妄想、愉悦。





  


 心と体が繋がった。そうなると、ますます蘭丸が可愛く見えてしまう。果たして、刻々と増していくこの愛らしさに果てはあるのだろうか。健吾に文字を教えている蘭丸を日の当たる部屋で見守りながら源太郎は思い耽っていた。
 健吾相手の授業では、蘭丸は緊張感がとけてひときわ優しい声になる。健吾の囁きのような音読も、耳を澄まし、穏やかな表情で一つ一つ頷いていた。

「発音も良いし区切りも上手ですね」

 音読が終わり、蘭丸が誉めると、健吾は満面の笑みで喜んでいた。
 すると、見計らったかのように夕を報せる鐘が鳴った。

「では、今日はこれでお仕舞いにします」

 蘭丸は、てきぱきと教材を片付け、纏める。

「こっちも終わっただよ」

 源太郎は診察や治療で使う道具の箱を出した。

「凄い。全部ぴかぴかに磨かれていますね」

「ああ」

 源太郎が得意気になり、蘭丸は顔を上げた。大きな瞳が一旦下降し、すぐに上昇して源太郎を捉える。

「あの…私、急ぎの用がありまして、済んだらまた迎えに来ますから、此処で待っていて下さいますか?」

「用って?」

「薬の配達です」

「なら、帰りに届ければいいべ?」

「源太郎様を急かす訳には参りません。健吾殿、源太郎様をよろしくお願いします」

 健吾が頷くと、蘭丸は急ぎ足で部屋を出ていった。片付けを終えた健吾は、道具箱を手に取った。

「あ、おらが持つよ」

 源太郎が運び、健吾と共に診療部屋まで行くと、仕事上がりの康が先に戸を開けて部屋から出てきた。

「二人共、もう終わったの?」

「ああ。これ、仕舞ってきていいだか?」

「わあ。凄い綺麗」

 仕上がりに満足した顔をしながら康は箱を覗き込んだ。

「でも、まだ患者さんがいるから其処に置いてくれる?」

「分かっただ」

「蘭ちゃんは?」

「薬の配達をしてくるって言ってただよ」

「そうなの?今日はあったかな…」

 康は知らなかったらしく、考え込んでいた。

「なあ、お蘭はよく薬の配達をするだか?」

「ううん。配達は殆ど中ちゃんがするの。中ちゃんがいない時は蘭ちゃんにも頼んだことあったけど」

 今、中哉は養生所にいる。どんな経緯で蘭丸が届けることになったのだろう。




 蘭丸はすぐには帰って来なかった。源太郎は夕餉の支度を手伝いながら蘭丸を待った。
 この家はしっかりと食事を摂るのが方針で、源太郎は一から炊飯を任された。忘れていた火加減と時間も康が優しく教えてくれた。蒸らし終えた白飯をひつに移していると、仕事を終えた康太郎と中哉が配膳を手伝いにやって来た。源太郎はひつの蓋を閉める。

