拾伍
感情の処理が追い付かずにいた。恐怖、絶望、戸惑い、悦び、幸福が、蘭丸の中を巡り巡って行った。どれも共存しているのに、今蘭丸の手に余ってしまうのは、味わったことのない多幸感だった。
信長の温かく大きな掌が、蘭丸の肌を撫でる。丁寧な動作で傷薬をなじませ、真新しい包帯を巻かれた。手足は終わり、胸と肩と背を、一本の長い布で、上手に点在する傷を覆われ、結ばれた。
「苦しゅうないか?」
「はい、有難うございます」
蘭丸が礼を告げ、下着に手を伸ばそうとすると止められた。信長は、蘭丸の尻に手を当て、間に指を滑り込ませた。他の傷と同じように、塗り薬を擦り込まれると、信長が入り込んだ時に出来た裂け目がずきりと痛む。
「終わった」
「有難うございます」
次第に、結合部の傷の疼きは和らいでいった。蘭丸はもう一度礼をして下着を肌に着けた。
背後から強引に捩じ込まれた瞬間、あまりの痛みに恐怖心で一杯になったのは事実だった。しかし、信長の存在感は他の男の比較に全くならなず、直ぐに信長を迎えた充実感に恐怖心は覆されてしまった。相対する気持ちの共存に戸惑った。意図せず他の男を知ってしまったことでの経験。しかし、信長はこの後更に蘭丸を満たして、それはまだ溢れていた。
気が緩むと、直結しているかのように涙腺から零れ落ちてしまいそうだ。蘭丸はひりつくまなじりを持ち上げながら、清潔な浴衣に腕を通した。
「……」
蘭丸が着替える姿を、信長は布団の上で見ていた。信長は先に体を拭いて、着替えも敷布も新しいものに替えている。蘭丸は、浴衣の帯を結んで信長の前に腰を下ろした。まだ信長の肌はほんのり赤く、額に手を当てると熱い。
「信長様、今少しお休みになって下さいませんと」
「否…、汝に渡しそびれたものがあってな」
「私に?」
「うむ」
薄汚れた小さな巾着を信長は手渡した。中には小石のように硬い感触がある。
「開けて見ろ」
「はい」
蘭丸が紐を解き袋を逆さにすると、中身がころんと掌に転がる。木の実で作られた独楽と見覚えのある飾り紐だった。
「これ…」
信長は蘭丸の手から紐を取る。
「結んでやる」
「は、はい」
蘭丸はくるりと信長に背を向けた。信長は両手で蘭丸の髪を掬い、手櫛で整えながら結び上げた。うなじを毛先が擽っている。
小さな独楽をのせた掌に、ぽたぽたと雫が落ちる。香炉と引き換えに奪われた飾り紐。香炉は壊されてしまったけれど、蘭丸のもとに戻って来てくれた。
「出来た」
信長は蘭丸の肩に手を置いて体を向き直した。蘭丸は目を擦って顔を上げる。
「やはり似合うな」
信長は飾りの部分を撫で、満足気に笑った。
「有難う御座います」
蘭丸も頭上の飾りに触れた。つるつると懐かしい感触と形に、また目頭が熱くなる。
「取り戻せるなんて、本当に夢みたいです」
蘭丸は信長にしがみついた。折角着替えた信長の服に涙が染み込んでゆく。
「そうか」
「けれど、どうして?」
「一文が寄越して来た」
「鬼河原様が?」
「うむ」
信長は、本能寺から命からがら逃げ延び、鬼河原の領地であるこの宿で匿われ傷を癒した。
鬼河原一文は領民から慕われており、信頼も厚い。信長との強い絆も知られていたことで、此処の宿主から手厚い庇護を受けることが出来た。
そして、毛利と和睦を結び中国から大軍勢を引き連れた秀吉が明智を討ったのは、ほんの数日前。信長は、合流する前に秀吉に安土に戻る事を命じた。そして、代わりに長興を迎えに来させた。これは、長興が反旗を翻さないことが確たるものだったからだと予想が着く。秀吉も信頼の置ける人物ではあるが、同様に忠臣だったはずの光秀が裏切ったのだ。そして、秀吉は若輩の長興よりも多大な力を持っている。丸腰の信長を簡単に潰し、生存していた事実をも消し去り、今まで信長が築き上げて来たものを取って代わることが出来てしまえる程に。蘭丸が聞き及び、察していたのはここまでのこと。信長は、蘭丸を救出する迄の経緯を話してくれた。
