妄想、愉悦。


再咲きの花


    


 小姓時代の蘭丸と信長の話。番外編の二年後くらい後の話。



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 蘭丸が織田の小姓となって二年が過ぎた頃、年子の弟ら二人も同様に信長に仕えた。蘭丸は十五歳、坊丸は十四歳、力丸は十三歳だった。
 蘭丸にとってはまだまだ二人は小さな弟で、家族が傍にいる安心感よりも心配が先立っていたのだが、弟らは上手くやっていた。先輩や同輩、家臣、そして信長自身からも、弟らの気立ての良さや頭の回転の早さを誉められた。
 今夜、初めて蘭丸の宿直の番と弟の伽の番が重なった。弟らが出仕して半年程経過した頃だった。

 蘭丸は、背筋をぴんと伸ばし、信長の部屋の前に佇んでいた。用意した盥の湯を確認するとまだ温かい。冷めないように蓋を戻し、また向き直る。部屋の前はがらんと静かで、蘭丸がいくら集中しても、なかなか時は経過してくれなかった。

「…ふぅ…」

 蘭丸は深呼吸する。小さな吐息が静かで広い空間に響く。それでもまだ気を落ち着かせることが出来なかった。
 理由は分かっている。伽は蘭丸が初めて課せられた仕事だった。しかし、それが異例のことだと知ったのは、後輩小姓を何人も迎えた後だった。弟らとて例外ではなく、様々な雑務を覚えた後、信長の褥に就いたのは四月を過ぎた頃だった。
 伽において弟らに特に助言を求められたことも、蘭丸から施したこともなかった。弟らが信長の褥の中で、どう過ごしているか蘭丸の知る由もない。

 みしり、と戸の向こう側が軋んで蘭丸は振り返る。ただの家鳴りのようで、その後はただ沈黙していた。信長の部屋の戸は厚く、余程の物音がしない限り、此処まで届くことはそうない。
 蘭丸は息をついてまた前を見る。早く時間が過ぎるように願いながら。

