捌
源太郎が憐れな少年の話を聞いたのは偶然だった。仕事仲間の栄二が昼食事時の話題として提供してきた。栄二がその話題を仕入れたのも偶然で、その晩、共にいた文太と三人で助けに向かい、少年の主である織田信長の一行と遭遇したのも偶然だった。
これも偶然だろうか。少年の顔立ちは、三年前に死んだ妹とよく似ていた。少年は信長の家臣の青年に抱きしめられたその背中越しから、濡れた目で源太郎を見詰めていた。鈴を張ったような目と、瞼の形がやはり記憶の中の妹と重なった。
「この度は、有難うございました」
少年は信長の家臣の青年に背負われ、涙を瞼の縁に湛えたまま、源太郎らに告げた。少しだけ幼さの残る少年の声は彼の持つ儚さとたおやかさをより引き立たせた。少年の精一杯の礼に、源太郎は鼻を啜って答えた。
「否、もっと早く助けらなくって…」
「いいえ、このご恩は一生忘れません。後日、御礼を…」
少年は表情を強張らせたまま、抑揚のない口調で返した。言葉の途中、源太郎は少年の頭を撫でた。
「礼とかよりも、早く、元気になってくれ」
そう告げると、少年は震える唇をきゅっと結んで、小さく頷いた。雫がほろりと落ち、青年のうなじを濡らした。青年が歩き出し、姿を見送る。青年の肩にしがみつく腕も、進むたび力なく揺れる脚も、白く、細く、弱々しい。
「源太郎殿」
背後に信長とその家臣の姿があった。信長の迫力に、返事の声も裏返ってしまった。最後の涙の雫を拳で拭う。信長の隣の男が口を開く。
「栄二殿、文太殿。貴殿らは…、この事態を引き起こした者共に覚えはあるな?」
「え…」
脳が現実に切り替わる。源太郎の動揺を悟り、男が畳み掛ける。
「やはりあるのだな?その者達の名を教えよ」
「そそそ、そげん、知らねえですだ!」
源太郎は咄嗟に嘘を吐く。
「本当か?」
皆の視線が刺さる。一際、信長の目は迫力があって、源太郎は俯いた。
「本当に知らぬのか?」
男は更に追い討ちをかける。
「の、信長様…」
源太郎は顔を上げた。信長の強い視線を確かめてから、膝をつき、頭を下げ、床に手を置いた。
「あ、貴方…様の、お怒りは、分かります!いや、おらになんか分からんかも知れんけど、あんな子が酷い目に遭って、辛い思いして、可哀相だけども、でも…」
言葉がまとまらない。
「許しがたいとも思います!けど、あいつらにも家族がいます!そん子らには何も罪はありません!どうか…」
「御託はいい」
男の声が冷たくのし掛かり、源太郎の言葉は途切れた。
「言わぬか?」
かちゃり、と冷たい音がした。
「あん子を拐ったのは、田子作って奴です!」
栄二が叫ぶ。
「栄二!」
源太郎が止めようとすると、文太が源太郎の背にのし掛かり、口を両手で塞ぎ、制した。
「それから、いつもつるんでる捨助と茂市で、ここに閉じ込めて楽しんでたって聞きましたです。それを話していたのは…」
栄二は必死だった。源太郎の目の前の男が、刀の柄を握っていた。信長は深い闇を映した目のまま、栄二の話を聞いていた。気迫は変わらないが、心情が読み取れない。しかし、瞳の黒がどんどん濃くなっている気がする。
「そうか。では、関わっていた者、全員は把握出来ぬのだな?」
男は柄から手を離すと、栄二はほっとして頷いた。
「驚かせてしまったな」
信長らはそのまま、廃寺を後にした。文太が源太郎の背から身を離すと、背後でしゃがみこんだ。
「おっかねえな」
「おらも怖かっただ。信長ってのはすげえ迫力のある男だっただな」
栄二はため息をついた。源太郎は立ち上がり、栄二に掴みかかる。
「おい!なして、話しただ!田子作たちは、ただじゃすまねえぞ!」
「馬鹿言うな!おらが言わんかったら、おめえが殺されてたぞ!」
「そうだ、源太郎。田子作らは、そんだけのことしただ。庇うこたねえ!」
文太がまた源太郎の体を抑え、口を挟む。栄二は源太郎の手を払った。
「そうだ。怒る筋合いねぇ」
「田子作なんかどうだっていい!あいつには小さい弟と、病気のおっかあがいる。茂市だって、赤ん坊が生まれたばっかだ。殺されちまったら、何も悪くねえ家族が生きていけんくなるだ」
「そげんこと言ったって…」
「おら、田子作んとこ行って来るだ」
「待て、源太郎!」
走り出そうとする源太郎の腕を栄二が掴んだ。
「大丈夫だ、信長達は石段の方へ向かっただ。多分、下山して、街へ行くだよ。何も今晩中にどうこうしようってことはない」
「そうだ、源太郎!頼むから早まるな」
二人も源太郎を止めようと懸命だった。その危機迫った表情に我に返り、源太郎は冷静さを失っていたことに気付いた。
「すまね、おら…」
「いいだよ、今日は帰って、また明日考えよう」
「分かっただ」
源太郎が頷くと、二人は安堵して顔を綻ばせた。
「しかし、可愛かっただな」
帰り道、眩しい月を見上げながら栄二が呟いた。「え?」と文太が返す。
「あの捕まってたお小姓だよ。田子作が夢中になる訳だ」
「確かに可愛かったが、男だったしな」
「あーあ。信長に遭遇しなかったら、おらも味見出来たんだがな」
栄二の軽口に、文太が頭を叩くと、栄二は笑った。
「冗談だよ。信長に何されっかわかったもんじゃねえからな。命の方が惜しい。だが…」
「何かあるんか?」
「んだ。あのお小姓、どっかで見たことある気がすんだ」
「どっか?確かに、おらも見覚えがあるような…」
二人して首を傾げていると、源太郎は口を開けた。
「おりんだ」
「おりん?」
「ああ。あん子、おりんと似てる」
文太はぽんと手を叩く。
「そうだ、源太郎の死んだ妹のおりんと似てるだ!」
「ああ、だから見覚えがあっただか。おりん、めんこかっただもんな」
「まあ、あんなに美人じゃねえけどな…。目隠し外されて、顔見たとき、死んだおりんが戻ってきたみたいな気になって」
「だからおめえ、そげん泣いてただか」
「ん…。もっと早く助けてやれたら良かっただ」
「仕方ないだよ。おらがあのお小姓の話を聞いたのは今朝のことだ。それに、おらたちが早く助けだしちまったら、あの子は信長と会えなかったかも知れんし、これで良かっただよ」
栄二の言葉に、源太郎は頷いて見せた。過ぎたことはどうにもならない。
「そうだな」
「そうだよ」
源太郎は重たい足取りで友人らと帰路を歩いて行った。
長い一日だった。
帰宅し、寝間着も変えず、炉端に敷きっぱなしの布団に横たわる。三年前までは、この囲炉裏の向こう側には妹が眠っていた。囲炉裏越しの妹の姿が鮮明に甦り、数秒跨いであの少年と重なった。
「おらん…」
信長は、確かそう呼んでいた。
「名前まで、似てるなんてな…」
これもきっと偶然だ。源太郎は無理矢理瞼を閉じた。しかし、瞼の内側に焼きついて離れずにいた。妹は、長い手足を折り身を縮こまらせて、自らを抱き締めるような体制で眠っていた。不意に少年の華奢な体躯が過り、源太郎ははっと目を開けた。
「……」
目の前には囲炉裏、その向こうには誰もいないなかった。
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