弐拾弐
体を洗って借り物の浴衣を着て外に出ると、戸の隣で待っていた源太郎が蘭丸に新しい羽織を掛けた。
「早いな」
「ずっと外で待っていらしたのですか?」
「否、今迎えに来たとこだ。中哉が手当てしてくれるって。行こ」
「はい」
肩を抱かれて連れられたのは養生所の診療部屋だった。既に灯りが点いていて、火鉢で部屋が暖められていた。
「お帰り。お風呂、早かったね」
中哉が笑顔で振り返った。その表情だけでほっとさせてくれる。
「体を温めないようにとのことで」
「それもそうだ」
中哉の診察はすぐに終わった。頭部は腫れて熱を持っていたが出血もなく、濡れた布で冷やすだけ、小さな擦り傷は消毒と塗り薬だけだった。
「大きな怪我じゃなくて本当に良かった」
手当てを終えると、中哉は安堵の声を漏らし、そして視線を彷徨わせながら神妙な顔をした。和んでいた空気が消えて行く。
「蘭丸君が帰って来なくて、康ちゃん達が酷く取り乱していて、驚いたと思う」
蘭丸は源太郎と視線を合わせる。源太郎はすぐ中哉に向き直った。
「実は、おら、お蘭が帰って来てないって聞いた時、自分が慌てちまって、あんまりその時のこと覚えてないだ」
源太郎の言葉に蘭丸は胸を痛める。蘭丸は隣にいる源太郎の手を握った。
「私は取り乱していたところは見ていませんが、とても心配をお掛けしてしまったのは分かりました。先生も康殿も、私を見付けた時、私以上に安心して、脱力なさっていて」
康太郎の震えた体や、初めて見た康の涙を思い出した。
「うん…」
「けれど、それはそれだけお二人がお優しくて、私達のことを大事に想って下さっているからなのだと思いました」
「勿論そうだ。僕だって二人のことは兄弟みたいに思ってる。でもね、それだけじゃない」
もう一度源太郎と視線を合わせてから中哉に向き直る。
「何故…」
中哉は神妙な面持ちで言葉を選ぶ。すると、源太郎が口を開いた。
「おら分かるだよ。先生とお康は、昔、妹を亡くしてる」
蘭丸は顔を上げた。二人の亡くなった妹の話は既に聞いている。体が弱く、幼いうちに身籠って、健吾を産んだ後力尽きて命を落とした。まだ十四の齢だったと言う。
「兄弟を亡くすってのは一生ものの傷だ。だから…」
「うん。妹の幸ちゃんはね、康ちゃんの五つ下で、とても優しくて可愛い子だった。だけど、体が弱くって」
中哉の声や肩が震え、顔を手で抑える。蘭丸は身を乗り出して中哉の大きな肩を抱いた。源太郎は中哉の隣に移動し、背を支える。
「大丈夫。有難う」
中哉は鼻を啜りながら顔を上げた。蘭丸は元の位置に腰を下ろした。源太郎はそのまま中哉に寄り添っている。
「この地にはね、大分昔から、若い女性の神隠しが起こる」
「神隠し…ですか?」
「うん。僕が知っている限り、数年に一度の時もあれば、何ヵ月か越しに立て続けにいなくなることもある。さっきの育郎さんのお祖父さんの末の妹さんも、神隠しに遭ったらしい」
どうして急にこんな話をするのだろうか。蘭丸は中哉の言葉の続きを待った。
「幸ちゃんが亡くなる一年くらい前に、帰って来なかったことがあった。みんな、必死に捜索したけれど、幸ちゃんは見付からなかった。神隠しに遭ったんだとも思った。もうその時は意気消沈で養生所も閉めっきりになっていた。けれど、幸ちゃんは三日後に帰って来たんだ。幸ちゃんはこの三日間のことは覚えていなかった。目が覚めたらあの石碑の傍にいて、林を抜けた時に会った親切な人に道を聞いて帰って来たと言っていた。疲れてだるそうにしていたけど、戻って来て三日も経っていたことに幸ちゃん自身が吃驚していた」
「今まで、神隠しに遭って戻って来られた方は居たのですか?」
「否…、居なくなって戻って来た子は、家出や拐かしだった。兎も角、幸ちゃんみたいに最中の記憶を失って戻って来た話は聞いたことがない。察しているとは思うけど、その後幸ちゃんは妊娠していた」
「……」
蘭丸と源太郎は言葉が出なかった。