「お蘭」

 信長が声を張る。蘭丸は再度振り返った。

「おらぬのか?」

「い、いえ!ただいま!」

 盥を持ち上げると湯が零れて、手首と膝が濡れた。蘭丸は構わず部屋の前に赴いた。

「蘭丸に御座います」

「入れ」

「失礼致します」

 戸を開き、顔を上げると信長が布団の中で手招きをしていた。その隣で、小さな力丸が熟睡していた。

「お体をお拭き致しましょうか?」

「必要ない」

 信長が布団から出て、胡座をかいて蘭丸に向き直る。開いた裾の間から着けたままの下帯が見える。

「如何なさいましたか?」

「眠れぬ」

 信長は後ろ手で力丸の小さな頭を撫でた。

「力丸は早々に寝付いてしまった」

「申し訳ありません。直ぐに起こします」

「必要ない」

「いいえ、駄目です。役目も果たさず、主君よりも先に眠ってしまうなんて。蘭が言い聞かせます」

「力丸ならば、役目は既に果たしておる」

「へ?」

 言葉を受け取り、想像して蘭丸は顔を赤らめてしまった。

「でしたら、蘭が言うことは…」

 しかし、この部屋には蘭丸が想像した役目である行為の名残が全くない。信長の着物も髷も乱れはないし、下帯も着けたままだ。

「子供の肌は温かいからな。次は汝が信長の相手をせい」

 力丸の役目は、単に添い寝をすることだったらしい。

「ですが、蘭はまだ宿直の…」

「交代の時刻であろう?」

 信長が蘭丸の脇差しを奪い、手が届く位置に置いて抱き寄せた。性急な動作で、蘭丸は信長の胸板に倒れ込んでしまった。鼻先が衿の間の素肌に触れる。

「あ…」

「どうした?頬が赤い」

 信長が蘭丸の体制を整えた。

「い、いえ…。わっ」

 信長に着物の襟を開かれた。蘭丸は信長の手に手を重ねる。

「信長様、弟の前では」

「よう眠っておる」

「でも、目を覚ましたりしたら…」

「出来ぬと申すか?信長の命であっても」

「なっ…」

 信長は敢えて蘭丸が困ることを言って不敵に笑った。蘭丸は唇を尖らせた。

「お蘭は怒るか?」

「怒っておりません」

 蘭丸は立ち上がった。見栄えの良い屏風を運んで、布団の前に立て、向こう側の信長に伝えた。

「信長様、此方に」

 座布団を置いて、信長を呼び寄せた。

「力は私よりも寝起きが悪いですが、あの、大切なお役目とは言え、見られて平気な程まだ私は割り切れておらず……、いざという時の為に…」

 蘭丸の言い訳を汲み取り、信長は笑って座布団に腰を落とす。

「布団の外で申し訳ありません。蘭が信長様を温めます」

 信長の目が優しい形で細くなる。蘭丸は膝立ちになり、信長を抱きしめた。額に唇を当てて、瞼、高い鼻筋に上から徐々にそっと口付け、主の唇を奪った。

「……」

 重ね合わせたまま蘭丸が目を開く。信長の唇は濡れていなかった。

「どうした?」

 信長が、呆ける蘭丸の服を脱がしながら問い掛ける。

「力とは、していないのですか?」

「何をだ?」

「唇を合わせては」

 信長は吐息混じりに吹き出した。

「坊丸も力丸もまだ子供故な」

「子供だからって…、では、一度も?」

「うむ」

 小袖と襦袢を肩から滑り落として、袴の腰紐を解かれた。脚から抜くように蘭丸は膝を持ち上げる。

「けれど、坊はもう十四ですよ?体格だって、蘭と同じくらいで…」

「体のことではない」

「では、心が?」

「違う。汝も、まだまだここは子供ではないか」

 信長は蘭丸の胸を指先で軽く叩いた。
 では、何が大人なのだろうか。蘭丸は考える。考えていたら、下帯を解かれてしまっていた。蘭丸は足袋を残して全裸になった。蘭丸も信長の帯を解き、寝間着を肩から落とした。素肌の信長の胸に寄り添い、抱き締める。信長に頬を撫でられる。顔を上げると、信長の優しい眼差しが間近にあって、もう一度唇を寄せ合った。

「う、ん…」

 信長に口を吸われ、鼻から息が抜けて、一緒に声も出てしまう。気をつけなければ。屏風の向こう側には弟が寝ている。蘭丸は信長の下腹部に手を伸ばし、下帯の上から柔らかく握る。

「よ、宜しいでしょうか?」

 蘭丸が囁くと、信長は足を開いた。蘭丸が屈みながら前部を覆う白い布を解くと、信長自身が露わになる。蘭丸はこくりと飲み込んで、顔をうずめた。

「息が荒いな」

 蘭丸は手で握りながら、裏側を舐めた。信長は落ち着いていて、蘭丸の熱い吐息ばかりが響いていた。触れる度に存在感が増して、蘭丸の息遣いの荒さと比例していた。

「もうよい」

 蘭丸は顔を上げる。口から零れたものを手の甲で拭う。距離を取って改めて信長の下半身を凝視してしまった。

「来い」

 信長に強引に引き寄せられた。体を反転させられ、信長の胸に背を預け、膝に座らされる。信長は足を崩していて、蘭丸は信長の膝頭を脚の裏で包むようにして膝を折った。腰に濡れた信長自身の先端が当たり、蘭丸の些細な動きで擦れる。