本能寺での出来事は、京から程近い安馬田をも揺り動かしていた。信長は本当に死んだのか、これから情勢はどうなるのか、今度こそ戦に巻き込まれてしまうのか。領民は不安と動揺を抱いたまま日々を過ごしていた。
そんな最中、街一番の質売りに不自然な客人がやって来た。見た所、普通の仕事着姿の百姓で、訛りを聞いても余所者ではない。その客は、不相応な上物を幾つも売りにやって来た。毎朝足しげく両手に抱える分だけ持ち込み、金に換えると予想を越える高額だったのか気分良く帰って行った。質売りの店主は逸品に気を良くしたが、宝物が増える度に不思議に思った。最初、客に訊ねると、『通りすがりの老人を助けた所、礼にと宝をたんまり戴いた。しかし、百姓風情では物の価値なぞ分かるはずもない。ならば、売り払って金に替え、家族に贅沢させてやりたい』と、殊勝なことを言っていた。しかし、どれも見事なものであればある程不自然で、そして仕舞う箱もなかった。わざわざ箱を捨てるのは、贈り主と持ち主の印を消す為か。盗品か問い正そうとしたが、その日から客は来なくなってしまった。困った店主は、領主に相談した。もともと、街一番の質売りだったこともあり、献上品の相談役や目利き人としての依頼を受けたこともある。実行出来るまで、それ程時間はかからなかった。
「気付いたのは、掛軸。一文は対の物を安土で見ていたからな」
信長は淡々と告げながら、蘭丸の頭に手を伸ばした。
「そして、この琥珀だ」
「もともと、これは鬼河原様が下さったものでしたね」
蘭丸の結わえの飾り玉の琥珀は織田と鬼河原が手を組んだ時、その証として献上された物だった。
「そうだ。一文からその報せを聞いたのは、ちょうど長興らと合流した時だった。直ぐに探しに出向いた。汝の行方を知る唯一の手掛かりだったからな」
あんな風に宝を奪われていなければ、あの薄暗い場所で辱しめられ続けて、信長に会うこともなく死んでいたかも知れない。また少し、暗い気持ちが芽生えた頃、小さく素早い足音が聞こえた。
「お館様」
唐突に、戸の外で長興が声を掛けてくる。蘭丸はどきりとして、信長から身を離した。
「何だ。開けても良いぞ」
「失礼致します」
長興は戸を開けた。
「清澄殿が参られました。秀吉様から書簡を預かったそうです」
「すぐ行く」
信長は立ち上がった。清澄とは誰だろうか。聞き覚えがない名だ。
「長興、汝はお蘭と此処に居ろ」
「はっ」
信長は寝間着姿のまま部屋を出て行った。わざわざ自分で戸を閉めて。長興は、窓辺に行って腰を下ろした。窓枠に肘をついて、外を眺めている。
「長興様」
「何だ?」
「清澄殿とは何方なのですか?」
「ああ、鬼河原の使いの者だ。一文様が大きく動けば直ぐに見付かってしまう故、清澄殿が伝達係をしている」
「鬼河原様の…。では、私にとっても恩人ですね。直ぐにお礼を…」
「待て、蘭殿」
長興は声を少しだけ荒げた。
「礼はまた改めて、一文様に直接伝えた方が良い」
「それはそうですけれど、清澄殿だって恩人です」
「お館様は、極力蘭殿と清澄殿と引き会わせたくないのだ」
「何故ですか?」
「清澄殿は、極度の少年愛者だからだ」
「え?」
「しかも、それを隠しているくせに、滲ませている。お館様はそれが気に入らないのだ。最も、有能で間者としての腕は確かだがな。だから、重要な任は清澄殿に任されている」
「そうなのですか?」
「蘭殿、何故、鬼河原が少ない領地に関わらず、領民に慕われながらも、豊かでいられるか知っているか?」
「言われてみれば…。存じませぬ」
民から高額な税をせしめている様子はない。安馬田の百姓は皆体が大きかった。食う物には困っていない証拠だ。
