玖
昨夜は殆ど眠れなかった。源太郎は空が明るくなったと同時に家を出、目的地へ向かった。
田子作の住まいは仕事場に程近い集落にある。源太郎の住まいとは異なり、家屋が密集する地帯だった。近隣の者が共同で使う井戸で、子供が水を汲もうとしていた。子供は源太郎に気付くと、手を振った。
「源太ー」
「忠介」
源太郎は手を振り返し、駆け寄る。忠介は田子作の年の離れた弟で、まだ働ける年齢ではないが、家の手伝いや、体の不自由な母と弟の世話を甲斐甲斐しくしている。
「お早う、源太。久し振りだな」
「そうだな。ちっと見ない間に大きくなっただな」
忠介は嬉しそうに笑った。この様子だと、まだ変わりないようだ。
「今日は、どうしただ?遊んでくれるだか?」
忠介は期待に瞳を輝かせた。
「いや、おら、仕事があるだよ。今度、雨降ったら遊びに来るだ」
「ほんとかっ?約束だぞ?」
「ああ、約束するだ」
「嬉しいだよ。最近、兄ちゃんは雨でも仕事行ってるから、つまんなかっただ」
「え?雨の日もか?」
忠介は寂しそうに頷いた。源太郎はすぐに分かった。田子作は、あの少年のもとにいたのだろう。こんな小さな子を放っておいて。
「なあ、兄ちゃんはどうしてる?」
「兄ちゃんなら、仕事に行っただよ」
「もう?随分早いだな」
「うん。最近、ずうっとそうだ。朝は早いし、夜は遅い。でも、最近はずっとにこにこしてて、忙しいのに元気そうだ。それに、よく、んまいもの土産に持ってきてくれる」
忠介は一気に語り、ぽんと手を叩いた。
「ちっと待ってな。今、源太にもやる」
「え?」
忠介は家の方へ走って行った。源太郎は置き去りの桶に水を汲み、それを持って忠介の住まいへ向かう。ちょうど、忠介は包みを持って屋内から出てきたところだった。満面の笑みで源太郎に駆け寄る。兄に似ず、相変わらず無邪気で優しく愛くるしい。源太郎は桶を置いて忠介を抱き上げた。
「これ、源太にもやる」
「ん?」
源太郎は片腕で小さな体を抱え、もう一方の手で包みを受け取った。小さな塊が数粒収まっている。
「何だ?」
「兄ちゃんの土産」
忠介は源太郎の手から一粒取って、源太郎の口へ放った。舌に触れると甘く、噛むと簡単に砕けた。
「旨い」
「だろ?源太にやる」
「有難うな。でも、これは兄ちゃんが忠介にくれたもんだ。大切に食べな」
「ううん。源太にも食べて欲しい」
忠介は包みには触れず、源太郎の肩にしがみついた。
「なあ、雨だったら、ほんとに来てるれよな?」
「さっき約束したでねえか。来るだよ」
「勘吉も喜ぶだ」
勘吉は忠介の下の弟で、忠介と同じく源太郎になついていた。
「勘吉は?」
「寝てる。おっ母も」
「そっか。偉いだな、忠介は」
源太郎は忠介の体を下ろした。菓子の包みを懐へしまう。
「有難うな、忠介。また雨の日にな」
「うん、待ってるだよ」
手を振る忠介に見送られながら、源太郎はそのまま農場へ向かった。
予想はしていたが、田子作は仕事には出向いておらず、あの少年を探し回っていると栄二が教えてくれた。
昼になり、いつものように栄二や文太と昼食を取っていると、田子作が源太郎の前へやってきた。挨拶もなしに唐突に話題を振る。
「なあ、お前らも知ってるだな?」
「ああ、お前らが拐かしたお小姓のことだな?」
栄二が答える。農場では殆どこの話題が広まっている為、知らない振りをするほうが不自然だった。
「人聞きの悪いこと言うな。おらは匿ってただけだ」
田子作の物言いに、源太郎は表情に出そうになった。誤魔化す為に下を向いて弁当を食べ続ける。
「そりゃ悪かっただな。で、そのお小姓、逃げ出したんだべ?」
「いや、外から鍵が壊されててな、誰かが連れ出したんだと思う」
「そうなんか。それは心配だな」
「ああ。朝から探してるんだがな。おめえたち、知らねえか?見かけねえからすぐ分かると思う。細っこくて女みてえな顔してる」
「知らないだよ」
「おらも」
文太もついでのように答える。田子作は屈んで源太郎の顔を覗き込んだ。
「源太郎、おめえは?」
田子作は、明らかな疑いの目を向けていた。
「知らん」
「そっか」
田子作は腰を真っ直ぐにした。源太郎を覆っていた影が消える。
「源太郎」
「何だ」
源太郎は顔を上げず、食事を続けたまま返事をする。
「話がある。ちっと来てくれ」
「おい、源太郎は知らねえって言ってるだろうが」
栄二が荒立った声で口を挟んだ。
「お小姓のこととは関係ない、個人的なことだ。来てくれるよな?」
関係ないことはないだろうと源太郎は心の中で呟いた。最後の握り飯を口に押し込んで、源太郎は立ち上がる。
「分かっただ」
「ああ。じゃあ、源太郎借りるぞ」
心配そうに見上げる二人に作り笑顔を送り、田子作の後をついていく。
農場から歩くこと数分、山間の人気のないところで、田子作は立ち止まった。其処には農具が幾つか置いてある。
「悪いな。人に聞かれたくない話だし、此処に道具置いたままだったから、ついでに取りに来た」
田子作は農具を手にし、感情がのっていない笑顔で振り返った。
「で、話って何だ?」
「おめえ、今朝、おらんち来たらしいだな?一体、何の用だったんだ?」