「大きくなったな」

 信長が蘭丸の肩を包んだ。

「こうして抱いていたのに全く気付かなかった。汝が来た頃、まだ力丸と同等の背丈であったな」

「そうです。信長様には些細であっても、蘭は地道に成長しております」

「しかし、変わらぬものがある。恐らくこれからも変わらぬな」

「何でしょう?」

「欲深さだ」

「欲……」

「お蘭は信長を欲していた。信長を与える以前から。覚えておろう?」

「子供ではないって、そういった意味だったのですね」

「うむ。違いないな?」

「蘭は、お役目を果たせないことが悔しくて…」

「まだ誤魔化すか?」

「ひゃっ」

 信長が蘭丸の乳首を捻った。体が揺れて、信長に濡れた先端で腰を擦られた。

「浅ましいことよ。素直になれ」

「は……、蘭は、信長様が欲しかったのに、傷を受けて、それが叶わず、信長様のお気遣いがとても嬉しいのに、悲しかったです」

 信長が蘭丸の耳に唇を当てた。

「汝程、欲深き者は初めてだった」

 蘭丸は頬を染めた。

「それは、嘘です」

「嘘ではない」

 ここに居る小姓が、皆信長を敬愛していることを蘭丸は知っていた。けれど、思いの型が違うことが、自分が卑しいことのように思えてしまう。

「どうした?」

「何故、信長様はそんな蘭に優しくして下さるのですか…?」

「それを信長に言わせるか。だが言わぬ」

「あうっ」

 信長がまた乳首を押し潰してきた。擦り、堅くなった突起を指で挟まれる。蘭丸は信長の腕の中で体を捩らせた。まるで、自ら信長自身に腰を押し付けているような動作になっていた。蘭丸の腰と信長の腹の間で熱いものが擦れる。

「信長様、蘭に、下さりませ」

 振り返って顔を上げる。信長は不敵に笑っていた。言葉にして懇願しても、いつだって信長は自分自身の選択で動く。その動向に、蘭丸はどれだけ影響を与えられるのだろうか。蘭丸は、短い髭を生やした顎に甘く噛み付く。
 信長の指が蘭丸の下唇をめくった。信長の顎から口を離すと、指が入り込む。

「んん…」

 指で舌の奥をさすられ、唾液が溢れた。その唾液で指をたっぷり濡らして、口から抜くと、下の入り口に埋められる。

「あっ、信長様…」

 意思表示が伝わって嬉しいのにもどかしい。欲しいのは指ではないのに。信長の指が容赦なく内側の弱点を圧迫する。

「ま、待って、蘭はまだ…!」

「まだ、なんだ?」

 信長は指をぴたりと止めた。蘭丸は呼吸を整える。

「ま、まだ、………きたくないです…」

「聞こえぬ」

「こちらが良いです」

 蘭丸は後ろ手で腰に当たる熱を握った。

「しかし、慣らさなくてはな」

「ですから、その………いく時は…信長様の……が良いです」

 恥ずかしくて蘭丸は目の前の戸を見ていた。頭上で信長が笑う。信長は指を抜き、蘭丸の腿裏を持ち上げて、尻を浮かした。そして、熱を待ち受けていた箇所に添え、信長は蘭丸の腰を沈めた。

「んあああ!」

 蘭丸は信長を収めた瞬間達してしまった。畳が白く汚れる。出し切った頃合い、信長が腰を斜め前に打ち上げると、蘭丸の力の抜けた体が揺れる。その刺激で、段々熱がまた上がってくる。

「あ、あっ」

 信長に少しでも触れたくて、蘭丸は腰を支える腕に手を伸ばす。すると、今度は信長が蘭丸の体を座布団の上に寝かせた。
 表情を崩さない信長に見下ろされ脚を開かれて、また中に埋められた。内側を圧迫され、前後運動の度に擦られる。信長の整った顔が、次第にぼやけてくる。息遣いと激しい音が、耳に膜を張ったみたいに遠のく。信長の肌がびくりと揺れた。

「信長様…」

 蘭丸は両手を伸ばす。信長が体を被せてきて、肌が密着する。蘭丸は手足を信長に巻き付けた。

「んっ…!」

 信長に注がれる。信長と混ざり合って溶けてしまうような果てのない快楽。
 自分が欲深いのは、絶対に信長のせいだ。信長に魅せられたら誰だってそうなるはずだ。

「お蘭、まだ放さぬか?」

 我に返り蘭丸は手足をぱっと離した。信長が蘭丸と屏風の間に寝転ぶ。

「信長様。蘭は、満たされました故…」

「そうは見えぬな」

 信長は蘭丸の頬に手を添える。親指が一瞬だけ蘭丸の唇に触れた。射抜くような目で見詰められる。それだけで、満ち足りていた気持ちが覆されつつあった。
 蘭丸は信長の頬に唇を押し当てた。