「もともと体の弱い幸ちゃんは妊娠の兆候も普段の不調と変わりなかった。みんなが反対するのも分かっていたからぎりぎりまで大きくなってきたお腹を隠していて、発覚したのは五月を過ぎた後だった」
「それで、健吾殿を産んだのですね」
「うん。話は長くなったけど、今回、二人があんなに動揺したのは、幸ちゃんのことがあったから…」
「…なして」
中哉の隣で源太郎が口を開く。
「神隠しのこと、教えてくれなかっただ?」
源太郎の声がしんとした部屋に響く。源太郎の変化に中哉は戸惑っている。
「それは、今までいなくなったのは、女性だけで…」
「だが、中哉だってお蘭をおなごと間違えただ。今回みたいに神隠しのふりして拐っちまう奴だっている。知ってたら、おら、寺にだって通わせなかった。人気のないとこでお蘭を一人にさせたりしなかった」
「源太郎様!」
源太郎の語気が強くなり、蘭丸はより強い声で源太郎の言葉を遮った。
「お止め下さい、中哉殿が私達を信頼して、辛い過去を話して下さったのに。私達だって、何から何まで過去を総て洗いざらい話している訳ではないでしょう?」
「だが…」
源太郎は震える唇を噛んだ。そして、蘭丸を見つめてから中哉に向き直る。
「すまね、おら、中哉に当たっちまった」
中哉は首を横に振る。
「此方こそ。神隠しの件は、君達が所在を選ぶ前に伝えるべきだった」
「それでも、私達は此処にいたと思います」
蘭丸が返すと、中哉は悲しい目をしたまま口元だけで笑みを作った。蘭丸は居たたまれなくなった。誰も悪くないのに、どうしてこんな思いをしなければならないのか。すると、源太郎が立ち上がって蘭丸の手を強い力で引っ張った。
「源太郎様?」
「もう遅いから。帰るだ」
「そんな、急に」
「ごめんな、中哉。また明日、お蘭を頼む」
「ま、待って下さい」
源太郎は蘭丸の手を掴んだまま診察室を出ていった。中哉は引きとめかけた手を止め、膝立ちのまま二人を見ていた。
「源太郎様、先生達にもご挨拶をしてから…」
源太郎は母屋には向かわず、そのまま門へ向かって行く。こんなに失礼なことは出来ない。しかし、源太郎の手を振りほどくことはもっと出来ない。
「源太郎様!」
蘭丸は掴まれていない方の手で源太郎の手首を掴み、逆に引き寄せた。
「帰るなら、皆様にご挨拶をして参りますから」
振り返った源太郎の顔が暗くてよく見えない。すると、源太郎は手を離した。蘭丸はそのまま手を引こうとしたが、源太郎はそれを拒んでいた。
「すぐに済ませますから、絶対に何処にも行かないで下さいね」
蘭丸は源太郎の手を離して母屋に入って行った。すると、勝手口で康と鉢合わせする。
「あ、支度が終わったから今呼びに行こうと思ってたの」
「支度?」
「夕飯の。早く食べよう。中ちゃん達は?」
皆食べずに待ってくれていたようだ。
「あ…、すみません、今日はもうおいとまします」
「そうね…。今日は色々あったから、ゆっくりした方がいいかも知れない」
「申し訳ありません」
「待って。今包むから」
「けれど」
「いいの。二人の分も作っちゃったんだから」
康は重箱に夕飯を詰める。
「其処にある風呂敷取ってくれる?」
「はい」
蘭丸は戸棚から風呂敷を探した。
「あのね、源ちゃん、蘭ちゃんの体を確かめたって言ってて」
「はい」
「そうしたら大丈夫だったって、それって…」
「はい、多分、康殿が想像している通りの意味です」
「そう。無事なら良かった」
蘭丸は風呂敷を取り、台の上に広げた。康は其処の中心に中身の入った重箱を置く。
「源ちゃんね、蘭ちゃんが帰って来ないって聞いて、とても取り乱していたの。私も人のこと言えないけど。でも、源ちゃんはこの世の終わりでも見たみたいだった。此処に来る前、二人の間に何が起こったかは分からないけど…」
「似たようなことがありました」
「似たような…」
「連れ去られて…。その時は、無事ではありませんでしたが」
