妄想、愉悦。





  


 かた、と鳴り、源太郎は目を開けた。静まり返った広間は誰もおらず、火鉢の炭は朽ちていた。

「……」

 朝食後の薬と静かで暖かいこの空間のせいで、いつの間にか眠っていたようだ。源太郎が伸びをすると、肩に掛けられていた羽織が落ちた。これは蘭丸が着ていたものだ。授業は終わったようだが蘭丸は何処にいるのだろうか。羽織を持って部屋を出ると、ぞくりと身震いを起こした。
 用足しをしたくなった源太郎は出口には向かわず、長い廊下を進んだ。いくつ目かの障子の隙間から暖気が漏れていた。廊下とは空気が異なり、誰かがいることが分かった。

「すまね、厠を…」

 源太郎が声をかけ隙間から部屋を見てみると、剃髪の若い男が半裸で煙管を吸っていた。

「あ?」

 男は煙を吐きながら、障子を開いた。

「誰だ?」

「え?おら…」

「学舎の生徒か。まだ居たのか」

 管に口を付け、煙をまた吐く。剃髪だから僧侶なのだろうが、出で立ちや表情は猥雑な雰囲気を纏っていた。

「厠なら案内してやる」

「すまね…」

 青年が火皿の吸殻を火鉢に捨て、脱ぎ散らかした服を拾い、肌着を引っ掛けた。傍らに雑に置かれた法衣の下からか細い脚がはみ出しているのが見えて、源太郎はぎょっとした。部屋の隅に見覚えのある結い紐がほどけた状態で置いてある。

「佐吉…!?」

 佐吉は素肌に法衣を掛けられただけの状態で倒れていた。ただ事ではないと源太郎が駆け寄ろうとすると、僧侶が止めに入る。

「仕事終わりで疲れてるんだ、寝かせてやれ」

「仕事?」

「伽だよ、伽」

「とぎ…?」

 僧侶は卑下た顔で笑った。

「知らなかったら、あんたの先生に聞いてみればいい」

 源太郎は、この青年に対して言い様のない嫌悪感を抱いていた。源太郎は僧侶の隣を通り抜け、佐吉の側まで歩み寄る。

「おい、人のものに手を出すな」

 掴まれた肩を手で払い、痣の浮かんだ小さな肩を掛けられただけの服で包む。乱れた髪で顔が見えず、力もなく、まるで無機物のようで、背筋が凍った。腕に触れると温かく、生きていることにほっとしたが、何故か冷や汗は止まらない。

「何してんだよ、お前も抱きたいのか」

 抱え上げると、漂っていた匂いが濃く舞った。体液と煙の混ざった匂い。源太郎は火鉢の近くに佐吉を横たえ、僧侶の隣を通り過ぎる。

「大事ならもっと優しくしてやれ」

「起こさずに寝かしてやってるだろ。大切な法衣も貸して」

 僧侶は悪びれることもなく襦袢だけの姿のままで先に部屋を出た。

「厠、行きたいんだろ。早く来いよ」

 源太郎は障子を閉めた。あんな不快な空間に佐吉を閉じ込めてしまうのは気が引けるが、戸が開いたままでは風邪を引いてしまう。
 僧侶は出口に進み、広い敷地の離れにある一角の小さな建物を指した。

「あれだ」

「どうも」

 源太郎は短く礼を言って僧侶に背を向けた。外へ出て匂いからも解放されたのに、何故か気分が優れない。
 佐吉の哀れな姿がやりきれない。源太郎は厠の戸を拳で叩いた。

「源太郎様ー」

 声の方へ振り返ると、掃除道具と大きな袋を引きずった蘭丸が駆け寄って来た。蘭丸は瞳を輝かせている。源太郎に会えて嬉しいと言ったような顔。

「ごめんなさい。気持ち良さそうに眠っていたので、起こすのは気が引けてしまって…」

 白い息を吐きながら言うと、何かに気付いて源太郎の顔を覗き込んだ。

「顔色が悪いですね。気分は悪くないですか?」

「否、お蘭の顔見たら、平気になっただ」

「え?」

 不快感がすっと消えてしまった。そして、蘭丸の顔を見ていたら不思議とじわじわ温かいものが込み上げて、何故か泣きたいような気持ちになった。

「もっと顔、見せてくれるか?」

 蘭丸は吸い込んでしまいそうな目で源太郎を見上げる。源太郎は借りた羽織を蘭丸の肩に掛け、両手を赤く染まった頬に当てる。冷たいけれど、源太郎の内はどんどん温かくなるのを感じ、そのまま顔を近付け唇を押し当てた。

「え」

 短い接触を終えると、蘭丸は状況を把握出来ていないような間の抜けた声を出した。

「い、今…」

「ああ!すまん、漏れる」

 源太郎は気が解れた途端に尿意が甦り、蘭丸の状況確認を聞かずに厠に駆け込んだ。
 すっきりして個室から出ると、蘭丸の姿はなかった。源太郎は手を洗い、裏手に回る。確か、行きに裏から入った際に塵の袋を重ねた場所を通った。