「訂正します。信長様を離したくないです」

 信長が蘭丸のうなじに手を添えて引き寄せた。間近に信長の優しい目が近付くと、蘭丸は信長の手よりも早い動きで信長に唇を寄せる。唇を数秒すり合わせてから、軟らかくてざらついた舌が入り込み、口内中を撫でられる。
「んっ…」

 唾液がぽたりと信長の口角に落ちた。少しの間見つめ合ってから、蘭丸は睫を伏せた。

「どうした」

「信長様の目がお綺麗で、ずっと見ていられなくなってしまいます」

「そうか。信長は、綺麗なものはずっと見ていたいと思うが」

 信長が蘭丸の脇に手を入れて、上体を持ち上げる。

「わっ」

「乗れ」

「…は、はい。失礼致します」

 蘭丸は信長の腰を跨ぐ。尻に豊穣な芝が密着してこそばゆく、その下はまだ柔らかい。信長が手の位置を変えずに親指で蘭丸の乳首を潰した。

「もう胸は…っ」

「腫れているな」

「先に、信長様が触れられたからで…んっ…!」

 今度は指先で弾いて遊ばれる。信長は楽しそうに蘭丸の体を弄んでいる。蘭丸の下腹部に熱が集まってくる。蘭丸は膝で信長の腰を挟んだ。

「…あっ!」

 蘭丸は信長の手首を掴んだ。

「もう、其処は駄目です」

「駄目なのか?気持ちよさそうにしているではないか」

「き、気持ちいい……のですけれど、あまり、触れられると翌日まで熱を持ってしまって…。ふ、服が擦れるだけで痛くなってしまって、日常生活に差し障ります」

「ならば、明日は一日中褥で過ごそうぞ」

 信長は蘭丸の髪を撫で、頭上の結わえを取った。長い髪がはらりと落ちる。

「信長様もご一緒に…?」

「そうだ」

「明日のご公務を放棄なさるおつもりですか?」

「うむ」

 信長はさらりと言ってのける。信長は蘭丸の生真面目さを知っていた。蘭丸がどんな反応をするかを知った上でこんなことを言っているのだ。

「駄目です」

「駄目なのか?」

「当たり前です」

 信長は無邪気に笑った。濃く整った眉が下がっている。こんなやり取りはしょっちゅうあるのに、その度、蘭丸は胸の奥が疼いてしまう。

「ならば、眠る前に信長の熱を下げてくれぬか?」

「はい…」

 信長が自分自身を手で掴み、蘭丸の腰を支えた。蘭丸が腰を上げると、一瞬、尻に信長の熱いものが掠った。さっきまでは柔らかかったのに、すっかり硬さを取り戻している。信長に支えられながら、挿入箇所に先端を添えた。

「塞がりかけているな…。平気か?」

「はい……。んん…」

 腰をゆっくり下ろす。濡れていたせいで、湿り気を帯びた摩擦音立てながら、信長と一つになった。蘭丸は深呼吸をする。

「蘭が動きます故…」

 体を上下に揺する。中が擦れ、熱が上がり、思いのほか早く限界に近付いた。蘭丸は上下運動を止め、下腹部に力を込めた。

「どうした?」

「…いえ…。少しでも、信長様とこうしていたいのに、蘭はもう……」

「愛いことよ…」

「あっ、そんな!」

 信長に上を向いた性器を握られた。下がっていた皮を上げたり戻したりしながら擦られる。

「んあっ!」

 数往復の上下運動で達してしまった。蘭丸は信長に肩を支えられながら呼吸を整える。蘭丸が顔を上げると、信長と視線が合った。

「捕まっておれ」

 信長に両手を合わせ、指を交差し握られた。蘭丸は頷いて腰を立てる。

「あうっ」

 信長が腰を上げ、蘭丸の小さな体が僅かに浮く。肌をひっぱたく乾いた音が何度も響く。素早く、強く。まるで暴れ馬に乗っているみたいだ。しかし、内側が擦れて、快楽の波が押し寄せてくる。手綱を掴むように信長の指を強く握った。この波に呑まれても、離さないように。

