玖
夕刻、田子作はいつものように百姓仕事を終え、帰路を歩く。いつもの帰り道でどんぐりを見つけ、弟たちに持って帰ってやろうと顔を綻ばせる。蘭丸を甚振り、我がものにしようとした、卑劣な男とは思えない程優しい目をしていた。
顔をあげると、田子作の前に同じ背丈の、黒ずくめの男が立っている。男は刀を携えていた。
どこぞの守衛と思った田子作は会釈をし、通り過ぎる。
「弟に持って行くだか?」
聞き覚えのある声だった。
「…源太郎!?」
源太郎は頭の笠を外した。
「相変わらず、家族だけは大事にしてんだな」
「おめえ…、脱走しただか?一人でか?」
「いや、二人だ。お蘭は、今、お前んちにいるだ」
源太郎はにやりと残酷に笑う。田子作の顔色が変わる。仕事道具を放り出し、源太郎を突き飛ばして帰路を駈けて行った。
(くそ、無事でいてくれ、忠介、勘吉、おっかあ…!)
数年前は、源太郎は田子作の家族と交流があった。弟たちは源太郎に懐いていた。源太郎が幾ら人が好くても、大事な蘭丸を散々傷つけた自分に復讐するのも、家族をその道具にしたとしても可笑しくはない。田子作がどれだけ家族を大事にしているか、源太郎は知っているのだ。
息切れ切れに帰路を走り、近道をして、やっと家を見渡せる丘まで辿り着く。
源太郎と同じ格好した蘭丸らしき人物は、庭先で弟たちと戯れていた。元気に走り回る弟たちを見て、危害は加えられていないことに安心した田子作は、ほっとして息を飲む。その時、蘭丸が笠を取り、こちらに顔を向けた。
「あいつ…!」
蘭丸の殺気立った双眸が、田子作を睨み付けた。その冷たい眼差しで、田子作はたじろいでしまった。蘭丸は瞳をそらさずに装備の刀の柄を握った。
「止めろ…!」
田子作は丘の先の絶壁を駆け降りた。
「兄ちゃん!」
殆ど転げ落ちるように着地した田子作に気付いた弟たちが、心配そうに駆け寄って来た。
「にいちゃん、大丈夫だか!」
「大丈夫だ」
田子作は二人を抱き締めた。蘭丸に目を遣ると、悲しみ満ちた瞳で兄弟を見つめていた。手はまだ柄にある。
「こいつらは関係ねぇ、憎いなら、おらを」
「蘭ちゃんは、兄ちゃんの友達だろ?」
上の弟の忠介が言った。
「蘭ちゃん、にいちゃんが来るまであそんでくれたよ」
下の勘吉が続く。
蘭丸が柄から手を離した。
「あー、源太!」
勘吉が嬉しそうに源太郎の名前を呼んだ。源太郎は田子作が放り投げた荷物を抱え、正規な道筋でやって来た。
「源太!」
荷物を置いて、駆け寄った勘吉を抱き上げる。掌のどんぐりを見せてやる。
「わあ。源太、またどんぐりの独楽作ってくれよ」
「おらは忙しいだ。後で兄ちゃんに作って貰い」
「だって、源太の方が上手い」
「そげなこと、言うな。兄ちゃんは、一所懸命作るだよ。お前たちの為に」
源太郎は勘吉を下ろし、どんぐりを小さな掌へ差し出した。
「にいちゃん、独楽、作ってくれる?」
「あ、ああ…」
状況が把握しきれない田子作の答えは生返事だった。
「忠介、勘吉、おら、兄ちゃんと大事な話があるだ。すぐ済むから、家ん中で待ってな」
源太郎は二人を家の中へ促した。
「おら、晩飯作って待ってるだよ」
忠介は勘吉の手を引いて、家に入った。戸を閉めたのを確認してから、源太郎は田子作に手を差し出す。
「立てるか?」
田子作は、差し伸べられた手に触れず、黙って立ち上がる。
「聞かれたらまずい、少し離れよう」
三人は田子作の住処から程近い林の中まで歩く。源太郎が先頭を、そのすぐ後ろを田子作が続き、その横の蘭丸はあからさまな距離を置いて歩いている。
