妄想、愉悦。





   


 狭い視界に、見慣れた天井。此処は源太郎自身の住まいに他ならないが、いつの間に帰っていたのだろうか。

「おかげんはいかがですか」

 優しい笑顔を向けるこの青年は誰だろう。

「体、痛い…」

 源太郎は声を絞り出す。体だけではない。頭も、顔面も、口の中まで切ったようで、思い付く箇所全てが痛む。

「それだけの怪我だ、仕方あるまい」

 よく通る低い声。部屋の角に、信長が壁に背を預け、片膝を立て佇んでいた。手には小さな独楽を持っている。

「な、なしてここに…!」

 源太郎は手をついて起き上がった。手首や肩に痛みが走る。青年が源太郎の背後に回り、背を支える。

「ご無理をなさってはなりません」

 この青年が信長の付き添い人だったことに気付く。確か、彼は昨夜はあの少年と少年を背負っていた細身の青年と共に下山していた。

「す、すんませんですだ…」

 体を見下ろすと、手首や指、腕にまで包帯が巻かれていた。ゆっくり顔に触れてみると、そこも白い布で覆われていた。視界が狭かったのはこのせいだったのか。

「源太郎殿…、覚えておられますか?」

 青年は丁寧な口調で訊ねた。

「えと…」

 田子作とその仲間に暴行されて、意識が途切れていた。目覚めると、自宅に運ばれて、傷は手当てされていて、目の前に信長がいる。疑問が幾つも生まれ、混乱して言葉を返すのに時間がかかった。

「…手当て、してくれたんですか?」

 青年は申し訳なさそうに目尻を下げながら答えた。

「しかし、そのお怪我、そもそもは昨夜のことが原因では?」

「そげんこと、ねえです」

 源太郎が否定すると、信長が「ほう」と呟いた。

「あの連中…、お蘭のことを知っておったぞ?」

「噂になってましたから」

「噂…」

 信長の目が冷たく光った。まるで、闇夜に走る稲妻のようだ。視線だけの迫力に圧倒され、源太郎は何も言えなくなってしまった。

「源太郎殿」

 青年が沈黙を遮る。

「あの者共に、貴方が庇う価値などありませぬ。優しい貴方にならお分かりでしょう?」

「……」

 力が入らず、指を握れなかった。分かる。あの少年の惨めな姿と、妹に似た泣き顔。どれ程辛い目に遭ったことだろう。けれど、何の罪もない少年にどんなに酷いことをしていようと、あの連中にも守らなければならない存在があった。

「それに、庇いだてはもう無意味です」

「へ?」

「貴方が案ずる者共は、もうおりませぬ」

「なっ……」

 源太郎は頭の中が真っ白になった。ゆっくり、白の中に忠介の笑顔や、田子作の泣き顔、少年の無理やり作った不自然な笑顔が一枚絵のように写し出されては消えてった。

「い、いないって…。おら…、忠介たちに、何て言ったらいいか…」

 悪を成す者が報いを受けるのは然るべきことだ。しかし、その家族に罪はない。まして、忠介はまだ子供だ。寝たきりの母親と弟を養えるはずもない。

「源太郎…」

 信長に呼ばれて顔を上げる。あの鋭い眼光は消えていた。

「お蘭を助けたこと、悔やんでおるか?」

「いえ…。もっと早く、助け出してやりたかったです」

(ああ…駄目だ)

 堪えきれずに涙が零れた。腫れた目尻がしみて痛む。

「何を泣く?」

「自分が不甲斐ないです」

「そうであろうか。汝のお陰で、お蘭は救われた。信長もだ」

「へ?」

 信長は手に持った独楽を指で弾いた。信長の傍らでくるくる回っている独楽は、源太郎が子供の頃、妹の為に木の実で作ったもので、よく遊んだが、信長の方が上手く回せている。