「ん、んん!」

 蘭丸は中からの刺激で三度目の熱を信長の腹に撒いた。しかし、信長はまだ達していない。蘭丸は震えてしまう体をどうにか崩さないように背筋を伸ばした。

「あ、ああっ」

 また内側から快楽が襲ってくる。それでも、信長は蘭丸を激しく下から突き続けた。

「やあ!ああっ、んっ」

 上りつめて、その感覚が絶え間なく続く。すると、内側から信長の熱が溢れ出した。蘭丸は力つきて、ふらりと真横に倒れる。心地良さそうに目を細めた信長の目が見開いた。ぱたっと軽いものが頭に当たる。

「んぎゅ」

「…んぎゅ?」

 力の抜けた蘭丸は、信長に握ったままの手を引かれて起こされた。

「信長様、今、蛙が潰れたような鳴き声が…」

 信長のものとはかけ離れた声だった。信長が真横を向いていて、何かと蘭丸も見てみる。

「あ、力!」

 屏風が弟の上に倒れていた。蘭丸はすぐに屏風を立てた。弟は背を向ける体制でまだ目を閉じていた。屏風が当たったと思われる頭や肩を撫で、布団を掛け直す。

「申し訳ありません。今、体をお拭き致します」

 信長のもとに戻り、盥を開けた。まだ温かい。手拭いを絞って、信長の肌を拭き取る。

「いっぱい汗をかきましたね」

「これはお蘭のだぞ?」

 信長が蘭丸の肌をもう一枚の手拭いでなぞった。

「汗かきめ」

「……」

「どうした?」

「いいえ。まだ、暑くて」

 蘭丸はそのまま信長の肌を拭き続けた。肌を清潔にして、寝間着を着付ける。信長は満足したようで、蘭丸はほっとした。

「お休みになって下さい」

「汝も寝ようぞ」

「はい。私は、部屋へ戻って休ませていただきます」

 信長は屏風を雑に退かして、蘭丸を布団に引きずり込んだ。

「の、信長様!」

 口を大きな掌で塞がれる。信長は自分の唇に立てた人差し指を当て、悪戯に笑った。

「……」

 そんな笑顔をされたら何も返せなくなってしまう。信長は蘭丸を胸に抱いたまま胸に顔を押し付けた。

(信長様…)

 信長の命に背くことが出来るはずもないが、結局この状況に甘んじている。きっと、信長も蘭丸の気持ちに気付いている。蘭丸は信長の背に腕を回した。指先が信長と背中合わせに眠る弟の背筋に触れた。

(力…)

