捌
同室の喜平の寝息が聞こえると、蘭丸は布団から物音を立てないように忍び出た。寝間着から小袖と袴に着替えて、窓から外の木を覗き込む。影は斜めに延びていた。あとどれくらいだろうか。蘭丸は窓枠に寄りかかって外を眺めた。
蘭丸は、もしもの為に体を念入りに洗った。信長に抱かれても大丈夫なように。まだ乾ききらぬ長い髪から、香料の甘さが芳しく漂う。蘭丸は風呂上がりの夜叉丸を思い出していた。
信長の身を清めたのは夜叉丸だ。それは当然なのだが、その事実を認識すると、どうも胸に何かがつかえる。その何かが、蘭丸には分からなかった。
しばし耽っていると、木の影の角度は小さくなった。平行とは言い難い。
(まだ早いか…、でも、お待たせするよりは)
蘭丸は立ち上がって天主へ向かった。今は誰よりも尊い信長に会える期待を抑えながら。
天主の階段下には
宿直の小姓がいた。
「もうそんな時間か?」
小姓は疲れたように首の関節を鳴らした。
「少し、早いかも知れませぬ」
「まあ、いいだろう、蘭丸殿であれば」
蘭丸はその言葉の意味がわからなかったが、余り気にも止めず、通り過ぎて急な階段を登った。
…!
天主の障子の前で、音とも声ともつかない何かが揺れた。
部屋は青白い光に包まれ、大きな影が蠢いていた。得体の知れない生き物のような形で、禍々しく震える。蘭丸は訝しんで、一寸にも満たない隙間から中を覗く。
ぴちゃ、と聞き覚えのある音が耳に届いた。
(………!)
障子の向こうで、夜叉丸と信長が繋がっていた。対面して重なり合い、互いの口を貪っている。夜叉丸は腕や脚を信長の体に巻き付けていた。
唇を離すと、濃度の濃い唾液が二人の唇を繋ぎ、光った。
「愛いな」
信長が夜叉丸を見る目は、とても優しく艶やかだった。
蘭丸は、物音を立てないように其処から離れた。
「どうしたのだ?」
すぐに戻ってきた蘭丸に、宿直の小姓は意外そうな顔をした。
「まだ、早かったようです。ここで待たせて頂いても良いですか?」
「構わぬよ」
蘭丸は隣に正座をした。指先が微かに震えている。別に恐ろしい思いをした訳でも、体に強い打撃を受けた訳でもないのに。蘭丸は自分の掌を見詰め、握り締めた。
「具合でも?」
「いえ…」
小姓は含み笑う。
「伽の最中だったのだな?」
「はい…」
「初めのうちは面食らうが、じきに慣れるさ」
「はい…」
蘭丸は両手を握った。この出来事に動揺している。夜叉丸の見たことない姿を目にしたからなのか、絡み合う二人があまりにも淫らだったからなのか。
「聞いているのか?」
小姓は上の空の蘭丸の顔を覗き込む。
「はい?」
「夜叉丸殿は、お館様の一番のお気に入りだ。利発であられて、何よりお美しい」
「はい」
そんなことは分かっている。何故、この人はこんなことをわざわざ伝えるのだろうか。そう思いながら、蘭丸は当たり障りのない返事をする。
「しかし、夜叉丸殿も十と九。そろそろだと思う」
「そろそろ?」
蘭丸は小姓を見詰めた。
「わざとか?」
「え?」
「分からない振りをしているのか?」
蘭丸は何を言われているのか分からなかった。ここの人とはいまいち噛み合わない。蘭丸が返答を探している間に、向こうから口を開いた。
「いや、今のは忘れてくれ。つまりはな、蘭丸殿が夜叉丸殿に取って変わろうと言うことだ」
蘭丸は大きな目を円くする。
「そんな、滅相もないことです。私みたいな若輩者が、夜叉丸殿の…」
「当然だ。そなたはまだ体でしか尽くしてはおらぬからな」
「体でだって、まだまだです…」
蘭丸は相手が分かる程に肩を落とした。小姓は蘭丸には嫌味が通用しないことに、呆れながらも笑った。
「まだまだか?」
「はい」