「哀れな者があれば、また救い出してやればいい」

 信長は独楽から源太郎に視線を戻し、続けた。

「恩人に報いることもせず、すまなかった」

 瞳の黒が揺らいだように見えた時、源太郎の涙は止まっていた。まさか天下の信長が、一百姓に詫びを入れるとは思わなかった。

「い、いえ!滅相もないですだ!おらこそ、信長様のお気持ちも考えずに…」

 頭を下げようとすると、首が痛くて上手く出来なかった。

「面白い男よな」

 信長は優しく微笑む。普段の迫力に相反した柔らかい表情に、源太郎の心が綻ぶ。

「き、聞いてもいいですだか?」

「何だ?」

 信長はまた独楽を弾いた。

「あ、あの子は大丈夫ですだか?」

 口にして、曖昧で間の抜けた問いだったと気付く。そもそも、大丈夫とは何だろう。まして、救出されてからまだ一日も経っていない。

「ああ。お蘭は見掛けよりも強い」

 それでも、信長ははっきりと答えてくれた。源太郎の心の錘が一つ消えた。あの子はきっと、もう大丈夫だ。この人が傍にいれば、立ち直ることが出来るはずだ。そう信じられる。

「良かった…」

「そんなに気にされて、源太郎殿は本当にお優しいのですね」

 源太郎が安堵すると、青年は言う。

「いえ、あの子、おらの妹に似ていて、気になっちまって…」

「ほう、お蘭に似た妹か。会ってみたいものだな」

 信長の目が興味深そうに開かれた。

「はい。もっとも、三年前に流行り病いで死んじまったですけど」

「そうか」

 信長はまた視線を独楽に戻した。まだくるくる回っていて、ゆっくり速度を落とし、ころんと転がった。
 不思議な男だ。表情は乏しいようでも、その印象的な目は言葉以上に語り、心情を読める気がする。独楽を見つめる目は、寂しさを紛らわす子供のものようにも見えた。

「それ…」

 源太郎が口を開くと、信長はまた源太郎に視線を戻した。

「妹が一番気に入ってたやつです。けども、おらも、妹も、上手く回せんかった」

「良く出来ているのにな」

「貰ってくれますか」

「良いのか」

 源太郎は頷いた。こんなちっぽけなものを、嫌な顔をせずに受け取ってくれる信長の気遣いが有難かった。
 信長は独楽を懐にしまうと、腰を上げた。隣の青年は立ち上がり、荷物を取る。

「では、我々は帰ります。お見送りは結構。ゆっくり休まれて下さい」

「え…」

「明日から正午に、医師が回診に参ります」

「そげんことしてもらって…」

 青年は穏やかに微笑んで、信長の後を速やかについていった。引き留める隙もなく、家に取り残された。

「いてて…」

 源太郎はゆっくり布団から這い出て、土間に足を下ろす。すると、戸がぴしゃりと開いた。栄二と文太が大荷物を抱えて入ってきた。

「ああ、源太郎、目、覚めただな」

「おめえら、どうしただ?」

 文太は荷物を座敷に下ろした。大きさの割にはさほど重くなさそうだ。

「信長様に頼まれただよ。源太郎が、ゆっくり休めるよう一番上等な布団買って来るようにって。ほら、見てみな。こげんふかふかだ。今、敷いてやっから」

「布団だけでねえ、ほら、米と味噌と、干物まで。それに、銭もたんまりくれただよ」

 栄二は懐から巾着を出し、源太郎に手渡した。ずっしり重たい。そして、源太郎の足下には食料が入っているらしき瓶や袋がある。

「え、おら、こげん、受け取れないだよ。返してくるだ」

「だが、もう信長様は帰っちまったぞ?」

「だが…」

「源太郎…」

 栄二は源太郎の肩に手を置くと、隣に座った。

「多分、これは信長様なりの詫びだよ」

 この二人も、田子作らの行く末を知っているのだろうか。

「おら、気付いたらこげんことになってて。なして、信長様はおらんちに?」

「ああ、供を連れて、田子作らを探しに農場まで来ただよ。源太郎呼び出したまま戻って来ねえから、手分けして探すことになって、ただ…」

 栄二は言葉を詰まらせる。

「ただ、何だ?」

「先にお前を見付けたのは信長様の方だった。まだ、おらたちが探し回ってたら、遣いの男がお前が殺されかけたって知らせてくれて、田子作らのことを聞いたら、もう捕らえたって言ってて、でもおら、お前のことが心配で、それ以上は聞いてないだ」