「なあ、お蘭が薬の配達に行ってまだ帰って来ないんだが」

「配達?蘭丸君が?」

 中哉も思い当たらず疑問符を浮かべている。

「ああ、俺が頼んだんだ」

 康太郎が答えると、中哉は「誰ですか?」とまた聞いた。

「誰でも良いだろ。それ、運ぶ」

 康太郎がひつを取り運び出し、源太郎は重ねた膳を持ってついていく。

「だが、すぐ帰るって言ってたのにまだ帰って来ねえ」

「何件か頼んだからな」

「外、もう暗いし」

「それはあれだ、年寄りや男手がない家もあるからな、ついでにって何か言いつけられてるのかも知れん」

「そうだか」

 部屋まで運んで膳を並べると、康太郎が笑った。

「そんなに心配することはないさ。あいつは強いからな」

「強い?」

 確かに、見かけによらず力持ちだった。しかし、そうであっても源太郎は蘭丸が傷つけられた過去があるのを知っている。

「だが、大勢に襲われでもしたら…」

 茶碗と盆と酒を持って三人が入って来た。源太郎は咄嗟に口をつぐむ。先頭の康が料理を膳に配りながら、兄に訊ねた。

「蘭ちゃんはまだなの?」

「そうだな。ちっと迎えに行ってくる。先始めててくれ」

 康太郎は笑って誤魔化したがその顔に神妙さは隠しきれていない。

「久々に五人が揃ったんだから、待ちますよ」

 中哉が用意していた酒瓶を置いた。源太郎は康太郎の後へついて行く。

「お前は待ってろ」

 康太郎は源太郎の肩を部屋へ押し戻した。

「おらも行くだよ」

「駄目だ。患者は大人しくしてろ」

「頭の傷は殆ど治った」

「そうだけどな…」

 康太郎は頭を掻いた。言い訳が見つからない様子に、源太郎は蘭丸が薬の配達に行っているのは嘘なのだと思った。協力者は康太郎で、二人は中哉と康には口裏合わせをしなかったのだろう。

「先生は、お蘭が遅いから心配してるだな?おらだって心配だ。いてもたってもいられんくらい」

「気持ちは分かるが、蘭丸にはお前のことを頼まれてるんだ。おれが行って来るから、お前はここで待っててくれ」

「もういい」

 源太郎は康太郎の隣をすり抜け、養生所を飛び出した。

「おい、待て」

 後ろから康太郎の声が聞こえたが、源太郎は構わず走って敷地を抜けた。しかし、辺りは暗く、まずどちらに向かえば良いのか分からない。家方面は右だが、蘭丸は何処にいるのだろうか。左右をきょろきょろ見ていると、右方面から灯りが見えた。

「お蘭…?」

 それは、蘭丸の隣にいる人物が持っていた提灯だった。その人の顔はよく見えないが、手の位置から蘭丸の顔はよく見える。大きな手で頭を撫で、蘭丸は安心したように微笑んでいた。そして、会釈をして、手を振り二人は別れた。

「おい」

 背後から肩を捕まれた。

「こんな暗がりで灯りを持たないで出る奴があるか」

 康太郎が提灯を持って追いかけて来た。よほど急いでいたのか、やたら息をあげている。

「すまね」

「こっちこそ悪かった。一番心配になるのはお前だもんな」

「でもお蘭、そこにいたよ」

「え?ああ。蘭丸ー」

 康太郎が手を振ると、気付いた蘭丸は駆け寄った。

「お帰り。あまりに遅いんでな、迎えに行くとこだったんだよ」

「ご心配をかけて申し訳ありません」

 蘭丸が謝り、顔を上げた。

「皆待ってるから早く中入れ。腹減っただろ?中哉は酒まで用意してる」

「はい」

 源太郎がぼんやりしていると、蘭丸は源太郎の手を取る。

「早く、参りましょう?」

 蘭丸は相変わらず可愛いく微笑んだ。しかし、自分の知らない場所で、知らない相手にもこうやって笑顔を向けることを、源太郎は知ってしまった。



 食事の席は明るかった。普段から明るい康と中哉は酒のせいでより饒舌になり、康太郎も分かりやすく機嫌が良い。

「お蘭は飲まないだか?」

 源太郎は隣の蘭丸に訊ねる。

「はい」

「酒は嫌いか?」

「いいえ、そんな訳ではないです」

「おらに気を遣うことないだよ」

 源太郎は杯を蘭丸に手渡して、酒を注いだ。蘭丸は礼を言うと中身をあおった。仕草や動作が綺麗でつい見とれそうになる。源太郎は空になったのを確認してもう一杯注いだ。

「お蘭は酒が強いだか?」

「特別弱い方ではないですけど、強くもありません。けれど、美味しいです。この席が楽しいからでしょうか」

「そうか。なら、沢山飲め。おらが一緒だから酔っても大丈夫だ」

「有難うございます」

 蘭丸は少し頬を染めた。酒のせいなのだろうか。

「源太郎様は、お酒が好きではなくて、殆ど口にしていませんでしたが、こういった席では楽しそうにしていました」

「じゃあ、傷が治っても、そんなに飲まないんかな」

「そうですね。けれど大丈夫です。蘭がおりますから」

 数刻前はあんなに幸せだったのに、今は蘭丸が可愛ければそれ程胸が痛むようになってしまった。この微笑みは自分だけのものではないのだ。なら、他は…?心は、体はどうなのだろう。
 源太郎の中に、黒い感情が小さな渦となっていった。






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