妄想、愉悦。


拾玖


  


 結局、蘭丸の本音は源太郎に言えずじまいのまま、それでも穏やかに日々は流れてゆく。
 日中はそれぞれ別々の場所で過ごし、夜は共に幸せな時間を送るのは変わらなかった。源太郎は夕餉の時によく仕事の話をしてくれた。話題に頻繁に出る名前は寿一、そして桃太。桃太の妹のうめの存在が出ることは殆どなかった。敢えて避けているようでもなく、うめは源太郎にとって友人の妹というだけの存在のようだった。ならば、蘭丸が話す必要もない。話してしまったら、源太郎にとってうめが特別な存在になってしまう。それが、例え良からぬ感情だったとしても、蘭丸にとっては不都合なことだ。

 夜の生活も変わらなかったが、源太郎には露出した箇所の吸い痕を付けるのは自重して貰っていた。そして首の包帯が取れた頃、蘭丸に新しい仕事が舞い込んで来た。中哉が薬を売りに通う寺で読み書きと算術の教師を募っていると聞き、薦められた。もともと蘭丸は一日置きに忙しい皆に代わって健吾に読み書きを教えていることもあってのことだった。
 初めは不安を抱いていたものの、蘭丸は直ぐに遣り甲斐を見出だした。受け持つ生徒は皆真面目で知識を得ようと懸命に応えてくれたし、授業内容を考えるのも教材を作成するのも思いの外楽しかった。賃金は雀の涙ではあったが、それだけでは得られない経験も出来た。



「健吾殿、明日は私と寺へ行きませんか?」

 一日置きの授業の後、教材を片付けながら蘭丸は訊ねた。健吾は顔を上げ、手を止めた。

「明日の授業は、健吾殿の好きな物語を題材にする予定なのです」

 健吾は顔を横に振り、乾かしていた半紙を集めた。

「大勢と学ぶのはお嫌ですか?」

 健吾は同じようにまた首を振る。此処へ来てからさほど経っていないが、健吾は養生所から殆ど出ることは殆どなく、同年の子供と遊ぶ所を見たことがない。

「ならば、一度来てみませんか?健吾殿と同じくらいの生徒さんもおりますし、皆さん優しいいい子ですよ」

 健吾は蘭丸の顔を見つめながら口を動かした。「行かない」「お寺は嫌い」と小さな唇がはっきり言葉を刻んだ。

「何故に?」

 蘭丸は膝を畳んだまま健吾の傍にすり寄った。健吾は蘭丸の耳に顔を近付ける。

「坊主が嫌い」

 予想外の言葉だった。しかし、心当たりもある。一番若年の僧侶は軽薄な人物で、会う度に軽口を聞いたり、言い寄ったりしてきた。学舎に近い部屋で小姓とまぐわっていることがあって、後に注意をしに赴いた時には褥に引きずりこまれそうになって、思い切り頬をひっぱたいたこともある。それ以来、強引に誘われることはなくなったが、蘭丸にとって極力関わり合いたくない人物であることにはかわりない。
 蘭丸には残念ながら持ち合わせていないが、信長がそうであったように、この世には本能で人の本質を見抜く目を持った人がいる。養生所の人達は健吾のその目を信じていた。きっと、他より見えてしまうだけにあの若い僧侶のような人物とは顔を合わせるだけでも苦痛なのだろう。
 健吾は蘭丸の肩に腕を回して抱きついてきた。

「健吾殿?」

「ほんとは蘭ちゃんにも中ちゃんにもお寺に行って欲しくない。でも、蘭ちゃんは強いし、中ちゃんは大人だから大丈夫だと思う」

「健吾殿がそう仰有るのなら本当に大丈夫ですね」

 蘭丸の返事に健吾は蘭丸の肩の上で頷いた。




 翌日、寺からの帰り道、蘭丸は一人歩いていた。静けさが続く竹林から葉擦れと大きな足音と息遣いが聞こえた。誰かが走ってくる。蘭丸は少し警戒しながらその人物を待った。竹と竹の隙間から息を切らしながら少年が表れた。

「あ、あんた、来て下さい!」

 少年は蘭丸を見つけると、手首を強引に掴み、竹林の中に引きずり込んだ。

「ちょっと待って!」

 蘭丸はそれよりも強い力で手を振り払う。

「何ですか、急に用件も言わずに」

 蘭丸が強い口調で言うと、少年は呆然と振り払われた手を見ていた。よく見ると、少年は手や足首の肌が露出した箇所に幾つも切り傷があった。

「怪我をしていますね。ちょっと待ってください」

 蘭丸は、懐から傷薬の容器を出し、少年の手を取り甲の傷に塗り込んだ。

「いい、そんなことしなくて!」

 少年は蘭丸を突き飛ばした。すると、頬の切れ目から血が一筋滴り落ちた。

「血が…」

 蘭丸は手拭いを出して少年の頬を拭った。

「いいって!」

「動かないで!」

 少年の言葉を遮り、蘭丸は塗り薬を頬に塗り込む。

「今、手当てをしていますからじっとしていて下さい」

 少年は震えていた唇を引き締めて押し黙る。触れた柔らかな頬が少し熱くなっている。

「顔の傷はこれで大丈夫です。他の箇所もして宜しいですか?」

「否、平気だ」

 少年は俯いてしまった。他にも小さな傷があるが、出血している様子もない。

「そうですか。ところで、私に何か用ですか?」

 少年ははっと顔を上げる。

「忘れてた!友達が、奥で怪我して!おれ一人じゃ運べないから…」

「忘れてたって…、何処ですか!?」

「あっちの奥だ」

 少年はまた竹林の中へ入って行った。今度は走ることなく、隙間を見付けて傷を作らないように進んで行った。時折、ちらりと蘭丸の様子を窺っている。目が合い、蘭丸は少年に訊ねた。

「その方は、どんな怪我を?」

「体、打った」

「身動き出来ない程酷いのですか?」

「うん。其処、足元危ないから」

「あ、どうも」

 蘭丸は少年と同じように出っ張った木の根を避けた。竹林を抜け、鬱蒼とした雑木林に入った。まだ昼過ぎなのに、日が当たらずどんどん暗くなってくる。こんな場所で、この少年らは一体何をしていたのだろうか。

「此処、山菜が結構取れるんだ」

 蘭丸の疑問に勘づいたのか、少年は聞いてもいないのに答えた。

「そうですか」

 蘭丸は短く返して、足元の茸を一瞥した。帰りに迷わないように、目印を探さなければ。
 進んでいくと、少年は木を分けて深い茂みへ潜った。蘭丸もその背中を追いかける。すると、茂みの中には僅かに空間があって、そこには小さな石碑と祠が並び、大柄な男が石碑に寄りかかり、脚を投げ出して座り込んでいた。男は少年に向かって手を振る。

「連れてきてくれたんだな」

「うん」

 どうやらこの男が友人らしい。蘭丸は大柄な男の傍に座り、肉付きの良い太くも引き締まった脚に手を伸ばした。

「痛めたのは脚ですか?」

「そうだ。歩けなくて参ってたんだ」

「どちらの足を?」

「今、あんたが触ったとこだ」

「腫れてはいないようですけれど」

「だが、痛いんだよ」

「では、養生所の先生に見て頂きましょう。私がお連れします」

「悪いな。肩貸してくれ」

「いえ、背負いますから、私の背に載ってください」

「背負うって俺をか?」

「はい。膝は着けますか?」

「ああ」

「では、どうぞ」

 蘭丸は屈んで男に背を向けた。少年が目の前で後退りをしている。

「え?」

 何が起こっているのか分からず、蘭丸は振り返る。





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