妄想、愉悦。





  


 体がくすぐったい。蘭丸は肌にたかるものを手で払う。すると、ぐいと捕まれた。

「痛…」

「ああ、すまない」

 無意識に漏れた自分のささやかな悲鳴と夜叉丸の詫びに、蘭丸は目をぱちりと開けた。自分の手首を掴む白い手が見える。

「目が覚めたか?」

「え?」

 夜叉丸が上から覗きこむ。目が覚めたと言うことは、また眠っていたのだろうか。いつの間にか布団の上に横たわっていた。

「わ、私…」

 起き上がる。支えにした手が痛む。そして、頭がくらくらする。

「蘭殿」

 ふらりとよろけそうになる上半身を支えられ、密着したまま抱き寄せられる。

「急に起きては駄目だ。頭に血が回らないからな」

「はい」

 ゆっくり身を離すと、白い首筋に赤い痣を見付けた。そのしるしに目を奪われたまま、体が離れ、夜叉丸の整った顔が視界に入る。

「では、手当てを再開するぞ」

「手当て?」

 夜叉丸がもう一度蘭丸の手首を取った。指が腫れ上がっている。浴衣は腕を通しておらず、肩に掛かっただけで殆ど肌を露出させていた。至るところに噛み跡と内出血が残っていた。内腿や二の腕の柔らかい肌の痣は黒ずんでいた。
 信長に噛まれて、吸われて、のぼせてしまった。結局、信長の背中を流し終えていない。役目も果たせずに慰められて意識を失ってしまうなんて。不甲斐なさが悔しく、同時に湯気の中の信長の艶っぽい姿が浮かび上がり、肌が熱くなる。

「こ、これは、わざわざ手当てをしていただくようなものでは…」

「蘭殿の傷の手当てをするようにと、お館様の命だ」

 夜叉丸は蘭丸の手に包帯を宛がった。

「…先はすまなかった」

「え?」

 詫び入れをしながら、夜叉丸は蘭丸の指に包帯を巻いた。光郎が言っていたように、気にしていたらしい。

「いえ、謝らなければならないのは私の方です。己しか見えず、役目を放棄するところでした」

「そんなことはない。私は、お館様が心配で、けれど、私ではどうにもすることが出来ず、傷付いた蘭殿にすがっていた。蘭殿の状況も知っていながら、酷いことを言ってしまった」

「違います。私達は、信長様あってこその存在です。そのお陰で私は役目を思い出しました。まだ果たせてはいないですけれど、私は、信長様の支えになれるよう、精一杯尽くします」

「……」

 包帯を箱に置き、夜叉丸がじいっと見詰めてくる。眼差しに迫力がある。

「立派だな、蘭殿は。安心した」

「いえ、夜叉丸殿にはまだまだ…」

 夜叉丸は、肩に掛かった蘭丸の浴衣を下ろした。信長が噛んだ肩の傷が空気に触れ、疼く。

「私は、痛いのは嫌いだ。お館様は知っているから、私を抱いて下さる時は、いつだって優しかった。蘭殿はそうではないのか?」

「え?」

「痛いのは好きか?」

「す、好きじゃないです!」

 否定しても、夜叉丸に納得した様子はない。嘘にならない言葉を選ぶ。

「あ、あの…。蘭は、信長様が与えて下さるならば…、痛みも享受致します。けれど、決して痛みそのものが好きなのではありません」

「けれど、こんなのはあんまりだ」

 夜叉丸が出血箇所に触れると、ずきりと痛んだ。

「私が望んだことですから」

「噛まれることをか?」

「信長様の感情を鎮めて戴きたくて、そう伝えたら、こんな形に」

「そうか」

 長興は納得したように笑みを作り、箱に手を入れ、軟膏の容器を取った。

「可笑しいですよね。あの廃寺で、私は何度も痛い思いをしました。けれど、肉体的には信長様に噛まれた傷の方が深い。それでも、私は幸せで」

「ああ。表情が全く違うな。それだけ強く、蘭殿がお館様を想っているから…」

 夜叉丸の言葉が途切れる。

「もう一度言うが、私は、痛いのは嫌だ。痛くては、起っていたものも萎えてしまう」

 上品な顔をしていながら、随分はっきりとした物言いだ。蘭丸は気恥ずかしくなって俯いた。一瞬、夜叉丸のくっきりとした痣が視界に入る。色白な夜叉丸には目立つが、蘭丸の持つ色よりもずっと淡い。
 先も信長様に優しくされたのですか?蘭丸は喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。

