妄想、愉悦。





  


 中哉が帰宅した後、寺に赴く為に蘭丸に手伝って貰いながら袴を着付けた。仕事以外の外出用の服らしいのだが、百姓の源太郎には縁遠いものだと思っていた。しかし、腕を通してみても自分の体にしっくり馴染んでいて、記憶を失う前に身に付けていたことを自覚した。蘭丸は、着替えを終えると冷えるからと源太郎の頭に頭巾を被せた。

 緩やかな山道を並んで歩いた。補正が行き届いてはいるが、人通りがなく静かだった。蘭丸は木々に止まる鳥や、道端の花に目を止め、その度に表情を綻ばせていた。

「お蘭と一緒だと楽しいな」

「そうですか?」

「うん。おらも安馬田で百姓してた頃は似たような道通ってたけど仲間と喋ってるだけで景色なんて見てなかっただ」

「お仲間とのお喋りは楽しいですからね。蘭は普段は一人ですし、何だか習慣になってしまって」

「水仙見つけた時の顔可愛かった」

「それは、以前はまだ咲いていなかったから、嬉しくて…」

 蘭丸は照れ隠しで視線を泳がせた。その先に何かに気付き、足早になる。

「手を合わせて行っても良いですか?」

 道の端にお地蔵様が並んでいた。

「いいだよ」

 蘭丸はお地蔵様に掛け寄り、しゃがんで手を合わせた。源太郎も隣で腰を下ろし、手を合わせる。横目で蘭丸を確認すると、えらく真剣だった。固く目を閉じ、眉間には皺を寄せている。

「何を祈ってるだ?」

「ここを行き交う人々が、これから穏やかにいられるようにとお願いしました。悪人は除いて」

「そっか。お蘭は優しいな」

「いえ…。もちろん、私達も含めてですから」

 蘭丸は立ち上がり、お地蔵様に背を向けて指を差す。もう麓に出ていて、大きな白い塀が指の先に見えた。

「彼処が寺の敷地です」

「広いな。おお誰かいるな」

「寺小姓の佐吉殿です。先に挨拶して参ります故、ゆっくり来て下さい」

 そう言うと、蘭丸は走り出した。やたら足が速く、早々に佐吉の元に辿り着いてしまった。源太郎は話す二人を見守りながらゆっくり進んだ。佐吉と言うのは蘭丸よりも背が低く、整った顔立ちの少年だった。佐吉は源太郎と視線が合うと、手を合わせて会釈をした。

「初めまして。私、小姓の佐吉と申します」

「初めましてなのか。おら、源太郎だ」

「蘭丸様から伺っております。此度は大変でしたね」

「周りの人が支えてくれてるから大丈夫だ。気遣い有難うな」

「いえ。私、ずっと源太郎様に会ってみたかったのです。そうだ、蘭丸様の授業の間、私の話し相手になって頂けませんか?」

「え?」

「駄目ですか?」

「いや、今日はお蘭の先生してるとこ、見に来たから」

「そうですか」

 佐吉は残念そうに目尻を下げた。

「すまね。また来れたら相手してくれるか?」

 源太郎は佐吉の小さな頭を撫でる。

「…はい」

 佐吉はにこりと微笑み、頭上にある源太郎の手を両手で取ると、胸の位置でぎゅっと握った。

「では、こちらへどうぞ」

 佐吉は塀の戸を開けた。どうやら裏口らしい。敷地に入ると、塀に箒が立て掛けてあった。蘭丸が佐吉の後ろを歩きながら言った。

「掃除の途中でしたか。授業が終わったら、私も手伝いますから」

「いつも有難う御座います。助かります。では、蘭丸様はあちらへ」

「お蘭は何処へ行くだ?」

「私は先に住職様に挨拶に行って参ります」

「そうだか」

 蘭丸は佐吉が指した別の入り口から入って行った。大きさからして本堂だろう。蘭丸と離れると、佐吉は源太郎の隣に並んだ。

「蘭丸様は親切な方ですね」

「そうだな」

「私、蘭丸様が来る日がとても楽しみなんです。掃除を手伝って貰えるからではないですよ?会えるのが嬉しいです」

「佐吉はお蘭が好きなんだな」

「はい」

 佐吉は小さな両の掌を腕を伸ばして源太郎の目の前に出した。

「私、手荒れが酷かったのですが、蘭丸様は塗り薬を塗って、分けて下さいました。毎晩塗るようにしたら、たちまち傷が治ってしまって。今は冬でも手は荒れません」

「そうか。良かったな」

「はい。ですから、蘭丸様がお慕いしている方に会えて本当に嬉しいです」

 本堂に続く渡り廊下を横切ると、佐吉は縁台に草履を脱いで上がった。

「此方でお待ち下さい」

 案内された畳の広間は横長の文台が六つ並んでいる。源太郎は邪魔になることがないように部屋の隅っこに座った。

「今、部屋を暖めますから」

「有難う」

 佐吉が部屋を出ると、入れ違いに教え子らしき少女が入って来た。十歳位だろうか。少女は源太郎と目が合うと、ぺこりと会釈をし、一番離れた文台の位置に座った。見知らぬ大人が居て戸惑っているのかも知れない。源太郎は頭巾を外そうか迷ったが、頭の包帯が嫌でも目に付いてしまうので、結局顔だけがしっかり見えるように浅く被り直した。
 続いて健吾と同じくらいの少年二人組がやって来た。少年は、源太郎を見ると少女に「だあれ?」と訊ねる。少女は知らないと首を左右に振る。訝んだ視線が痛くなり、源太郎は笑顔を向ける。