「お蘭ー」

 名を呼びながら向かう。くるりと角を曲がると、蘭丸が先の若い僧侶に手首を捕まれていた。

「おい、何してるだ!」

「源太郎様」

「様…?」

 予想外の二人の関係に僧侶の力が緩んだのか、蘭丸は手を振り払って源太郎の隣へ回った。僧侶はまたあの卑しい笑みを湛えていた。

「そうか、お前、こいつの連れだったのか」

「お前、お蘭に何してただ」

「まだ何も出来てないさ」

「源太郎様、早く帰りましょう」

 蘭丸が源太郎の手を引くと、僧侶は「おい」と呼び止めた。

「佐吉が気に入ったなら交換してくれよ」

 源太郎は一瞬で頭に血が昇る。

「源太郎様、駄目です!」

 掴みかかろうとしたところを蘭丸に後ろから腕ごと拘束された。思いもよらない力だった。

「なして止めるだ、離してくれ」

「こんな人放っておいて下さい。それより早く帰りましょう」

 蘭丸に引き摺られるようにして離された。僧侶は相変わらず不快な笑みを浮かべていた。

 最悪な気分だ。蘭丸の授業と真面目な教え子は、源太郎に豊かで優しい時間を与えてくれた。それなのに、直後に会ったあの男を思い出すだけで、むかむかとはらわたが煮えくり返りそうだ。
 帰り道も蘭丸はお地蔵様の前で手を合わせていた。また同じように眉間に皺を寄せているのだろうか。

「なして止めただ」

 源太郎は蘭丸の背に吐き捨てるように言った。蘭丸は立ち上がり、しっかり向き直る。

「源太郎様があの人を殴りそうだったので」

「あんな奴…」

「私にとってもあんな奴です。けれど、源太郎様があの人を殴るのは耐えられません」

 蘭丸は源太郎の右手を両手で包んだ。

「お蘭…」

 蘭丸の優しさなのは分かっていた。しかし、あの男は許しがたい存在だ。僧侶と言う身分でありながら軽薄で卑しく、蘭丸にまで手を出そうとしていた。源太郎が唇を噛むのを止めないと、蘭丸は手を下ろした。

「もう、寺へ源太郎様をお連れするのは止めます」

 そう言った答えが返って来るとは思わなかった。

「なしてだ」

「心配だからです。それに、回復したら果樹園での仕事も再開しますし暇はないかと」

「だが、雨の日だってあるだろ?おら、またお蘭の授業見たいだ。今日は寝ちまったから、最後まで。それに、佐吉とだって約束しただ」

「約束…」

「ああ。何かあいつ、ほっとけないだよ」

「……」

 蘭丸は黙ってしまった。何やら思い悩んでいる。そして、口を開いて強い視線で言った。

「やはり、余計に寺へは連れて行けません」

「何でそうなる!?」

 源太郎は蘭丸の両肩を掴んで引き寄せた。蘭丸が目を見開く。瞳が揺れていた。

「す、すまね」

 蘭丸が傷付いたような顔をしたもので、源太郎はぱっと手を離した。やはり、蘭丸は源太郎を大きく戸惑わせる。たった表情一つで。

「お、お蘭妬いてるだか?」

「……」

 源太郎の茶化すような物言いに、蘭丸の瞳がすっと色を変えた。悲しみでも輝きでもない。

「蘭が妬いていると答えたなら、源太郎様はもう寺には行かないと約して下さいますか?」

「やっぱり妬いてただか?」

「そうですね。佐吉殿は素直で可愛い方ですし、源太郎様を随分気に入ってましたし」

「そうだか?」

「はい。話す時楽しそうでしたし、今日、部屋へ火鉢を運ぶのを手伝ってくれたのも、源太郎様に会いたかったからだと思います」

 普段はあの大きな火鉢を蘭丸が一人で運んでいるようだ。

「佐吉、お蘭のことを話してくれただ。お蘭のことが好きだって。佐吉がおらのこと気に入ったなら、おらがお蘭に近い人間だからだよ」

「源太郎様…」

 蘭丸は呆れたようにため息をついた。

「本当にそれだけだとお思いですか?」

「うん。それに、佐吉はまだ小さい子供だ」

「佐吉殿はもう十五です。今の源太郎様と同い年ですが」

「そっか…。確かに佐吉は可愛いけど、健吾やお蘭の教え子を可愛いと思ったのと似てる。だから…」

 小さな子供にあんなことを。佐吉の投げ出された細い脚と嫌な匂いが甦り、嫌悪感が込み上げた。

「源太郎様…?」

 蘭丸が変化に気付いて源太郎の頬に手を当てた。それだけで喉元まで来た不快感が嘘のようになくなる。

「平気だ」

 源太郎は蘭丸の手に手を当てた。

「何か、お蘭の顔見たら戻った」

 蘭丸は苦笑した。

「源太郎様が佐吉殿を放っておけないのも分かります」

「お蘭…」

「蘭もそうでしたから。けれど、佐吉殿の居場所は彼処しかないのです。佐吉殿自身がそう言っていました」

「そうなのか」

「源太郎様が何を見てそのような考えに至ったか見当はつきます。けれど、佐吉殿は果たして気の毒なだけなのでしょうか?」

「そげんことは思ってないだ…」

「分かって下されば良いです。その上で言いますが、源太郎様は暫く寺には連れて行きません」

「暫く?」

「はい。源太郎様は怪我をしてまだ目覚めたばかりです。記憶だってない。こんな不安定な状態で、不安定要素のある人がいる場所に行って欲しくないのです」

「ん…分かっただ」

「分かって下さって有難うございます」

 蘭丸にぎゅっと手を握られ、並んで歩いた。すると、腹の虫が豪快に鳴った。当然蘭丸の耳にも届いている。

「お腹空きましたね。早く帰りましょうか」

 蘭丸は微笑み、一歩先を行って、源太郎の手を引いた。





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