「これですら、痛い」

 長興は襟を広げた。薄い胸板に点々と吸い跡が散らされ、赤く腫れた乳首は一際色濃く目を引いた。夜叉丸は嫌と言いながら、いとおしそうに視線を落としている。
 風呂に入った時にはなかった色。蘭丸がのぼせて、眠っていた間に、信長があの綺麗な体に刻んだのだろうか。動揺する蘭丸に気付くことなく、夜叉丸は続ける。

「私では知らない連中から受ける痛みも、お館様が与える痛みも耐えられない。私は弱い」

 夜叉丸は顔を上げ、蘭丸を見つめた。

「だからな、蘭殿。私では、お館様を受け止めきれない」

 噛まれた胸がよほど痛かったのだろうか。薬でも塗られたのか艶々と光り、出血したらしい根元は瘡蓋になっている。

「夜叉丸…」

 名を呼ぼうとすると、夜叉丸は蘭丸の口を掌で塞いだ。

「違う。もう、小姓の夜叉丸ではない」

 すっと手を離す。

「長興様…」

 新しい名前を口にする。ちっともなじまずにいて、何だかくすぐったい。しかし、長興は嬉しそうに笑っていた。

「不思議だ。蘭殿に呼ばれると、本当に夜叉丸が解放された気分になる」

 長興は、手当てを再開した。何かを吹っ切ったように清々しい表情をしている。

「長興様」

「何だ?」

「新しい名前を呼ぶ練習です」

 蘭丸の答えに、長興は変わらない笑みを浮かべた。それとは裏腹に、きっと今、自分はぎこちない表情をしているだろう。
 眠っていた間のことが気になるけれど、こんな状況でもなおこの人に対して嫉妬していることを悟られたくはない。

「蘭殿」

 長興は顔を近付けて、蘭丸の肌に軟膏を塗り始めた。

「何故、お館様が私に蘭殿を委ねたのか分かるか?」

「それは、長興様が日頃私にも親切にして下さっているから…」

「それもあるだろうが違うな。教えてやろう。私ならば、蘭殿に欲情することが絶対にないからだ」

「ひゃっ…」

 長興の指が蘭丸の乳首をなぞった。溢れる声に、蘭丸は包帯が巻かれた手で口を抑える。

「酷く腫れているな。此では服が当たるだけで痛むだろう。腕を上げていろ」

 長興は包帯を蘭丸の胴体に巻き付けた。長興の手当ては丁寧で、終えた頃には蘭丸の肌の大部分を白い布が覆っていた。重症を負ったような姿になっている。大袈裟な気もするが、包帯からはうっすらと血が滲んでいる箇所もある。信長に与えられた傷の深さを実感する。

「関節は曲げられるか」

「はい。この通りに」

 長興の問いに、蘭丸は手首を曲げて見せた。まだずきずきと痛む。蘭丸は浴衣を着ながら、長興に訊ねた。

「あの、信長様は…」

「ああ。皆を引き連れて、出掛けられた」

「お出掛け…?どちらに?」

「何も言わず出られたから本当のところは分からぬ。出立は明後日にとのことだから、明日には戻られるだろう」

「……」

 どうして眠ってしまったのだろうか。傍にいた信長が、こんなにもすぐに離れてしまうなんて。不安感が胸を覆いつくす。

「情けない顔をするな。今生の別れでもあるまいし。お館様はすぐに戻って来る。それまで、蘭殿はここで安静にして、私と一緒に待っていて貰わねば」

 長興は襟を整えて、蘭丸の隣に横たわった。

「ああ、つまらぬ」

「何か?」

「いや、何でもない。ここで眠っても良いか?」

「どうぞ。私は充分睡眠を摂りましたから」

「そうか。私が眠っているからと言って、私の傍を離れるなよ?」

 長興は横になったまま、蘭丸の服の袖を掴んだ。

「大丈夫ですよ」

「部屋を出て良いのは厠の時だけだからな」

「畏まりました」

「うむ…」

 長興は返事と同時に瞼を閉じて、そのまま眠りに就いてしまった。本当に眠たかったのだろう。目の下がうっすらと青白い。昨晩から今朝まで、ずっと眠らずに傍にいてくれて、風呂の世話や手当てもしてくれた。
 長興はしっかり蘭丸の服を掴んでいた。これでは厠にも行けないなと心の中で呟き、蘭丸は隣に横たわって、布団を掛け、襟から覗く赤い跡を隠した。





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