「別に、おめえんちの近くで用があっただけだ」
「用って?」
そこまで考えていなかった。あの近辺で親しい間柄なのは田子作の弟くらいしかいない。
「お前に関係ない」
「ふん…。おらな、お前のこと、疑ってるだ」
「お小姓のことか?」
「お前にしちゃ察しがいいな。やっぱ、知ってるだな?いや…」
田子作は源太郎に向かって農具を振り落とした。衝撃によろけて、空が見えた。仰向けに地面に体が叩きつけられると、田子作が馬乗りになり、源太郎の胸ぐらを掴んだ。
「おめえが連れ去ったんだろ」
「は?…いでっ」
頭がずきずきと痛む。頭皮を切ったらしく、血が流れて、側頭部を伝い落ちる。
「しらばっくれると、この石頭今度こそ叩き割るぞ」
「違う!おらじゃない!」
「こいつ…」
田子作の目が血走っている。田子作の中では答えは一つ。それ以外は聞き入れるつもりはないようだ。すると、何か気付いたように急に顔色を変え、卑しく笑った。
「源太郎、あいつを引き渡したら、お前にも抱かせてやるだよ?」
「お前、何言ってるだ?」
「一人占めはよぐねえ。もともと、あいつを火の中から救いだしたのはおらたちだ」
目の前にいる男の言葉がすぐに理解出来なかった。救い出したという科白と、あの少年の哀れな姿が繋がらない。
「ぐあっ」
田子作のうめき声に気付く。自分の拳が、田子作の顔面を突いていた。田子作は後ろに倒れ、源太郎は起き上がった。
「何すっだ!」
「何が救うだ!散々傷付けた癖に!」
「やっぱり、お前だっただな!あいつを何処へ隠した!」
田子作は、農具を掴んで振り切った。源太郎は避けることが出来ず、鳩尾を強く打ち、蹲る。
「言え!」
田子作が源太郎の襟を掴んで、強引に持ち上げた。源太郎はゆっくり呼吸を整えて、口を開く。
「信長が…連れて帰っただ」
田子作が目を大きく見開いた。驚きを隠せず、その目の形のまま口角だけを上げた。
「そんな訳、あるか。なして、あいつの居場所」
「おらが教えた…。信長は、必死であの子を探してた」
田子作の口角は、もう上がっていなかった。変わりに、目頭が鋭く持ち上がる。
「なしてそげんことするだ!あいつは、あいつはああああ!」
つんざくような叫声を上げながら、田子作は源太郎の襟を掴み、揺すった。頭や視界がくらくらする。源太郎は手首を掴んで制した。
「止めろ、田子作!」
「あいつは、あいつは…」
ぽつり、と言葉が零れていく。
「おらの、たった一つの拠り所だったのに…」
田子作は泣いていた。
「拠り所…?」
「そうだ、お前が奪った!」
「拠り所じゃなくて、捌け口の間違いだろ?」
「同しことだ」
「全然違うだ!お前、どうかしてるぞ?だいたい、お前には大事な大事な家族がいるだろ?」
田子作は俯いて押し黙る。そして、震える声で答えた。
「一人で身軽なお前にはわかんねえよ」
「確かに、一人で家族を背負っていくのは大変だが、忠介たちは、お前の支えにもなってるだろう?」
「負担だ…」
水を汲む小さな忠介の姿が過る。
「そげんこと言うな!」
「煩い!おらが、家族を大事に出来たのも、拠り所があったからだ!やっと見付けたのに、あいつが居なきゃ、おら、おら…」
源太郎の手から腕を抜き、田子作は頭を抱えた。
「嫌だよ、おら、どうしたら…」
「田子作…」
田子作のあの少年に対する執念は凄まじいもので、源太郎は掛ける言葉が見付からなかった。我が子同然に育てた幼い弟よりも、会って間もない存在が大事なのか。しかも、拒まれていたにも関わらず。源太郎は理解出来ずにいたが、同時に憐れみの感情も生まれていた。
「な、ほんとのほんとは、お前が隠しちまったんだろ?あいつが可愛いから」
今度はすがり付くようににじり寄る。
「違うだ、本当に信長が…」
「もう、お前の手元に置いといていいだよ、だからさ、会わせてくれ…」
田子作は考えることを拒否していた。源太郎は横っ面をひっぱたく。ぱあん、と乾いた音が鳴り、田子作は横に倒れた。源太郎は立ち上がる。
「いい加減にしろ!」
そう叫んだ頃、背後で足音がした。振り返ると、田子作の仲間たちがぞろぞろとやってきた。気付いた一人が、倒れた田子作と源太郎を交互に見て、慌てて駆け寄る。
「田子作、大丈夫だか!」
田子作は腫れた頬を押さえながらゆっくり起き上がった。
「やっぱり、源太郎だったか?」
問い掛けに、田子作は頷いた。
「でも、源太郎んちには誰もいなかっただよ」
田子作はすぐに返す。
「ああ。こいつ、隠し場所を言わないだ」
「おらは隠してない!」
「そげんこと言って、逆上して殴ってきただ」
源太郎の言葉を無視して、田子作は都合のいい言葉を並べた。田子作の仲間が一斉に源太郎に向き直り、にじり寄る。
「おい、どう言うことだ」
「あいつを独り占めする気か」
「一人で楽しむつもりだったんだろ」
距離を詰められ、拳がとんできた。源太郎の体は倒れ、沢山の足が目の前にあった。足と足の間から残酷に笑う少し遠くの田子作の顔が見えた。
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