拾壱
蘭丸は、石鹸を水に含ませ、掌を摺り合わせて泡立てる。
「これは…、とても上等なものなのですね」
「分かるのか」
「はい。私が以前使ったものとは、全く泡立ちが違います」
「南蛮からの献上品故な。汝も使うが良い」
「勿体のう御座います」
蘭丸はもこもことした弾力のある泡を信長の頬に伸ばした。信長が白髭を蓄えているように見えて、つい笑ってしまう。
「どうした?」
「いいえ。準備が、調いました」
蘭丸は鏡を添え、剃刀を差し出す。
「汝がやれ」
「私が?」
「汝は信長の小姓、勤めを全うせぬか」
「……」
蘭丸の剃刀を持つ手が震える。これで、信長の肌を傷付けてしまったらと考えると冷や汗をかいた。
大丈夫、仕官する前に、何度も森家家臣の肌で練習した。上手いと誉めても貰った。蘭丸は自分に言い聞かせ、刃を翳す。
「失礼、致します」
泡に刃を近付けると、緊張でまた手先が震えた。
「危なっかしいな」
「わ」
信長が蘭丸の手を掴んで引き寄せ、刃を当てじょり、と滑らす。取り払った泡の下に素肌が見えた。
「こうするのだ」
「はい」
蘭丸は真剣な眼差しで信長の頬に剃刀を当てた。じょり、じょりと規則正しく小気味よい音が響く。
信長が気持ちよさそうに目を閉じ、睫が影を落とした。
「あっ…」
蘭丸の声に信長は目を開ける。顔面蒼白の蘭丸を尻目に、信長は鏡を覗き込んだ。
信長は、短く整えた髭を生やしていた。蘭丸は、泡に隠れたその口髭の端を剃り落としてしまったのだ。
「も、申し訳ありません」
蘭丸は跪いて頭を下げた。何たる失態だ。
「顔を上げよ、お蘭。悪くない。右も揃えてくれぬか?」
「へ?」
「早くせぬか」
「は、はい、信長様」
蘭丸は立ち上がって右側も同じように剃り落とした。
「なかなかよい刃の当たりだったぞ」
「そ、そんな…」
信長は顔を洗い、泡や髭の残骸を落とした。蘭丸は清潔な手拭いを差し出すが、信長は受け取らない。
自分が拭くのかと蘭丸は信長の顔の雫を拭った。形の変えた口髭は、まだ信長の顔には馴染んでおらず、蘭丸は俯いた。
自分は、まだまだ信長の役には立てていない。蘭丸は自分が不甲斐なく、それでも優しい信長に尽くせていないことが悲しかった。
「どうしたのだ、お蘭」
信長の声に、蘭丸は顔を上げて笑顔を取り繕う。
「何をそんなに憂いでおるのだ、似合わぬか」
信長の顔を見詰める。どことなく不格好で、信長の威厳も髭と共に削ぎ落としてしまった。蘭丸は、嘘を吐きたくなかった。
「似合うかと問われれば、お似合いです、とても」
「ならば良いではないか」
「良いのですか?」
「お蘭が悄げてしまう方が一大事よ」
「……」
いけない。また、顔を赤らめてしまった。蘭丸は任務を全うしようと、道具箱を開いた。
「髪を結い上げます」
信長の髪は、腰があり黒々としている。櫛を通せば、真っ直ぐな艶を放った。蘭丸は、その髪をひとまとめにする。きつすぎないだろうかと引っ張りながら、結びあげる。
「如何で御座いますか?」
高く頑丈に結い上げられた。乱れやはみ出しもない。蘭丸は鏡を当てながら、仕上がりに問題はないか、信長に訊ねる。
「良い」
信長の返事に、蘭丸は安堵しながら道具を仕舞い、目に付いた塵を拾った。また一つ、仕事を増やせた。蘭丸は喜びを噛み締める。
信長の用事は、諸大名達との交流にと鷹狩りと城下の見物だった。信長は、夜叉丸が見立てた服を着て出掛けていった。
髭の変化も夜叉丸以外の者は気付かず、蘭丸は胸を撫で下ろした。
「お館様に付き添わなくて良かったのか?」
布団の中で夜叉丸が問い掛けた。
「供をする方々も家族同然の…、お館様にとっては、息抜きみたいなものなのだ。畏まる必要もない。共に楽しめばよいものを」
だから夜叉丸は遂行に自分を推したのか、と蘭丸は一人で納得をした。蘭丸は首を横に振る。
「お館様に、お館様の大切な方の世話を命じられました。それがとても嬉しいのです」
