陸拾漆
あの凄惨な出来事が嘘だったような穏やかな日々が続いていた。
「よし」
蘭丸は、杓文字でかき回しながらご飯の固さを確かめる。固すぎることもなく、上手く炊けた。
仕上がった料理を皿に盛り、膳に並べ、部屋へ持って行く。往復して最後に櫃を運んだ時、ちょうど午前の診療を終えた唐八と先生がやって来た。
「お疲れ様です」
蘭丸はご飯をよそい、二人の膳の上に置いた。
三日前、蘭丸の腕の包帯が取れてから、蘭丸は家事全般と養生所の裏方の仕事を任されるようになった。充実しているせいか、それまでと比べると、一日が終わるのが各段に早く感じる。
「頂きます」
唐八と同じ間合いで手を合わせ、二人が料理を口にしてから蘭丸も箸を取る。
「見た目も綺麗だし美味しいよ」
唐八は食事の度、欠かさず誉めてくれた。味に関しては唐八や源太郎の方が美味しく出来るにも関わらず。蘭丸は短く礼を言って、苦味が残る煮大根を口へ運んだ。
食後の茶を淹れて蘭丸が膳を片付けていると、唐八が声を掛ける。
「ちょっと話があるんだけど」
「はい」
蘭丸は膝を畳んで向き直った。いつもは食べ終わるとすぐに席を立ってしまう先生も、まだその場で茶を啜っている。
唐八が神妙な顔で切り出す。
「菊之助の残りのお金は、天馨寺に寄付するって聞いたけど」
「はい。壊した祠の修繕費に当てていただこうと。二人で話し合って決めました」
「残り、全部寄付するのかい?」
「そのつもりです」
「旅の資金は、どうするの?」
「いざとなったらどうとでもなりますから」
「そうは言うけどね…」
唐八の困惑した表情。蘭丸は、自分で口にしてから殆ど夢みたいなことだと思った。蘭丸も源太郎も、菊之助の金を失ったら身一つになってしまう。住まいもなく金もない状態で過ごした経験もない。お互い、自然界に適応する術はそれなりに心得ているが、きっと限界だってある。
そして、蘭丸の体が回復した今、この話は近い未来になった。しっかり現実を見据えなくては。
「蘭丸君」
蘭丸の不安を見透かしたように唐八が声をかけた。
「君が良ければだけど、ずっとここにいるってのはどう?」
蘭丸はすっと目を見開いた。唐八は続ける。
「正直言うとね、君らがいてくれて、僕はとても助かってるんだ。養生所が忙しくて、家事なんてままならない中、君はよく働いてくれているし、朝夕の食事も一緒に出来て楽しいし」
唐八は、きっと本心で言ってくれている。
「どうかな?きっと、げんさんも賛成してくれるよ。毎日、仕事だって楽しそうだし、仲間も出来たし」
そうだ。源太郎は、この地で新しい仲間を得た。損得関係なく支えあえる素晴らしい仲間だ。よく、夕餉の時に、源太郎は楽しそうに仕事場の仲間の話をしている。この地を離れたら、源太郎はまた大切な存在を手放してしまうことになる。
「……」
蘭丸が返事を詰まらせていると、先生が血管の浮いた拳で唐八のこめかみをこつんと叩いた。唐八は蘭丸を見て、気まずそうに付け足した。
「勿論、最初に言った通り、蘭丸君が良ければな上でだけど」
「良ければだなんて…、私は、任された仕事も、お二人のことも大好きです。出来れば、仕事も続けたい、皆様とも一緒にいたい…」
けれど、ここに居続けることは、果たして正解なのだろうか。この人たちを、また危険に巻き込んでしまわないだろうか。
菊之助が来ることは、恐らくない。けれど、また他の誰かが蘭丸の存在を嗅ぎつけて来るかも知れない。今は平気でも、何れかは見付かってしまうかも知れない。これからも、ひっそりと特定の人以外と関わらずにいれば大丈夫だろうか。
色んな考えが巡り、沈黙が続いてしまった。蘭丸は口を開く。
「私一人では決められません…。少しだけ、お時間を下さい」
「うん、そうだね」
唐八は茶を啜り、空になった湯飲みを膳に戻した。すると、唐八の隣で話を聞いていた先生が口を開いた。
