拾伍
広間では盛大な宴の準備が執り行われている。半月振りに夜叉丸に会える。蘭丸は胸を弾ませていた。慣れた庭掃除も、何時もより気合いが入った。塵を残さず箒で掃いて、石畳を磨く。仕上げの水撒きをしていると、夜叉丸が到着したとの報せが入った。
蘭丸はいそいそと掃除道具を纏めて、襷を外して夜叉丸を出迎えに行く。
「蘭殿!」
たどり着くと、美丈夫が声を掛け、取り巻きの者を掻き分けて一目散に蘭丸に抱き付いて来た。
「夜叉丸殿…?」
「私をもう忘れてしまったのか?」
体を離し、額を指先でこつんと弾かれた。蘭丸は、夜叉丸をまじまじと見詰めた。
前髪を落とし、刈られた月代で大分印象が変わってしまった。しかし、夜叉丸はそれでもなお美しかった。寧ろ、美しさに磨きがかかっていた。これが、夜叉丸本来の魅力なのだろうか。信長の元を離れるのが嫌だと泣いていた、女の心を持った夜叉丸が、脱皮するかのように形を変え、男になった。蘭丸は、夜叉丸の変わりように少しだけ動揺した。
「夜叉丸殿」
「もう、私は夜叉丸ではない。長興だ」
「なが、おき様…?」
「そうだ」
「お館様の、一字を…?」
「そうだ」
夜叉丸の満面の笑みは、お日様のように眩しい。こんな風に笑う夜叉丸を初めて見た。今までの夜叉丸の笑みは、花のように可憐で麗しかった。
「蘭殿、引き出しの中は開けたか?」
「引き出し?」
その時、他の小姓が夜叉丸を呼び、夜叉丸はそちらへ行ってしまった。
大勢の小姓を殆ど一人で纏め、面倒見の良かった夜叉丸は皆に慕われている。城の中に入るまで、暫く時間がかかりそうだった。
何の引き出しだろうか。考えて、はっと思いついたのが、譲り受けた机だった。
じきに宴が始まる。蘭丸は部屋へ戻り、引き出しを開けた。
机には真ん中に一段、左に三段の引き出しがある。蘭丸は机道具もごく僅かで、真ん中の一段だけしか使っていなかった。初めて、開いた左の上段の引き出し。中には見覚えのある袱紗が入っている。
「これは…」
包みの中には琥珀が入っていた。初めて信長と繋がった日、貰ったものだ。そのまま情事に移り、痛みや疲労ですっかり忘れてしまった。
あの時は、不相応なものだとすぐに返してしまった。しかし、夜叉丸は言った。
(愛される者としての、自信…)
蘭丸は、手の中のものを握り締めてから、懐へしまった。
楽しそうな宴会も、小姓にとっては業務に変わりない。蘭丸は、手酌をしたり、料理を配ったりと大忙しだった。信長は機嫌が良く、広い宴会場は和気藹々としている。
そんな最中、たまに信長と夜叉丸を交互に見た。二人の席は遠く、関わることが殆どないようだった。
何往復したか分からない。空の皿を運び、また酒を運ぶ。忙しくて、あっという間に宴は終わっていた。花を添えた芸子も引き払い、客人の半数が席を離れ、中には眠りこけている者もいる。信長も、肘掛けに手を突いて船を漕いでいた。蘭丸が夜叉丸を探すと、夜叉丸がちょうど手招きしている。
「お館様は、酒があまり強くない」
「そうなのですか?」
「顔色も口調もあまり変わらないからな。部屋まで送って差し上げるんだ。私ももう、部屋へ戻る」
「もう、戻ってしまうのですか?」
「ああ。私の役目ではない」
夜叉丸の瞳に、寂しさの翳りが見えた気がした。
「今日の服は、蘭殿が選んだのだろう?」
「はい」
「やはりな。蘭殿らしさが滲み出てる。お館様に、とても似合っておられる」
夜叉丸は、それだけ言って部屋を出て行ってしまった。
夜叉丸はもう吹っ切れたのだろうか。信長が己の総てだった時間を、もう思い出に変えてしまったのだろうか。
「夜叉丸殿!」
夜叉丸は足をぴたりと止め、ゆっくり振り返った。
「もうその名で呼ばないでくれぬか?」
「何故ですか?私にとって、夜叉丸殿は大切な方なのです」
「蘭殿…」
夜叉丸は、赤い唇を震わせた。そして、品のある仕草で口元を抑える。
変わらないと確信した。やはり、夜叉丸は信長に、主従を越えた情を抱いてしまった、憐れな美しい青年だと蘭丸は悟ってしまった。同じ気持ちを抱いてしまった者だから、気付いてしまった。
「夜叉丸殿…」
蘭丸は夜叉丸の手を取り、廊下に出た。
「蘭丸殿…?」
廊下の行き止まりに着くと濡れ縁まで引っ張り込む。立派な松の木が伸びて、月明かりが長い影を落とす。
「此処なら大丈夫です」
夜叉丸を見上げる。
「何がだ?」
「夜叉丸殿が悲しくても辛くても、此処ならば誰にも見つかりません」
夜叉丸がまた手を口元に置く。徐々に上に移動すると、顔がくしゃりと歪んだ。
「何故、蘭殿が、私に夜叉丸を求めるのだ…。皆もまだ私を夜叉丸と呼ぶ、お館様以外は…」
「お館様は、ご自分の名の一字を、夜叉丸殿に与えました。それが、嬉しいのでしょう」
「私は、長興にはなれぬ…。夜叉丸のまま、お館様の…」
夜叉丸はその場で泣き崩れた。蘭丸は夜叉丸の肩を支える。成長期を終えた年頃にも関わらず、その肩は細身であった。
傍にいたい。夜叉丸はか細い声でそう言うと、静かに泣き続けた。
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