拾
雨の音がした。晒された頭部や額は肌寒いのに、体が温かい。蘭丸が目を開けると、傍らに信長がいた。密着はせずに、向かい合って眠っていた。
信長は寝顔も整っている。予想外に長い睫が力強い眼孔を塞ぐ瞼を縁取っていた。凛々しい眉や鼻、形の良い富士額、少し痩せた頬、整えた髭の周りの、短く生え揃った不精髭。そして、上品に閉じられた唇。その唇を注視していると、胸が高鳴った。
蘭丸は顔を近付けてそっと唇を重ねた。もっと激しいのを何度もした。なのに、何故かいけないことをしているような背徳感があった。蘭丸はゆっくりと唇を離す。
「あ」
信長は目を開けていた。蘭丸の顔はみるみる赤くなり、咄嗟に布団から逃げた。蘭丸は何も着ていなかったが、構わず走って窓辺に向かった。腰に力が入らず、転びそうになって、窓枠を掴んで体を支える。
琵琶湖は優しい雨に打たれ、水面に小さな輪を幾つも描いていた。こんな曇り空の雨の日でさえ、この大きな水たまりは蘭丸の目を楽しませた。
「お蘭、体が冷える」
信長は蘭丸の肩に襦袢をかけ、抱きすくめる。信長の体温を感じながら、蘭丸は水玉模様に視線を戻した。
「今日も琵琶湖は綺麗ですね」
「そうか」
「はい。蘭は…、雨の日も夕暮れ時もどれも綺麗だと思います。でも…」
信長の起立が背骨につんと当たった。寝起き特有の現象なのだと自分に言い聞かせて、火照ってしまう頬に冷たい空気を受けながら、言葉を紡ぐ。
「満月の夜が、一番好きです」
「信長も…だ」
信長の声は僅かに湿り気を帯びていた。低く通った声に吐息が乗り、耳にくすぐったい。信長は蘭丸の顎を捉え、自分の方へ向かせて屈む。
「痛いです…」
信長の不精髭が頬に当たる。信長は蘭丸の唇を塞ぎ、摺り合わせるだけですぐに解放した。
「また、共に月見をしよう」
「はい…!」
嬉しい。心が、信長への想いで満たされる。蘭丸が信長の言葉を反芻していると、信長が蘭丸の襦袢の前を合わせる。
「夜叉丸を呼べ」
「え?」
「宿直は夜叉丸の筈だ」
「は、はい、ただいま」
蘭丸は急いで部屋を出ようとすると、信長に呼び止められる。
「着替えてからで良い」
信長は豪快に笑った。蘭丸は気恥ずかしくなって、せかせかと着替えて天主の部屋を出た。
これから信長は、身を整えて、着替えをするのだろう。それを夜叉丸に手伝わせるのか。蘭丸は、夜叉丸が羨ましかった。
(いつか、身だけではなく、心も…)
主従の信頼関係で結ばれたい。幼い蘭丸は、自分の気持ちを疑うことなく願っていた。
階段を下り、壁際へ向かう。夜叉丸が武器を携えたまま、顔を伏せている。
「夜叉丸殿、お館様がお呼びです」
夜叉丸に反応はない。
「夜叉丸殿?」
夜叉丸の肩に触れると、ふらりと倒れ、蘭丸は慌てて体を引き寄せる。
「夜叉丸殿!」
夜叉丸は蘭丸の腕の中で倒れた。体に力が入っておらず、ずしりと重い。
一瞬、最悪の事態が頭に過ぎった。しかし、腕にかかる夜叉丸の苦しげで熱い吐息に安堵する。首に触れてみると、汗ばんでいて熱い。
「どうした」
背後に蘭丸の声を聞きつけた信長がいた。
「夜叉丸殿が、熱があるようで…」
「馬鹿が」
信長は蘭丸の腕から、夜叉丸を浚うように抱え上げた。
大柄な信長の腕の中にいる夜叉丸は、とても弱々しく儚げに見えた。
「お蘭」
「はい」
「夜叉丸の着替えを用意しろ、部屋へ運ぶ」
「はい!」
蘭丸は指示を受け、その場を離れた。
手拭いと着替え、水を張ったたらいを持って、蘭丸は夜叉丸の部屋へ赴いた。
「蘭丸にございます」
戸の前で声をかけるが返事がない。ゆっくり戸を引くと、夜叉丸は其処にはいなかった。
「あれ…?」