「此処まで来たら、大丈夫だろ」
源太郎は岩に腰掛け、蘭丸は背後の木に寄りかかった。田子作は切り株に腰を落とすと、源太郎が口を開いた。
「田子作、おらたちは、お前や、お前の家族をどうこうするつもりはないだ。正直、お前のことは殺してやりてえ程憎い。でも、忠介や勘吉を不幸には出来ねえ。分かるだな?」
「話って、何だ?」
田子作は不貞腐れたようにそっぽを向き、居直った。
「おらたちを攫った奴の素性を知りたいだ」
「あいつは、鬼河原に仕えてる忍びだ。男色で、可愛い男子を見つけては、買って城のてっぺんの牢に閉じ込めてる」
「忍び?」
「ああ、それも、有能な。だから、ああやって、城の隠し部屋で好き勝手やらせて貰ってるだ。お前ら、どうやってあいつから逃げたんだ?」
「殺しただ」
田子作の表情が一変する。
「何!?」
「あんな奴、死んで当然だ」
「お、お前らからしてみたらそうかも知んねえけど、あいつは一文様の懐刀だ、殺したりすれば、ただでは済まねえ…!」
「ああ、おらたちは、暫く身を隠すだよ」
「しかし、おったまげた。そげん可愛い顔して、恐ろしい奴だな。男に抱かれてひぃひぃ言ってる姿からは想像出来ねえ」
田子作が一言も語らない蘭丸に目をやる。
「貴様っ…!」
源太郎が立ち上がり、田子作に掴み掛かろうとすると、静かに蘭丸が制した。そして、懐に手を入れて、白い錠剤を取り出し、一言も喋らなかった蘭丸が、初めて口を開いた。
「この薬は何だ?」
「お前、それ、飲まなかっただか?それは、媚薬だ。催眠作用があるって…」
張り詰めた表情で媚薬を見詰める蘭丸を余所に、田子作は声を出して笑った。
「何が可笑しい」
源太郎が田子作を睨みつけた。
「だって、可笑しいだべよ。なあ、お蘭、お前、それを飲まずに、おらにご奉仕したんだべ?源太郎にするみてえによ、おら、すっかり騙されちまっただよ、そうやってあの男にも媚びて、隙を突いたんだろ?恐ろしいよな、お前は立派な娼婦だよ!」
「黙れ!」
源太郎が田子作の胸ぐらを掴んだ。だが、田子作の口からは卑しい言葉が止まることない。
「なあ、お蘭よ、金は出すからさ、もう一度、おらにご奉仕してくれよ。お前の舌はどんな上質な生地よりも心地良いよ。忘れらんねえよ、その口が、どんなに…っ」
源太郎は田子作の頬を拳で殴った。田子作は切り株の向こうへ吹っ飛んだ。
「お蘭の気持ちを考えてみろ!」
田子作は血が混ざった唾を吐く。
「そいつだって、おらたちのこと、考えたことあんのかね。なあ、お蘭、お前、おらの寝たきりのおっかあ見ただか?源太郎、何で、寝たきりになっちまったか、知ってるか?」
「それは…」
源太郎は知っていた。
三年前、田子作の父親は不慮の自己で亡くなった。それを苦に、田子作の母親は自殺を計り、橋から川へ飛び込んだのだ。しかし、自殺は失敗した。田子作の母親は命は無事だが、腰を損傷し、下半身が殆ど動かなくなったのだ。妹の死と、その悲しい事件と時期が重なったこともあって、源太郎はよく覚えていた。
「みんな、おっかあの自殺未遂は親父が死んだせいだと思ってる。だが、違う。おっかあはな、もともと体が弱くて働けない。稼ぎ口はおらだけになっちまって、生活はより苦しくなっただ。だから、負担を減らすようにって、あんな馬鹿なことしただよ」
田子作は怒りを吐露した。やがてその矛先は蘭丸に向けられる。
「なあ、お蘭、お前はおらたちにご奉仕するべきだよ。だって、お前たちはおらたちが作ったもの、殆ど持っていっちまうじゃねえか」
「田子作、止めろ!」
