妄想、愉悦。


拾肆


  


 養生所の裏庭の井戸端で、桃太の頭巾を洗った。汚れを十分に落として、中の綿を傷めないように叩いて水気を落とし、物干し竿に干した。

「源太郎様」

 蘭丸が縁側から降りて来た。駆け寄って源太郎の冷たい手を握る。

「此処は冷えます故、中へ」

 互いに寝間着の浴衣一枚だった。源太郎は今さら蘭丸の姿が無防備すぎることに気付き、蘭丸の襟を直した。

「ずっとそげん格好でいただか?」

「はい。ばたばたしていたもので、服のことなど頭にありませんでした」

「そっか…。寿一は?」

「たった今、仕事に向かわれました。怪我も大したことないと仰っていて…。また帰りに、様子を見に来て下さるそうです。源太郎様は?」

「ん、もう鼻血も止まった」

 源太郎は鼻に詰めていた塵紙を抜いた。赤い汚れもしっかり固まっている。

「お蘭、泣いていただか?此処が腫れてる」

 源太郎は蘭丸の赤らんだ目尻に触れた。蘭丸は長い睫毛を伏せた。

「…はい。寿一殿に謝ったら、好きでやってることだからって言われて。寿一殿が優しくて、思わず…」

「寿一、いい奴だな。でも、今は嬉し泣きかも知れんが、寝ている時、お蘭は辛そうに泣いてただ」

「……」

「おらもな、目が覚めた時に泣いてた。変な夢見たんだと思う。でも、今は何でか思い出せない。思い出そうとすると、頭が痛くなる」

「嫌な夢は忘れてしまった方が良いです」

「夢だけじゃない。おら、大切なこと忘れてる。家族との別れも、お蘭との出会いも、此処の人たちと過ごしてきたことも」

「それは怪我のせいですから、仕方ないです。それに、これから思い出すかも知れませんし」

 源太郎は蘭丸の肩を掴んだ。

「おら、思い出したくないだけなのかも知れん。だって、おらは桃太の妹を…」

「源太郎様、何か、思い出したのですか?」

 源太郎は首を左右に振る。

「桃太が言ってただ、おらは桃太の妹を嫌ってたから、犯して殺したって」

「それは、妹君のご遺体の傍に、源太郎様が倒れていたからで…」

「そうなのか?なら、やっぱりおらが…」

「それは有り得ません」

「なして言い切れる!?おら、お前にも酷いことした。嫌いな相手なら、なおのこと痛めつけたって」

「源太郎様はそんなことしません!!」

「だっ」

 言い返そうとした刹那、蘭丸に頬を叩かれた。衝撃でまた鼻から血が垂れて、思いがけない出来事に呆然としてしまった。

「源太郎様はそんなことする人じゃないってことは皆知っています!蘭も、先生も、康殿も中哉殿も健吾殿も寿一殿も…!」

 蘭丸は顔を真っ赤に、くしゃくしゃにしながら泣いていた。打たれたばかりの頬が痛み出してきた。正直桃太の一撃よりでかい。

「源太郎様を悪く言ったら、源太郎様でも許さない…」

 蘭丸はわあっと子供のように泣き出した。源太郎は蘭丸を抱き寄せる。

「ごめん、もうおらを疑ったりしないから」

 子供をあやすみたいに頭を撫でた。蘭丸はひくひくと鼻の奥を痙攣させながら、源太郎の腕の中でゆっくり涙を止めていた。
 不思議だ。源太郎が何度打ちのめされても、この子が何時だって引っ張り上げてくれる。