 栄二は源太郎の肩に手を置いた。

「お前、血だらけで顔も真っ青で…死んだかと思ったけど、生きてて良かったな」

「すまね、心配かけて」

「いいだよ。そいで、源太郎の家、聞かれたから案内しただ。したら、家ん中、荒らされてた」

「荒らされた…?」

「ああ。尤も、ものがあんまねえけどな、鍋とか、布団とか、服とか散らかってただ。多分、田子作らが荒らしたんだろうって」

 何処に仕舞っていたかも分からない小さな駒を信長が手にしていたのはそのせいだったのか。源太郎は納得して、栄二に返す。

「ああ。田子作、おらが急に訪ねて来たもんだから、あの子を隠したんだとおらを疑ったらしい。何か、おらんち探したみたいなこと言ってただ」

「しかし、顔見知りを殺そうとするなんて、おっかねえな。あいつはいけ好かん奴だったが、そこまでするとは思わなかっただ」

「ん…」

 本当にもういないとしたなら、田子作はどんな気持ちでこの世を去ったのだろう。あの少年に対する執着心だけでなく、残した家族のことも考えていたのだろうか。

「源太郎、これ、何だ?枕元に置いてあっただよ」

 布団を替えた文太が小さな包みを手渡す。忠介から貰った菓子だった。懐にしまっておいたのを、手当ての際に見付けて取っておいてくれたのだろう。中を開くと、何粒か砕けていた。源太郎は、一粒口に放って、中で転がす。唾液が染み込むと舌で簡単に潰れて溶けてしまった。
 忠介の笑顔を思い出すと同時に、信長の言葉が過った。

『哀れな者があれば、また救い出してやればいい』

 あの笑顔を失ってはならない。きっと、自分にだって何かが出来るはずだ。

「田子作の家、行って来る」

「行くって、何時?」

「今」

「え?この怪我でか?」

「うん。連れてってくれ」

 友人らは、呆れたような顔で笑った。

「仕方ねえ奴だな」

「悪い。何か礼するだ」

「礼ってなあ…、おらたち、この村一番の銭持ちだぞ?」

「違いねえ」

 源太郎は、背負われ、住まいを後にした。






「重てえ、栄二、交代だ」

 源太郎を背負い、立ち止まった文太が言った。栄二はそっぽを向きながら返した。

「おらの方が沢山歩いただぞ」


「だが、おらは上り坂ばっかだ」

「もう平地になってるべ。それに、田子作の家はすぐそこだ。歩け歩け」

 三人の中で、源太郎は一番体格もいい。申し訳なくなった源太郎は文太の頭上から口を挟んだ。

「すまね、もうすぐそこだし、自分で歩くだよ」

「馬鹿言うな、両足とも怪我してるだぞ」

「そうだ、黙って背負われとけ」

 二人とも凄い剣幕で言い返すと、同時に歩き出した。

 田子作の住まいがある集落に着くと、源太郎を背負ったままの文太が足を止めた。

「おい、見ろよ、あれ」

 文太の視線を追いかけると、見知らぬ若い女が居た。

「見かけねえ女だな」

「ああ。しかもいい女だ」

 確かに、女の顔立ちは整っていたが、こんな寂れた村に不釣り合いな身なりをしていたことが気になった。唇には紅を引き、髪には飾りの付いた簪を挿し、真新しい色鮮やかな着物は動き易いようにか裾が短くなって、裾よりも長い前掛けを腰に巻いている。女は井戸で水を汲み始めた。
 文太は先よりも歩調を速めて、、女の前で立ち止まる。女が桶を掴もうと前屈みになると、裾が持ち上がり、白い腿がむき出しになった。源太郎は女の後ろ姿に釘付けになっている文太の頭を叩いた。

