妄想、愉悦。


拾参


   


 時が経てば、蘭丸の多面的な才が発揮され、他の者も認めざるを得なくなった。蘭丸は仕事の飲み込みも早く、とても丁寧だった。そして、信長以外の者にも絶え間なく気を配った。何より、奥ゆかしく、真っ直ぐな性格は、嫉妬心を砕く威力さえある。
 しかし、湯浴みや着替えの時の舐めるような視線や、遠巻きからの下世話な噂話は相変わらずだった。そして、蘭丸が幼い小姓達の中で、浮いた存在であるのも、相変わらずだった。
 けれど、蘭丸は平気だった。業務に差し障りがあるようなことはなかったし、信長も家臣達も素直な蘭丸に優しかった。夜叉丸が先急いで何かと蘭丸に信長の世話を譲り渡す。覚えることが増えていくのが嬉しかったが、その都度、夜叉丸との別れが近付いて来る。蘭丸は寂しさを隠して、夜叉丸からの教示を受けていた。

「待っていた」

 そう言って、夜叉丸は蘭丸を部屋へ迎え入れた。
 夜叉丸が安土城を出る前日、蘭丸は夜叉丸の部屋に招かれた。数度訪れたことはあるが、一小姓が持つにはとても広い。部屋を出る為に整理された荷物が一角に纏められている。今まで色んなものを与えられたのだろう、整頓されていてもその量は広い部屋の半分近くを占領していた。

「有難うございます」

 夜叉丸は茶と茶請けの菓子を蘭丸に差し出した。蘭丸はゆっくり茶を啜る。夜叉丸は、茶を淹れるのもとても上手いと知った。

「蘭殿の成長は、私の想像を遥かに上回っていた」

 夜叉丸の言葉に、蘭丸は湯飲みを置いた。

「まだまだ、教えていただきたいことは山ほどあります」

「だが、お館様のお世話は全て把握した。蘭殿は丁寧かつ迅速で、お館様もとても喜んでおられる。あとのことは、私でなくても教えられる」

「ですが私は、夜叉丸殿に教えて頂きたいです」

「何だ。伽のことか?」

 言い当てられた蘭丸は顔を赤くして頷く。

「よくお館様の寝室に呼ばれるではないか。まあ、蘭殿は寝室以外でのことが多いがな」

「夜叉丸殿!」

「すまない、真面目に聞く」

 蘭丸は顔を上げ、頬の赤味はそのままで、言葉を選びながら紡ぐ。

「私は、お館様のお手を煩わせないようにと思ってはいるのです。ですけれど…」

「分かった」

「え?」

「力尽きて、後始末が出来ない…と」

「何故、分かるのですか?」

 聞いた後、蘭丸は口を掌で塞いだ。夜叉丸は、蘭丸以上に信長を知り尽くしているのだ。

「激しい方だ、その小さな体では持つ訳があるまい」

「……」

 夜叉丸も、主に事後処理をさせたり、先に堕ちてしまうことがあるのだろうか。

「でも不思議だな。蘭殿は、見た目以上に体力もある。この間も、剣の稽古、最後まで音を上げなかったのは蘭殿だと聞いたが」

「剣は、幼い頃から仕込まれましたから。父や兄は槍が得手でしたが、私にはどうにも性に合わず、剣術を勧められて…」

「ああ、蘭殿は、森家の勇猛さを確かに引き継いでいる。すぐに私を凌いでしまった」

「けれど、私はまだまだです」

「他にもあるのか?」

「あります。お館様は、とても身嗜みに気を使われるのに、蘭の感性で服を選んで良いものかまだ不安です。先日は、揉み上げを削ぎ落としてしまいました。蘭は緊張すると、体が震えて…、皆様の前で、献上品の果物の箱を壮大にひっくり返してしまいました」