「なあ…。お蘭からは、色んなこと聞いたけど、聞かなかったこともあっただな」

「はい…」

「あんな状況で、記憶なくなってたら、そりゃあ言えないだな。おらがお蘭の立場だったらそうしてたと思う」

 蘭丸は顔を上げ、濡れた目で源太郎を見詰めた。源太郎は蘭丸の体を解放した。

「寒いだな。中、入ろう」

「はい」

 蘭丸は鼻を啜った。

「思いっきり叩いてしまってごめんなさい」

 蘭丸は汚れていない反対側の袖で源太郎の鼻血を拭った。

「ん…でも、だから気持ちが切り替えられただよ。おら、不安な気持ちで押し潰されそうになったけど、今は平気だ」

 蘭丸は複雑な顔をして笑った。

「おい」

 康太郎が神妙な面持ちでやって来た。源太郎の顔を見てぎょっと目を見開く。

「どうした、その頬。真っ赤になってるじゃないか」

 康太郎は源太郎の顔を両手で挟んで、両の頬の温度を確かめている。

「否、ちっとな」

「私が、感情を抑えられずひっぱたいてしまいまして」

「しょうがねえな…。口ん中は切ってないか?」

 康太郎は源太郎の口を開かせて視診を始める。

「大丈夫みたいだな。そうだ、桃太が目覚めたぞ」

「え?」

 蘭丸がすぐさま診療部屋に向かおうとして、源太郎は蘭丸の肩を掴んだ。

「おらも行く。いいだな?」

「……」

 蘭丸は迷っているようだ。不安定な源太郎を案じているのは分かった。

「平気だ。何言われたってお蘭も先生もおらを信じてくれるから、もう自分を疑ったりしないだ」

「そうか。なら、桃太に挨拶しとこう。お前だって関係者なんだから」

 蘭丸も覚悟を決めて頷いた。

 三人で診療部屋に戻ると、桃太は確かに目覚めていたが、何やら様子が可笑しい。桃太は小声で言った。

「あんた、子供にどういう躾してんだ」

 桃太の顔の隣に、小さい黒い物体が見えた。

「え?」

 康太郎が間の抜けた返事をすると、桃太が短く返した。

「えじゃない。お宅の子供、やって来て眠たそうにこっち見てるもんだから、入るかって聞いたらほんとに入って来てすぐ寝ちまった」

「よく寝てるなあ」

 康太郎が呑気に言うと、毒気を抜かれて桃太は返す言葉を失ってしまった。

「さっきまで同じ布団に居たんだが、俺がいないことに気付いて探しに来たんだな。すまないが、もう少しこの子と寝てやってくれないか?」

「は?」

 流石に桃太も呆気に取られた。仲間に暴力を働いた相手に大事な家族を無防備な状態で任せられるとは思っていなかった。

「一緒に眠ってると暖かいだろ?俺は朝食作ってくるから、それまででいい」

「はあ…」

「頼むな」

 康太郎は振り返り、源太郎らに向き直った。

「お前らも一旦帰って着替えてから来い。朝飯作るの手伝ってくれ」

「せっ」

 源太郎が問いただそうとすると、康太郎の掌で口を塞がれた。康太郎に押し出されるように部屋を出る。康太郎は戸を閉めながら小声で言った。

「言いたいことも、心配なのも分かる。だが、今は健吾に任せとこう」

「任せる…?」

 源太郎が理解出来ずにいると、桃太のすすり泣く声が聞こえて来た。亡くなった妹の名を口にしている。源太郎はあまりの悲痛な声に居たたまれなくなってしまった。すると、蘭丸が源太郎の腰に腕を回して身を寄せ、口を開いた。

「先生、申し訳ないのですが、朝食の支度は手伝えません」

「そうか。じゃあ、昼には来れるか?」

「はい。必ず。では、帰りましょう」

 蘭丸はやや強めに源太郎の腰を引き寄せて出口に向かった。外は明るく、空気がひんやりと冷たい。二人は足早に家路を歩く。

「健吾、あいつに預けちまって大丈夫だか?」

「先生が判断したのですから、大丈夫なのでしょう」

「そりゃ、あいつは悪い奴じゃなさそうだが、それにしたって…」

「何故、一方的に殴ってきた相手に対して悪い奴じゃないと思うのですか?」

「だって、あいつ、おらが薄着だからって頭巾貸してくれただ。だから顔殴られて仰向けに倒れても、頭は痛くなかった」

「……」

 蘭丸は源太郎の隣で俯く。足の動きがゆっくりになった。

「桃太殿は優しい方です。先生とも顔見知りですし、健吾殿に危害を加えるようなことは絶対にしないと思います」

「そっか…」

 そんな心優しい青年が…。よほど追い込まれていたのだろう。考える程に気持ちに引きずられ、足取りが重たくなっていった。





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