妄想、愉悦。


弐拾


  


 冷たい。痛い。狭い。硬い。目を開けているのに、暗くて何も見えない。蘭丸ははっと顔を上げた。

「痛っ…」

 頭を天井にぶつけて、ずきずき痛んだ。これはぶつけただけの痛みではない。手首をきつく結ばれ、狭い空間に閉じ込められている。湿った空気と木の匂い。蘭丸は縛られた手首を持ち上げ、患部に触れてみた。髪の下で頭皮が腫れている。殴られて意識を奪われたらしい。
 一体何が起こったのだろう。少年に助けを求められ、雑木林に連れて来られたのは覚えている。これも、あの少年と大柄な男の仕業なのだろうか。一体何の為に、こんなことをしたのだろうか。蘭丸は狭い中で体を動かしてみた。繋がったまま手をついて、ゆっくり体を起こして膝を立てた。もう一度体に触れてみる。半襦袢と下帯と足袋を残して、服を剥ぎ取られている。蘭丸は身震いを起こした。寒さだけではない。意識を失っていた間、何をされていたか分からない恐怖。しかし、結ばれた手首のせいでこの身を抱き締めることも出来なかった。
 どうしてこうなんだろう。今思えば、あの少年は物言いがはっきりせず、迷いが見えた。あの大きな男も、怪我なんかしていなかった。今さら気付いても遅い。早く、この状況を打破しなければ。落ち込むのはそれからだ。
 蘭丸は、足の裏で壁を叩いてみた。あまり厚みのない板だ。どうやら、さほど広くない箱に押し込められている。

「まさか…」

 居場所が同じだとしたら、この中はあの祠だ。祠ならば、扉があるはずだ。蘭丸は左右の壁を足で叩いた。板が少しずれた。ここだ。蘭丸は体の向きを変えて、扉が正面になるように背の位置を変えた。手を付いて膝を顔の近付く程に曲げ、勢いをつける。

「やっ!」

 扉目掛けて揃えた足を降り下ろすと、ごとっと音を立て、戸板が綺麗に外れ落ちた。冷気が入り込んでも光は殆ど通さず、外が見えない。蘭丸は、足先を出してみたが、すぐに冷たく硬いものに塞がれて体を出すことが出来なかった。

「石碑だ…」

 蘭丸が脱け出せないように祠の位置と向きが変えられている。どうにか小さな祠が後ろにずれないか蘭丸は足を突っ張らせてみるが、びくともしなかった。

「なら…」

 祠と石碑の間は二尺程の幅しかない。この隙間からでは幾ら細身の体でもとても出られない。けれど、諦めては駄目だ。早く、源太郎の元へ帰らなければ。
 あれこれ考えていると、静けさの中から人の声が聞こえた。蘭丸は足をしまって前屈みになり耳を外に近付けた。やはり、聞こえる。その遠くの声に、自分の名前が入ってる。

「蘭丸ー!何処だぁー」

 聞き取れる程近付いてきた。

「先生ーっ!」

 蘭丸は声の主を呼び返した。

「蘭丸!?」

 蘭丸の声が届いた。

「先生ぇー!」

 蘭丸は繰り返し叫んだ。葉擦れと共に足音が近付いてくる。康太郎が迷いなく向かっているようだ。

「先生っ」

「蘭丸か!?」

 かさっと近くで葉を踏む音がした。康太郎が蘭丸を探し出してくれた。

「先生…っ」

「この中にいるのか?」

 外側から祠に触れられている。

「はい」

「分かった。今、出してやるから」

 せーの、の掛け声で祠が動いた。もう一人連れ立って来たようだ。後ろに動くと、今度は向きが変わり、康太郎が前に回って来た。

「蘭…」

 名を呼び掛け、康太郎が表情を変えた。

「先生…?」

 蘭丸は足袋のまま足を下ろし、腰を引き摺って体を外に出した。康太郎の後ろにいる連れの青年が明かりを照らしているせいで、康太郎の体が震えているのが分かった。

「もう、大丈夫だから…帰れるから…」

 康太郎が腕を伸ばし、蘭丸の体を抱き寄せた。

「ご心配かけて…」

 気丈な康太郎がこんな風になるなんて。蘭丸が状況が飲み込めずに康太郎の震動を受け止めていると、青年が康太郎の背を擦った。この人は養生所のはす向かい住む傘張職人だ。一緒に探しに来てくれたのだろう。康太郎は顔を上げ、青年に向けた。

「育郎…」

「縄をほどいてやろう」

 育郎の言葉に康太郎は蘭丸の手首を取ると、懐から短刀を出して縄を切った。手首が解放され、蘭丸が下ろそうとすると、康太郎が冷たくなった手を擦った。康太郎の手も冷えていた。

「あったかいです」

「お前、どうしてこんな所に?」

「それが…。少年に助けてくれって、ここに連れてこられて、目が覚めたらこんなことに」

「怪我はないか?」

「頭を打たれたみたいでこぶが」

 康太郎が蘭丸の頭にそっと触れる。

「帰って早く手当てしよう」

 康太郎は蘭丸の肩に羽織を掛けてくれた。そして、蘭丸に背を向けて屈む。

「ほら」

「でも、私歩けますから…」

「いいから早く乗れ。背中が寒い」

「ほれ」

 育郎に背を押される。蘭丸は康太郎の肩に腕を回した。そのまま背負われて、育郎にもと来た酷く足場の悪い道を照らし誘導されながら進む。

「お前を彼処に連れ出した少年てのはどんな奴だ?」

 やっと竹林を抜け、補正された道へ出た時、康太郎は蘭丸に訊ねた。

「十代半ば程の少年でした。髪を後ろに一本に括っていて、背は私よりも少し低くて、痩身の。丁度この辺りで声をかけられました」

「そいつだけか?」

「いいえ。少年に連れられてあの祠まで行ったら体の大きい男が怪我をしたと座り込んでいました。座っていたので背丈までは分かりませんが、胸や肩が広くて分厚くて、手足もごつごつして太くて…」

「そうか…」

 康太郎は短く返してそのまま黙ってしまった。蘭丸は康太郎の肩に回した腕に力を込めて首に一瞬食い込ませた。康太郎が少しだけくっと後ろへよろけた。

「何すんだ」

 康太郎が顔を上げる。

「いえ、良からぬ心配をなさってないかと思いまして」

「良からぬ…」

「服を取られてあの状態で見つけたら心配されるのは当然ですけれど、先生が心配なさるようなことはありません」

 取るに足らないこと。敢えてそう言ったのに、康太郎はまた俯いてしまった。

「先生、何故、私が彼処にいるのが分かったのですか?」

 蘭丸は話題をすり替えた。月の位置からして日が沈んでからさして時間は経っていないのは分かる。寺からの通い道を反れると足場の悪い林は奥深く、探し出すには困難な筈だ。

「幸が見付けてくれた」

 ゆき。その名前には聞き覚えがある。康太郎と康の亡くなった妹だ。信長の時のように、夢幻にでも現れたのだろうか。

「幸殿に、お礼をせねばなりませんね」

「そうだな…」

 康太郎の言葉がこの上なく優しく切ない。蘭丸の胸は締め付けられ、巻き付けたままの腕にもう一度力を込めて、康太郎の肩を抱き寄せた。

「どうした?」

「空気が冷たいもので」

「そうか。有難うな」

 思いがけず礼を言われ、蘭丸はまた胸が痛くなった。優しく明るい康太郎の癒えない傷を見付けてしまった気がして、蘭丸は肩を抱いたままもたれ掛かった。






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