「いでっ」

 文太の声に、女は振り返った。細腕で軽々と水桶を持ち上げ、今度はしゃがんで手持ちの桶に水を移し変えた。片膝を立てているせいで裾が割れ、更に際どいことになっていた。

「…前掛けが邪魔だな」

 文太の呟きに、もう一度源太郎は頭を小突いた。その様子を見て、女は笑い、立ち上がって裾を直して向き合った。

「源太郎様ですね?」

「へ?」

「それから、栄二様に、文太様…ですね?」

「ああ」

「どっかで会っただか?」

「いいえ。源太郎様は何れ此処を訪ねて来ると、話は聞いてます。まさか、今日来るとは思いませんでしたが」

 女は歩み寄り、濡れた手で源太郎の頬に触れてきた。

「正直なところ、驚きました。こんな人、本当に居るんですね」

 女の指先が、唇に触れそうになり、源太郎は咄嗟に顔を背けた。女は気を害したのか、一瞬だけ自分の赤い唇を噛み、距離を取り井戸端へ引き返す。

「挨拶が遅れました。私はかや。茅葺き屋根の茅です」

 三人とも殆ど字を知らない。茅はしゃがんで、小枝で『茅』と書いた。茅は動作が雑で、膝を開いている為に股間だけを前掛けが隠し、内腿がむき出しになっていた。年頃の娘が大丈夫なのだろうかと源太郎は思ったが、案の定栄二も文太も地面ではなく彼女の脚ばかりを見ていた。源太郎は呆れ、もう文太の頭を小突く気にもなれなかった。

「で、お茅はなしてこんなとこにいるだ?」

 源太郎が訊ねると、茅は立ちあがり、裾を雑に直した。

「私は信長様からこの村に住む気の毒な兄弟の世話をするように命じられました」

「兄弟って、忠介たちのことか?」

「そうです。ところで…、今日はお引き取り願えませんか?」

「へ?」

「気になることが沢山あるでしょうけど、私、これから夕餉の支度をするので。話なら改めて私の方からしますから」

「いや、そげん…」

 源太郎の言葉を茅が遮る。

「そんな怪我をした姿を忠介様たちに見せたくないって言ってるんです。さっさと帰って下さい」

 確かにその通りだ。兄が居なくった同日に、源太郎までもがこの状態では却って忠介らの不安を煽ることになる。源太郎は引き下がることにした。

「分かっただ。怪我が良くなったら、また来るだ」

「いいえ。私から伺います。すぐに」

 茅は桶を持ち上げ、歩き出すと、顎で三人を追い払うような仕草をした。

「茅ちゃーん」

 忠介が走り寄って来る。源太郎は文太を促し、物影に隠れて、覗き込む。
 忠介は人懐っこい笑顔で茅の脚に抱き付くと、茅は桶を持ったままもう片方の腕で忠介を抱き上げた。忠介は嬉しそうに茅の肩にしがみつく。やはり、見かけと違って力がある。

「米、とぎ終わっただよ」

「では、次は山菜を洗いますよ」

「分かっただ」

「忠介様は何がお好きですか?」

「嫌いなもん、ないだよ」

「それは作り甲斐がありますね」

 会話はすぐに聞こえなくなってしまったが、茅は忠介らの中に上手く入り込めたのは分かった。自分らに対する話し方とは全く違った優しい声になっている。それはとても自然で、偽りのないもののように聞こえた。

「帰るか」

 源太郎は、二人が過ぎ去るのを見届けて友人二人に告げた。







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