「お館様の大切…」
夜叉丸の目線は天井を仰いだ。あんなに深い信頼関係を見せておきながら、寵愛を受けている自覚がないのだろうか。夜叉丸の続きの言葉は意外なものだった。
「すぐに蘭丸殿が凌いでしまう」
「え?」
「蘭丸殿は、素直で利発で、器量が良い」
「私など、夜叉丸殿に比べたら…」
蘭丸は惨めな気持ちになった。自分よりもずっと優れている夜叉丸が述べても、真実味が全くない。
夜叉丸はそんな蘭丸を見ながら、短く笑った。
「訊いたのか?申三殿のこと」
「いいえ」
「気にならぬのか?」
蘭丸はこくんと頷く。
「申三殿がどうであれ、私がお館様をお慕いする気持ちは変わりありません。それに…」
「それに?」
「夜叉丸殿も、随分と申三殿や、太吉殿の気ままな行動に、気をもんでいらっしゃいましたし。やはり、私の為だとは思いません。お館様は、広い視野をお持ちです」
「時折、感情が溢れることもあるがな」
「私は、まだそのようなお姿を、目にしたことがありません」
「そうか。ならば、蘭丸殿が抑えてくれ」
「私が?」
「ああ。お館様は、誰よりも冷静に見えて、熱いお方だ。思わぬところで敵を作り、窮地に追いやられたことも少なくはない」
知っている。蘭丸の父、可成も、信長の身内に当たる人物との戦で命を落としたのだから。しかし、あの信長の全てを見据えるような眼差し。蘭丸は、信長がとても一時の感情に流されるような人間だとは思えなかった。
「私には、とても…」
蘭丸は俯きながら、自分の小さな拳を握り締めた。
「ですが、窮地の時は、蘭が信長様を守ります」
「らん…」
「あ」
蘭丸は手で口元を押さえた。夜叉丸は小さく笑う。
「蘭殿は、お館様の名を呼ぶのだな。羨ましい」
「え?」
「賜った名も」
夜叉丸は布団から手を出し、指差した。その方向には立派な壺がある。壷には鮮やかな蘭の花が描かれていた。
「それだけではない、お館様は蘭が刻まれたものを、幾つものお持ちだ。取り分けあの花がお好きであられる。しかし、一番大切なのは、蘭殿自身だ」
「……」
「不服か?」
「そんなはずはありません。ですが、私など夜叉丸殿に比べたら」
「確かに、お館様は私を信頼して下さる、大切にして下さっている」
蘭丸は胸が痛んだ。分かった。この感情の正体を。
嫉妬。とてもありふれた、陳腐な感情だった。夜叉丸に対して妬いてしまう自分は、何と小さい人間なんだろう。
「蘭殿は、やはり可愛い」
夜叉丸はゆっくり布団から身を起こした。蘭丸がその背を支える。
「しかし、私と似ている部分があるから、心配でもある」
「似ている?」
「蘭殿が、お館様に直向きで、離別した時に、新しい世を生き抜けるかどうか…な」
「それは…」
「私はもうすぐこの地を離れる」
「え!?それは、信長様に仕えるのを…」
「小姓としては、だ。兄が病に倒れてな、私が家督を引き継ぐことになるやも知れぬ。急に決まったことだ」
「そんな…」
「何、今すぐと言う訳ではない。二月以上先の話しだ」
「たった二月…?」
「二月も、だ。蘭殿は飲み込みも早い。すぐに覚えられるはずだ」
夜叉丸は蘭丸の頭を撫でた。柔らかい掌の感触。夜叉丸と年の近い武骨な兄の手とは全く違う。蘭丸は、その手を握り締めた。
「夜叉丸殿が離れてしまったら、信長様は寂しがられると思います」
「その時は、蘭殿が寂しさを埋めて差し上げてくれ」
夜叉丸は蘭丸の手を握り返してから、膝に置いた。
「少し、休ませてくれ」
夜叉丸はもぞもぞと布団に潜った。暫くして、静かな寝息を立て始めた。
蘭丸は濡れ布巾を絞って、夜叉丸のさらりとした前髪を退けて額に置いた。家督を継いだらこの綺麗な前髪を失ってしまうのだろうか。蘭丸は夜叉丸の寝顔から目が離せずにいた。
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