康の持っていた風呂敷の端が落ちて、布はもとの正方形に戻った。康は震えた手で顔を抑えて泣き出してしまった。蘭丸は言ってから後悔した。この優しい人は、幼い妹を亡くしているのだ。その妹も、記憶がないながらも同じような目に遭っている。心の傷を抉るようなことを言ってしまった。
「康殿…」
「ごめんなさい、辛いのは蘭ちゃんなのに」
康は涙に濡れた顔を上げた。
「いいえ」
蘭丸は首を横に振る。康は、手を前掛けで拭いて、風呂敷の四隅を縛って重箱を包む。
「あのね、源ちゃんには、蘭ちゃんを拐った人のことを聞かれても、何も言わない方がいいわ」
「え?」
「兄さんから、少年と大柄な男だって聞いた。でも、そんな人、周りに幾らだっているでしょ?源ちゃんが色んな人に疑いを向けちゃったらまずいもの」
「それもそうですね」
「犯人探しなら、私達も協力するし」
「何か当てがあるのですか?」
「まあね」
康は笑顔を作り、重箱を手渡してくれた。蘭丸は受け取り、礼を告げる。勝手口を開けると、すぐ傍に源太郎が立っていた。
「源太郎様…」
「帰ろう、お蘭」
まさかこんなにすぐ傍にいたとは。康との会話を聞かれていやしないだろうか。
源太郎は蘭丸の手から取った重箱を抱え、蘭丸の手を取って踵を返す。すると、中哉が養生所から出てきた。
「良かった。まだ居て。はい、これ」
中哉が提灯を手渡してくれた。
「すまんな」
源太郎が短い詫びのような礼を告げ、蘭丸は頭を下げた。
「有難うございます」
「ん。気を付けて」
中哉も居心地が悪いようで、引き留めはせず、先に二人の横を通り過ぎて母屋へ進んで行った。
帰り道、源太郎は呟くように語り掛けた。
「神隠しってさ、そげん珍しいことじゃない」
「え…?」
「おらも安馬田にいた頃に何回か聞いたことある。綺麗で有名な誰かの姉ちゃんがいなくなったとか、子供が消えたとかって」
「そうなのですか」
「うん。だが、それは知り合いの知り合いの話だったり、隣町で起こったことであって、身近じゃなかった」
源太郎は足を止める。
「中哉達が神隠しを知ってるのは、医者やってて知り合いが沢山居るからだ」
「確かに、耳に入れる機会は多いかも知れません」
「ああ。そんだけだ。神賀井が危ない訳じゃねえ。何処にだって、悪い奴はいる」
「はい」
「それだけなのに、中哉に酷いこと言っちまった」
「明日、中哉殿にきちんと謝りましょう。中哉殿も優しいですから気にしているかも知れません」
「うん」
源太郎は蘭丸の手を引き、もう一度歩き出した。
帰宅し、火を炉端に移して部屋を温める。明るくなり、源太郎の表情を確認する。やはり、虚ろな顔をしていた。
「源太郎様…」
蘭丸は源太郎を抱き締めた。
「どうしただ?したくなっただか?」
「え?」
「急にくっついてくるから」
「違います!」
蘭丸は身を引いて板間に腰を下ろした。
「源太郎様が、蘭が帰ってきても元気にならないから…」
「すまん。そうだったな」
源太郎は蘭丸の隣に腰を下ろした。
「おら、怖いんだ。今日、お蘭が戻って来てないって聞いた時に、このまま会えなくなったらって考えちまって。でも、会えたけど今も怖い」
蘭丸は源太郎の手を握った。
「此処は長閑で、みんな優しくてあったかいから、安心してた。でも、そうじゃない。また、お蘭は居なくなるかも知れないって思ったら…」
「けれど、今傍にいます」
蘭丸は身を寄せて、もう一度源太郎の体を抱き締めた。
「ごめんなさい、不安にさせて」
「お蘭は悪くない、謝るな」
「けれど、油断していました」
「油断?なしてだ?なして、戦でもあるまいに、そげん気を張ってなきゃならねえだ?お蘭は悪くない。悪いのは、お蘭の優しさに付け入ってくる奴だ」
源太郎に引き寄せられ、膝の上に倒れてしまう。
「そげん悪い奴、いなくなればいいのに…」
源太郎の虚ろな目が光り、雫が零れ、蘭丸の肩に落ちて行く。
「源太郎様!」
蘭丸はもう一度源太郎を抱き締めた。二人で声を出して泣いた。
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