「おら、源太郎だ。お蘭の…家族だ」

「家族?」

「兄ちゃん?」

 続けて返される。源太郎は迷ったがそのまま頷いた。

「何で兄ちゃんが来てるの?」

「ああ、おら、今日仕事が休みでお蘭が先生してるとこ見に来ただ」

「じゃあ、今日は蘭丸先生来るんだね」

 少年らが嬉しそうに笑った。蘭丸を好いているようだ。

「ああ、来るだよ」

 源太郎も嬉しくなって、笑みが自然のものとなった。少年らは源太郎を挟んで両隣に座ると、好奇心を持ったきらきらした瞳で覗き込んできた。

「背も高いし顔も先生と似てないねー」

「ま、まあな」

「でも、おれも妹と似てない」

「確かにー」

 源太郎越しに会話を重ね、また源太郎に質問する。

「ねえ、先生って家ではどうなの?」

「優しいだよ」

「そっかあ。いいなあ」

「蘭丸先生はどんな先生だ?」

 今度は源太郎が訊ねた。

「綺麗で優しいよ」

 源太郎の質問に、少年は即答する。すると、蘭丸が佐吉と共に木枠の火鉢を運んで来た。少年らは蘭丸の元へ駆け寄った。源太郎も後に続く。

「おらが運ぶよ」

「有難うございます。ですが、重たくないですから大丈夫ですよ」

 蘭丸は足元の小さな子供に注意を促し、佐吉と動作を合わせながら部屋の中央に火鉢を置いた。

「有難うございます」

 蘭丸は佐吉にも改めて礼をすると、佐吉ははにかみながら頷き、源太郎の方をじっと見つめる。

「…どうかしたか?」

「いえ、私は持ち場に戻ります」

 先は話相手になって欲しいと言っていたが、やはり忙しいのだろうか。蘭丸が引き止める。

「佐吉殿、少しでも体を暖めては」

「いえ、動き回っていればじゅうぶん暖かいですから」

 佐吉は部屋を出ていってしまった。子供たちは佐吉を気にすることもなく、火鉢の周りを囲った。

「なるべく、体を冷やさないようにして下さい」

 蘭丸は火鉢の周りの空いた箇所に源太郎を促した。

「これあるし寒くないだよ」

 源太郎が頭巾を指差すと、蘭丸は表情を緩めた。

 生徒が集まった頃、部屋はすっかり暖まっていた。子供は前へ、大人は後ろの席に座っているのだが、先の隣の少年らが源太郎と並びたいと言って三人で後ろの右側の文台の前へ着いた。台は広いが、少年が教材を並べると置き場がなく、源太郎は手を膝に置いた。
 はしゃいでいた少年らも授業が始まれば真剣に聞いている。蘭丸の声はよく通り、颯爽として源太郎の耳に心地好い。そして、時折源太郎と視線が合うと、蘭丸はにこりと微笑む。こんな場面でも、源太郎は鼓動の高鳴りを自覚してしまうのだった。

「では、書き取りを始めます」

 繰り返した読み取りの所要部分を纏めた手本が配られる。健吾が持っていた写本と同じ文字だ。生徒一人一人にこれを書いているだろうか。

「先生兄ちゃんは蘭丸先生と仲良いんだね」

 墨を磨りながら、右隣の少年は言った。源太郎は邪魔にならないよう一つ後ろに下がった位置で返す。

「まあな」

「先生ね、いつもと違う」

 左隣が返すと、右隣が頷いた。

「分かる。何か可愛い」

「普段は可愛くないだか?」

「可愛いよ。でも、感じが違う。あんな風に笑わないから」

「あんな風…?」

 源太郎は蘭丸を見てみると、蘭丸は端正な顔で生徒たちが真面目に取り組む様を眺めていた。そして、不意に源太郎と目が合うと、微かに頬を染め微笑む。どくり、と隣の子達に聞かれやしないか気になる程に、胸が跳ねた。
 それは、休憩を挟んだ後の計数の時間も同じで、よく分からないまじないごとのような計算式も蘭丸の声は源太郎に安らぎを与え、生徒の自習時間では視線が合う度に微笑みを向けて源太郎を惑わせる。
 蘭丸は源太郎の前では特別可愛くなる。こんな小さな子供にさえ変化に気付かれていると言うことは、他の大多数も同様なのかも知れない。源太郎は舞い上がっているのを自覚し、察しの良いこの子らに気付かれやしないかそわそわした。





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