「ところで、行くあてはあるのか?」
「いいえ…」
「行きたい場所は?」
「それも決まっていません。以前話した時、暖かいから南の方へ行こうかと…」
「南」
先生は
矍鑠とした動作で立ち上がると、背を向けて棚の引き出しを開け、巻紙を取り出した。開いて、蘭丸の目の前に置く。古い地図だった。文字は所々潰れているが、詳細に地名が記されている。
「ここが何処か分かるか?」
先生の問いに蘭丸は頷き、その箇所に人差し指を置いた。安馬田の文字は小さくて殆ど読めない。
「合っているな」
先生は蘭丸の下に指を置いて紙をなぞっていく。堺を越え、和泉の近くに、潰れた小さな文字で『神賀井』と記されている。
「ここに儂の故郷がある」
「そうなのですか?」
「行ったことはあるか?」
「いいえ。けれど、位置からすると暖かい場所なのでしょうね」
「ああ。果物は甘いし、海でとれた魚が美味い」
先生は目を細めた。故郷を懐かしんでいるようだ。
「で、だな…、お前さんたちに頼みがある」
「私に出来ることであれば、何なりとおっしゃってください」
「旅ついでに、使いをしてほしい」
「故郷へですね?」
「うむ。儂の弟が此処で養生所を切り盛りしていてな、便りを届けて欲しい。勿論、其処までの宿賃は出す」
「そんな、こんなにお世話になって、頂けません」
「いやいや、それだけではない」
「他のお届け物ですか?」
「ああ」
先生にじっと見つめられた。唐八が身を乗り出しながら口を挟む。
「先生、まさか、蘭丸君たちを?」
「私たちを?」
「ああ、そうだ。向こうで弟の手伝いをしてくれないか?」
「え…?」
唐突な提案に、蘭丸は目を丸めた。返事を出来ずに地図を見下ろす。今いる安馬田の位置から、先程まで先生の指先があった箇所を目で追った。
「それは、幾日か、と言うことでしょうか?」
「嫌だったら、それでもいい」
「そんな、嫌だなんてこと、ありません!」
蘭丸が否定すると、先生はまた笑った。慈愛に満ちた優しい顔だった。蘭丸は、胸の奥がきゅうっとなって、泣きたくなった。深い優しさに触れると、涙腺が緩んでしまう癖はまだ抜けずにいる。
「二人とも、働き者で体力もある。弟の役に立ってくれるはず。後で、げんと話し合って決めなさい」
「先生…、有り難うございます」
蘭丸が礼を言うと、先生はよいしょと立ち上がった。診察部屋に戻るようだ。
「決まったら、早めに言ってくれ。何せ、七年ぶりだからな。文を書くのにも時間がかかる」
「七年も…」
「ああ。もう年だしな。長旅は出来ん」
そう言うと、先生は午後の診察の為に唐八と部屋を出て行った。
(先生…)
大切な故郷の弟に。可愛がっていた菊之助に裏切られたばかりだと言うのに、出会って間もない蘭丸たちを変わらず信頼してくれている。しかし。こんな思いもよらない提案をしたのは、態度にこそ出さないが、先生も菊之助を受け入れてしまったことを気にしているのかも知れない。それもあって、迷っている蘭丸に新たな選択肢を与えてくれたのか。先生は何も悪くないのに。
蘭丸は手の甲で瞼を拭って地図を見下ろした。
安馬田から神賀井まで、さっき先生がしたように指でなぞる。距離にして三十里もない。確かに先生の年齢では辛いだろうが、体力のある源太郎となら数日で辿り着くだろう。この範囲なら、手形の心配もなさそうだし、泊まる宿も確保出来そうだ。
そして、行き先の暖かい地で、仕事をしながら源太郎と暮らせる。これ以上ない好条件だ。
そこまで考えて、蘭丸は地図を丸めた。気持ちが神賀井に傾いていることに気付いた。幾ら神賀井が良い所でも、ここを出ると言うことは、源太郎と仲間たちを引き離してしまうことに変わりない。源太郎と納得するまで話し合わなくては。蘭丸は地図をしまって、片付けを始めた。
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