二人の重なり合う姿を思い出した。二人の熱い口付けと、夜叉丸の、薄く筋肉の付いたしなやかな体が容易く瞼に蘇る。蘭丸は、自分の体を見下ろした。背も低く、痩せた貧相な体。こんな自分が夜叉丸に並ぶ筈もない。
「しかし、周りではそうと専らの評判だ。少なくとも、我ら小姓衆の間では」
小姓の言葉が、蘭丸を現実に引き戻す。
「何故ですか?」
「お館様は、取り分け蘭丸殿を贔屓しておられるからな。お父上の功績を踏まえても」
「そうなのですか?私にはよく分かりません」
信長はとても優しい。しかし、それが自分だけに向けられているものだとは蘭丸は思っていなかった。
「本気で言っているのか?」
小姓の口調が鋭くなる。蘭丸は何故この者が怒っているのかも分からなかった。
「あの、私、気に障るようなことを…?」
「ならば言うが、手討ちにされた申三殿をどう思う?」
「え!?」
蘭丸の表情を見て、小姓も驚きの表情を浮かべた。
「知らなかったのか?」
「……」
蘭丸は開いてしまう口元を手で覆った。聞き逃した夜叉丸の言葉を思い出し、理解した。初めて信長と夜を共にし、長いこと眠って、遅い朝に夜叉丸に起こされた。夜叉丸に体を触れられ、拒むと夜叉丸は言った。申三の二の舞はごめんだと。あの時、既に申三の手討ちは為されていたのかも知れない。
「けれど、それは…」
「申三殿は、可愛い蘭丸殿を傷付けたからな」
「失礼ですけど、それだけで決めてしまうのは性急すぎではございませんか?信長様は、決してそのような方ではないと」
「信長様…?」
蘭丸ははっと手で口を抑えた。主による依怙贔屓を、自分の発言で決定づけてしまった。少なくとも、相手にとっては。
「申三殿のことは、私も知りませんが、それ以前から、問題があったかと思います」
「何!?」
小姓は蘭丸の胸座を掴み、拳を上げた。その手を夜叉丸の凛とした声が遮った。
「太市殿!」
袴姿の夜叉丸が間に入った。
「何をしている?」
「何もございませぬ」
太市と呼ばれた小姓は、乱暴に手を離した。
「もう時間だ、宿直は私が代わる。そなたは下がってよい」
太市は憮然とした表情で、その場を離れた。蘭丸は、神妙な面持ちで去っていく太市の背中を見ていた。
「蘭丸殿」
「あの、申三殿は…」
「蘭丸殿が気にすることではないよ」
「そう、ですよね。けれど…」
「けれど?」
「私が切っ掛けだと思ってしまったら……、それは、思い上がりでしょうか?」
「そうだ」
夜叉丸はきっぱり言った。
「あんな者の言うことなど気にするな。太市殿は、弟があんな目にあって、気が立っているのだ」
「弟?」
「太吉殿だ。お館様に同行し、道中斬り捨てられたと馬廻の者は申しておった」
「太吉殿が…?」
蘭丸は同室の太吉が戻っていないことに今更気付いた。
蘭丸は体を震わせた。仕官する前の信長の残虐極まりない噂話。信長に会い、優しさに触れて、ただの風評だと思い込んでいた。信長は自分の意にそぐわぬ者には容赦はない。しかも、手討ちにされた申三も、太吉も、自分に痛手を与えた者たちではないか。
「蘭丸殿、お館様をお待たせしてはいけない」
「しかし…」
「気になるなら、直接聞いてみればいい」
夜叉丸は蘭丸の背を押した。
改めて夜叉丸を見やる。夜叉丸はいつものように乱れなく着物を着付けていた。しかし、髪は簡単に後ろに一纏めにしているだけだった。耳を隠す左右不対象の後れ毛が妙に艶っぽく、行為の名残りを感じさせた。
「ほら」
先よりも強く、夜叉丸に背を押されて、蘭丸は前に進んだ。
階段を踏む足取りが重い。
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