「源太郎、お前だって、病気の妹に薬が買えねえって嘆いてたじゃねえか」
蘭丸は瞳を悲しげに伏せた。
「分かったか?お前が綺麗なのも、おらたちが丹精込めた作物をたらふく食って、おらたちが汗水流して働いてる時も、娯楽に耽ってるからなんだよ!」
蘭丸は、黙って田子作の憤りを聞き入れた。変わりに、源太郎が口を開いた。
「馬鹿だな、お蘭が綺麗なのは、金持ちとか関係ねえだ」
「は?」
「源太郎様…!」
源太郎の場違いな返答に、二人は戸惑った。だが、源太郎は気にせず続ける。
「お蘭だって、ここ数ヶ月はおらたちみたいに粗食だが、ほれ、相変わらず餅肌だし、髪も艶やかだ。それに、考えてみろ、もし、おらやお前がお蘭だとしても、信長に寵愛されると思うか?されねえよ、生まれもった美貌っつーもんが…」
「おらは、そんな返答求めてねえ!」
田子作は怒鳴って源太郎の言葉を遮った。源太郎は頭を掻いた。
「田子作、お蘭にだって、お蘭の苦労があるだよ。お前が苦労してるようにな。お前が貧乏なのはお前のせいではねえけど、お蘭のせいでもねえ。わかるだろ?たから、お前がお蘭を好きにしていいって言う理由にはならねえよ」
「ふん…!」
源太郎の言い分は尤もだった。不貞腐れたように田子作は立ち上がり、踵を返す。
「どこ行くだ」
「帰るだよ、もう用は済んだろ?」
「まだ話は終わってない!」
蘭丸が声を張って田子作を引き止める。
「あの男が、私を攫った経緯は…。私はあの男を知らない。だが、あの男は私を知っているようだった」
「そうだな、あの男はお前の至る所を知っているようだった」
蘭丸は顔を顰めたが、その通りだった。
「あの男は、信長に仕えてる時からお前を知っていて、目をつけてただ」
「だからって、何故…!」
蘭丸は口を噤んだ。何故、触れ方まで信長に似ていたのだろうか。まさか、城に忍び込んで二人の褥を覗いたのだろうか。息を潜め、舌の動きが分かる程、間近で。蘭丸は背筋が凍るのを感じ、自分の身を抱きすくめるように肩に手をまわした。いくら考えても、真偽は確かめようもない。男はもう、自らの手で殺してしまったのだから。
「言ってたぜ、あの男、無理矢理犯すより、媚薬を飲ませる方が良いってな。主に見せる痴態は一段と愛らしいってよ」
田子作は蘭丸をはやし立てた。怒った源太郎は田子作に殴りかかろうとしたが、蘭丸に腕にしがみつかれて止められた。蘭丸は源太郎の腕から離れない。
「お蘭…」
「私の住処を、何故あの男は…」
田子作は後ずさる。
「あの男、あの城のてっぺんを、売春宿にしてんだよ。若くて綺麗な、おのこだけのな。身分が割れたくない者だけが行く、極秘の。おら、金がねえから代わりに情報を与えただ。信長の愛した色小姓がいるってな。男はずっと機会を窺ってた。ほんで、協力したおらも、ただでお前を抱かせて貰ったって訳だ」
源太郎が笠を勢い良く投げた。田子作の顎に当たる。
「いってぇ…」
「二度と、てめえの顔なんか見たくもねえ!行っちまえ!」
田子作は逃げるように帰って行った。源太郎は蘭丸を抱き締める。
「お蘭、ごめんな…。お前には、辛い思いをさせただ」
「源太郎様…、淫らだと、お思いにならないで下さいね。蘭を…、温めてください」
蘭丸は広い肩先に、顔を埋めた。
日は既に落ち、橙と夜の色をした空からは丸い月が光っている。蘭丸は月を瞳に映し、源太郎と出会った夜も、月明かりが眩しかったことを思い出していた。
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