「清澄殿は鬼河原に代々仕える忍びの一族の長でな、領主との信頼関係も確かなもの。さっきも言ったように腕は超一流だ。人の好い一文様は操り人形で、清澄殿が鬼河原を牛耳っているのかも知れぬ」
「何故に?」
「安馬田の広大な城の一角で、少年の売り買いが行われているらしい。しかも、清澄殿が育て上げた間者として仕込まれた極上の美少年たちだ。少年らは、物凄い破格で各国の大名達に買い取られ、各所に点在し、暗躍しているらしい。だから鬼河原の財政は常に潤っているし、小さい領地ながらも安泰なのだと」
「何だか、物語みたいですね」
「ああ。私もお館様の冗談だろうと思った。しかし、真実もあるはずだ。清澄殿を見てそう思った」
「清澄殿とは、どんな方なのです?」
「一文様に同行することが多いから、安土に来たことも数度あるのに、滅多に姿を見せない。私も、数日前にお館様からの書簡を受け取った時、初めて会った。頭の切れそうな男だ。それに、年は若いが、お館様に少し似ている」
「信長様に…」
「ああ。背丈と、特に声がな」
奇妙な噂は兎も角、信長に似ていると聞いて、少し見てみたくなった。長興は、自分の隣をとんと叩いた。蘭丸はそこに座り、長興と並んで窓枠に手を置く。
門に見送りに来たらしい光郎が現れた。すると、商人のような姿をした男女が現れた。
「あの方が清澄殿ですか?隣の女性は…」
「否、あれも少年だろう。清澄殿が育てた」
光郎に見送られ、二人は門をくぐる。数歩進み、くるりと此方を見上げた。娘の姿をした少年は一瞬息を飲む程に整った顔立ちをしている。しかし、それ以上に、鼻から下を隠した清澄の顔から目が離せなかった。あらゆる欲望を取り巻くような目付きをしている。蘭丸を拐かした連中と同種であり、それ以上に強い視線に、体の芯まで凍り付いてしまいそうだ。
恩人なのだから会釈の一つでもするべきだったのだろうが、蘭丸は耐えられずに身を隠してしまった。
「やはり若い方が良いのか。蘭殿ばかり見ていた」
まだ外を眺めている長興が呆れるように呟いた。
「長興様、嫌ではないのですか?」
「勿論嫌さ。人を値踏みするような目付き、失礼極まりない。それにあの隣の。よほど清澄殿にご執心なのだろうな、敵意剥き出しで睨んでいたぞ」
華奢な長興はまだ少年と言っても不自然ではない外見をしている。同様の視線を送られたはずなのに、長興は清澄の欲望の本質に気付いていないようだ。それに気付いた信長は、小姓だった長興を会わせまいとしていたのだろう。機会があれば隙を見て手に掛けてしまうことも厭わない、そんなことを予測させてしまう程、欲深い濁った目。蘭丸だって、あんな目に遭わなければ気付かなかった。
「蘭殿?」
長興が心配そうに見詰めてくる。たった数分前包まれていた温もりが去り、心が冷えてしまっている。己は何と弱いのだろう。
「どうしたら、蘭は信長様を幸せに出来るのでしょう」
口にしてから、何て高慢なことなのだろうと思ったが、長興はまじまじと考えていた。
「やはり、体でお返しするのが一番の近道だろうな」
「真面目に聞いていますのに!」
「真面目に答えたつもりだが。蘭殿は、私が知る限り、一番優秀な後輩だ。だが、今お館様が求めているのは、優秀な小姓殿ではない。蘭殿だって、知っているはずだ」
長興が蘭丸の頭を撫で、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。そうだった。この人は、それが出来る人だった。体で、そして深い愛情で相手を包み込んで、この上ないお返しをくれる。自分にも出来るだろうか。再度窓の外を眺めると、二人の姿はなくなっていた。
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