蘭丸は戸を閉め、間違いなのかと他の部屋を探し当てたが、夜叉丸は見つからなかった。
思い当たる部屋はまだある。天主の最上階の信長の部屋だ。蘭丸はその場へ赴いた。
「風邪が…、うつりまする」
信長の部屋の中から、夜叉丸のか細い声が聞こえた。
「熱い…な」
「お館様…」
夜叉丸の声音は、今までに聞いたことがない程に甘美だった。この二人は、これからあの行為に及ぶのだろうか。蘭丸は戸の前で固まっていた。
室内から、するすると布が擦れる音がする。
「お蘭!」
「は、はい!」
中から信長が名を呼ぶ。蘭丸は戸を開けた。
「遅い!」
「申し訳御座いません」
蘭丸は着替えとたらいを持って、中に入る。初めて信長の部屋に踏み入れるのが、このような形だとは。
夜叉丸は裸で布団に座らされていた。普段真っ白な肌は熱のせいで桜色に色づいている。
「体を拭いてやれ」
「はい」
蘭丸は手拭いを絞って、夜叉丸の背に当てた。きめ細かい肌には汗が浮いている。
「お館様、暫しこの部屋、夜叉丸が番を致します。ご安心を」
「ああ。汝ならば心配あるまいな」
二人の会話の流れから、また信長は城を離れるのだろう。蘭丸は介入せず、夜叉丸の背の汗を拭う。
「で、同行は?」
夜叉丸はこほんと小さく咳をする。
「蘭丸殿が、適任かと」
蘭丸の手はぴたりと止まる。
「否、お蘭には汝の世話を頼む。大事ゆえ、な」
信長は夜叉丸の頬に手を伸ばし、ふっくらとした唇を撫でている。
蘭丸は気持ちがざわざわした。昨夜、夜叉丸の伽の最中に遭遇した時もそうだ。何故か胸が痛んで、この場から逃げたくなった。
信長が、最愛の寵臣の夜叉丸を預けてくれると言った。それは、信長との間に確かな信頼関係が築けているから。喜ばしいことではないか。蘭丸は自分に言い聞かせた。蘭丸は顔を上げる。
「不手際もあるかと存じますが、精一杯、努めさせて頂きます」
夜叉丸に触れていた手が、蘭丸の頭部を撫で上げた。しかし、目線は未だに夜叉丸を捉えている。
「では、基之丞殿にお願いします」
「うむ、汝が言うのであれば、安心だ」
蘭丸は夜叉丸の後ろ姿に、信長の刻んだ痕を見つけた。耳の下に強く吸われたらしき濃紫のしみが、白い肌にぽつんと残っている。そう言えば、夜叉丸にはその痕跡が少ない。蘭丸の体には、幾つも残されているのに。蘭丸がその箇所を拭うと、夜叉丸の体が揺れ、みるみる肌を立てた。
「夜叉丸、じっとせい。お蘭が困っているではないか」
信長の台詞に、夜叉丸は蘭丸にだけ聞こえる声で「すまない」と言った。蘭丸は、それよりは大きな声で「いいえ」と返した。
「前も、お拭き致しますね」
蘭丸は移動して、夜叉丸の首筋を拭う。夜叉丸は拭きやすいようにと上を向く。喉仏があまり目立たず、顎には髭一本生えていない。本当に、この人は自分の兄と同年の青年なのだろうか。
蘭丸は夜叉丸の肌を直視してしまっていることに気付き、視線を外した。そのまま体を拭き続ける。
「有り難う。さっぱりした」
蘭丸は手ぬぐいを濡らしながら、笑みで返す。
「下は拭いて貰わぬのか?」
信長はからかうように言うと、夜叉丸は口を窄ませた。端正な顔立ちが、どことなく幼くなる。
「自分で拭けます。蘭丸殿、お館様の支度を手伝ってくれぬか?」
「はい」
「頼んだ」
夜叉丸は蘭丸に笑いかけてから、信長と目が合うと、ぷいと顔を背けた。信長は優しい目で無礼な態度を取る夜叉丸を見守っている。
(あれ?また…)
蘭丸の気持ちが再びざわめきだした。蘭丸は信長の視線の先を追い掛ける。夜叉丸は二人が居なくなってから体を拭く為の手拭いを握り締めていた。
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