてしまいたいのに…」
源太郎が心配そうに蘭丸の顔を覗き込んだ。
「どんな夢だったか、話してくれるか?」
「蘭が、あの城でされたみたいに、菊之助が女性の格好をさせられて、複数の男達に囲まれていました。菊之助は、自ら体を男達に差し出していたのに、最後に蘭に助けてって言うんです。蘭は、助けたいと思ってしまって…」
「助けられたか?夢の中で」
「いいえ」
「お蘭は優しいな」
「優しいのでしょうか」
「うん、ほいで、同じくらい不器用だ」
「……」
「あいつ、たまにすげえ悲しい顔見せてたな」
「はい」
「きっと、そのことがお蘭の中で引っかかってるだな」
「けれど、あの者は私たちの敵です!蘭を恨んでいたからと言って、源太郎様や唐八殿や先生を巻き込んで!なのに…」
「うん。だから、お蘭は辛いだな。こないだとおんなしだよ。頭ん中で、菊之助は敵だから、許せないからって言い聞かせてる。本当は心ん中では可哀相だ、助けてやりたいって思ってるのに、認めたくないだ」
「そんな…」
「お蘭は頭がいい。だから、頭でばっかり考えちまって、本心を見ようとしない。その気持ちを認めてやったら、お蘭も楽になるんじゃないか?」
「出来ないです」
可愛げのない返事がすぐ口を突いた。出来るはずない。菊之助から与えられた痛みは、あまりにも多く、大きい。
「そっか。そうだな。悪かった。簡単に言って」
源太郎は小さな子供をあやすように、蘭丸の額や背を撫でた。
「また発作が起きたらおらが治してやるだよ」
「また、源太郎様を困らせることになっても?」
「まだそんなこと気にしてるだな?困らないだよ。だから、嫌な夢見たり、思い出したらおらんとこおいで」
源太郎は蘭丸の額に口付けた。目線を近付ける。
「でも、ほっとした。鍵探してるって聞いて、また城行きたいって言い出すんじゃないかってはらはらしただ」
やはり、源太郎が一番心配していた点は其処だったらしい。
「……蘭は、少し前まで、彼らを助けたいと、烏滸がましいことを言いましたが…。けれど、今は…」
「考えが変わったか?」
「…まだ、分からないです。蘭にとって、好きな方以外とするなんて、嫌悪しかありませんでした。けれど、昨日、皆さんと一緒に宴の準備をしていて…。志津殿も、他の女中の方も、懸命に働いておりました。中には、昨夜泊まった方の晩の相手をする方も…」
「お蘭、知っててただか?」
「はい。皆様にとって、特別なことではないのですよね…」
「うん。そう言う生き方もあるってことだな」
「蘭は恥ずかしいです。そんな方々を否定してしまうような、こんな狭い考え方しか持たずに生きてきたことが」
「それぞれ事情はあるし…。もし、これからお蘭が見て辛いと思う生き方をした奴に出会って、そいつが助けを求めたら、手を差し伸べてやればいいだよ」
「そうですね」
蘭丸の素直な返事に、源太郎は安心したように微笑み、蘭丸の頬を撫でた。
「偉そうなこと言ってっけど、結局、おらはお蘭を失いたくないだけなんかも」
「もう言いませんし、危ないことも致しません。だって、蘭は貴方のものですから」
蘭丸は源太郎を見つめた。
「この体も、命も」
「お蘭…。おらも、だよ?」
源太郎が同じ意を伝えると、蘭丸は目を見開いたまま止まってしまった。
「駄目です。源太郎様のお命は、源太郎様のものです。どうか、天寿を全うして下さい」
「うん。お蘭の為に生きる。長生きする。お蘭も、おらの為に生きてくれるな?」
「はい」
蘭丸は作り物でない笑顔で頷いた。
「良かった」
この優しい人を、安心させられるのは自分しかいない。今晩は、それが叶えられそうな気がする。
蘭丸は、源太郎の心音を聞きながらまどろんでいった。
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