 夜叉丸の顔を見ていたら泣きそうになった。信長と二人きりの時以外は主を信長様と呼ぶことも、自分を蘭と呼ぶことも止めていた。気持ちが昂って、今はそれが出来ずにいる。

「あれは、本当に転んだのか?」

「え?」

「否…、あの時、お館様が気をつけろと仰った瞬間に蘭殿は足を滑らせたから…、態となのかと」

「蘭はそんなこと致しません。大切な頂ものが傷物になってしまいます」

「すまない。皆がご機嫌取りと噂をしているのに、蘭殿は顔色も変えずに、弁解もしなかったからな」

「信長様が分かっていただけるなら、蘭は平気です。それに、夜叉丸殿も…」

 この人はもういなくなるのか。蘭丸は口を閉じた。

「蘭丸殿?」

「いえ…」

 蘭丸は押し込んだ涙を吸い上げるように鼻を啜った。

「ら…」

 蘭、と言いかけて、一呼吸置いてから「私は」と続ける。

「私は、夜叉丸殿の美的感覚や、優雅な物腰、憧れておりました。この美味しい茶の味も、忘れません」

「蘭殿はおだて上手だ」

 夜叉丸はくすっと笑った。この人の自然な笑顔はとても柔らかい。

「おだててなどいません」

「お館様は、派手な色を好む。蘭殿は感性は悪くないが、品がありすぎるからな。なるべく原色を取り入れて、黒を基調とする時は金色も混ぜるといい」

「勉強になります」

「それから、石鹸を泡立てすぎると、また大切な箇所を削ぎ落としてしまうぞ」

「気をつけます」

「それから、自信を持て。さすれば、転ぶこともない」

「はい…」

「それから…、伽は、そのままでいい。お館様は、そんな蘭殿が可愛いのだ」

「…良いのでしょうか?私ばかりが、その…」

 蘭丸はもじ、と俯いた。再び顔を赤らめながら。

「気持ちよくなってしまうと?」

 こくんと無言で頷く。熱が伝わって拳まで赤くなる。少し間を空けて、

「…技もありませんし…」

 と、ぼそりと言った。

「それでいいのだ。お館様は、これからも蘭殿を大切にするはずだ。それに胡座をかかずにいればな」

「…?」

「技は必要ない。ただ、学ぶ気持ちを忘れずにいれば」

「必要ないのに、学ぶのですか?」

「そうだ」

 蘭丸は、いまいち分からずに小首を傾げるばかりだった。夜叉丸は、優しい目で見守る。その目が段々とかげり出す。

「だが、蘭殿が、私のようになってしまわぬか心配だな」

「夜叉丸殿のようになれたら、心配はいらないでしょう?」

「その後だ」

「その後?」

「…ああ。私は、城主としてやっていく自信が、正直ない」

 城主。蘭丸にとっては、遠い未来のような話だった。蘭丸には家督を継いだ兄もいるし、ましてこの役職に着いて間もない。

「きっと、夜叉丸殿ならば大丈夫です。先日、羽柴様も仰っておりました。信長様の小姓を勤めるのは、一国の主になるよりも、何倍も大変だと」

「そうだな…」

 夜叉丸は更に表情を曇らせる。

「出来るだろうか、妻を娶り、子を成すことが…。この体は、お館様に植え付けられる喜びしか、受け入れられぬかも知れぬ」

「…夜叉丸殿…」

 夜叉丸は泣いていた。透明な雫がはらはらと白い頬に伝い落ちる。赤い唇が震えている。

「夜叉丸殿…!」

 蘭丸は立ち膝になり、夜叉丸を抱き締めた。
 蘭丸は、夜叉丸の気持ちが痛い程分かった。男になる前に信長に愛され、染め上げられ、夜叉丸はそのまま青年になってしまった。信長への一途な想いと、与えられる喜びの形だけは変えられずに。時の流れは何と残酷なのだろう。

「すまない…」

 夜叉丸は蘭丸から体を離す。手の甲で涙を拭っている。蘭丸の憐れみの視線を受けながら、夜叉丸は顔を上げ、痛々しい笑顔を作る。

「でも、悲しむことばかりではない。形を変えたけれど、主従の絆は深くなると私は信じている」

「はい」

 蘭丸も作り笑顔で頷く。織田家には小姓上がりの重臣が何人かいる。有能であれば、繋がりを断ち切られることなどはない。

「そうなればきっと私も呼べる筈だ。信長様、と」

 夜叉丸は鼻を啜った。

「私は、蘭殿が羨ましかった。嫉妬もした。負けたとも思った。お館様は蘭殿に名を与え自分の名を呼ばせた。帰って来て、真っ先に蘭殿を抱いた。その時の、私の悔しさがわかるのか?」

「……」

「それから、お館様の腕の中で、私と目を合わせた時に、逸らしてお館様に抱きついたのも…」

「そ、それは、気恥ずかしかったからで、決して…」

「分かっている。分かっているのだ…」

 夜叉丸は下を向いた。

「取り乱してしまって、すまない」

 蘭丸は首を横に振る。

「夜叉丸殿…、私こそ、烏滸がましいのを知りながら、夜叉丸殿に…」

 その後の言葉が繋げない。何秒間か沈黙が続いた後に、夜叉丸は顔を上げる。

「蘭殿に、頼みがある。聞いてくれぬか」

「私で良ければ、何なりと」

「私のこの部屋を、使って欲しい」

「私には贅沢すぎます」

「それはない。蘭殿は、お館様にとって特別なのだ。それを皆に知らしめる良い機会なのだ。私は、もう決めた」

「はあ…」

「良いのだな?」

「お断りしても、宜しいのですか?」

「駄目だ」

 夜叉丸は立ち上がり、窓辺の机を指差した。

「この机を使って欲しい。私にはもう小さいのだが、蘭殿にはちょうどいい筈だ」

 夜叉丸はどことなく楽しそうだった。目尻は赤いが、涙は渇いている。
 蘭丸は、机の前に座る。少し、蘭丸には高いようだ。夜叉丸はぽんと手を叩き、荷物の山の中から風呂敷の包みを引っ張り出し、中から座布団を取り出した。

「これを使うといい」

「そんなに頂いては、申し訳ありません」

「いい。受け取ってくれ。私は、私が居た痕跡を残したい。蘭殿に、そうして欲しい。誰でも良い訳じゃない、蘭殿だからだ。嫌か?」

 蘭丸は首を左右に振る。

「有難う御座います、夜叉丸殿」

 夜叉丸は、赤くなった目尻を下げて笑った。




 蘭丸は、その夜なかなか寝付けずにいた。今頃、夜叉丸は信長の元にいるのだろう。胸が痛む。嫉妬ではなく、不安故に。いつか、自分も信長から離れなくてはならない。

(出会ったばかりなのに、別れを気にするなんて…)

 蘭丸は寝返りを打って無理矢理目を閉じた。






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