 早く眠ろう。そして、早く目覚めなければ。少なくとも、弟よりは先に。蘭丸は信長の穏やかな鼓動を聞きながら、瞼を閉じた。







「兄上」

 頭上で幼い声がする。

「兄上」

 蘭丸は目を開けた。目の前に弟の顔がある。

「あ…力…」

「すみません。お館様には好きなだけ寝かすようにと言われましたが、そろそろ起きた方がいいかと思いまして」

「ああ…、有難う」

 蘭丸は身を起こした。体が重く、すっと上がらない。

「大丈夫ですか?」

 力丸が背を支えてくれた。布団が肌から落ちて、服を着ていないことを思い出した。辺りを見回すと脱いだものがなく、屏風は元の位置に戻っていた。

「兄上、服ならばこちらに新しいものをお持ち致しました」

 差し出された着替えの一番上には、純白の下着が畳まれている。蘭丸は顔を赤くした。力丸も同じくらい赤面して、着替えを枕元に置いた。

「有難う、力」

「いいえ、お館様に、寝起きの兄上の世話を申し付けられました」

「お館様に…?」

「はい。あ、体、拭きましょうか」

「いや、いいよ」

 力丸がまた俯く。蘭丸は弟の目線が下にあるうちに、立ち上がって着替えを始めた。下帯を身に付けると、力丸が視線を上げた。やや充血した目で見つめられる。

「力…?」

 蘭丸が名を呼ぶと、力丸ははっとしてまた俯いた。それにしても体が重い。昨夜のままの足袋を最後に取り替えて、しゃがんで、力丸と目線の高さを合わせる。

「力、頭は痛くないか?」

「突然で驚きましたけど、痛くはないです」

「良かった。すまなかった、気を遣わせてしまって」

「兄上、私が目を覚ましたの、気付いていましたか?」

 力丸が顔を上げる。やはり、昨夜力丸は眠っていなかったのか。気付いてはいたものの、事実だと知ると羞恥でいたたまれなくなる。今度は蘭丸が俯いた。

「り、力は寝た振りをすると、いつも口を真っ直ぐにするから…」

「そうでしたか…」

「このことは、お館様には…」

「お館様は、私が目覚めていたの、気づいておりましたよ?目覚めた間合いも指摘されて…。呼吸の変化でお気づきになられたそうです」

 蘭丸は驚いて両手で頬を抑えた。相変わらず熱い。やはり信長はただ者ではない。

「わざわざ指摘されたと言うことは…屏風が倒れた時に目覚めた訳ではないのか」

「はい…」

「いつだ?」

「兄上が大きい悲鳴を上げた時です。また寝ようと思ったんですけど、会話や音も途切れず…」

 大きい声、出しただろうか。あの時は、信長の存在でいっぱいになって、力丸のことを忘れていた。

「直後にこんな会話をなさっていた時です。まだ離さぬか。もう満たされました。そうは見えぬ。訂正します、蘭は信長様を離したく…」

「わあ!」

 蘭丸が声を荒げると、力丸は口を閉じた。そして、気まずそうに恥ずかしそうに耳まで赤くして俯く。
 言われて思い出した。確かに、叫んだりもした。けれどまさか、そんなに早く目覚めていたなんて。そして、信長が知っていたなんて。知りながら、あんなに恥ずかしいことをまた言わせたなんて。
 伽の最中、急用を申し出に小姓が現れて、行為を見られることも数度あるし、その逆もある。けれど、力丸は他でもない弟なのだ。力丸だって、兄のこんな姿を知りたくなかったはずだ。

「兄上、そんなに落ち込まないで下さい」

 俯く蘭丸の肩を、力丸が叩いた。顔を上げると、優しい笑顔を向けられた。これでは、どちらが兄なのか分からない。

「確かに、昨夜は驚きました。でも、色々分かったんです。兄上や、お館様のことが」

 こんなことで分かられたくなかったと蘭丸は思った。しかし、力丸は曇りのない笑顔を向けている。どうやら悪い意味ではないようだ。

「兄上はとても優しいけれど、他の後輩と同じように接して下さいます。私情を持ち込まないように努めているのでしょうけど、やっぱり少し寂しいです」

「力…」

「美濃にいた頃、兄上は兄上でした。でも、安土に来てからは兄上は先輩になってしまった。色んな方が兄上を手本にせよと仰いました。兄上は立派です。冷静で、迅速で、判断力もある。でも、前みたいに些細なことで笑ったり、一緒に悪戯をして大人に怒られたり、そんなことが出来なくなってしまった。寂しくもあったんですけど、心配でもあったんです。兄上から、以前の兄上らしさが消えてしまっていたから」

「以前の…」

「他の先輩方は、もう少し気を抜いています。業務に携わる時以外は、年相応の少年に戻ります。兄上はそれすら見受けられない」

「そんなつもりはないのだけれど、そう見えるのか?」

「はい」

 力丸はきっぱりと告げた。そもそも、蘭丸には此処で子供のような交友関係を築いていける相手がいないのだ。しかし、そんなことを口に出来る訳もない。
 力丸は口元を綻ばせる。

「でも、それは杞憂でした。兄上は、お館様と居る時、以前の兄上になります。子供のように甘えたり、共に楽しんだり、兄のように叱ったり…」

「……」

「知っていますか?私、最初の頃、お館様がとても怖かったんです。色々噂も聞いておりましたし、何より威厳のある方でしたから。けれど、初めてお館様の部屋で過ごした日に、お館様は私に兄上の話をして下さいました。とても優しい口調で」

「信長様が…」

「はい。それから、お館様を怖いと思わなくなりました。けれど、お館様の話した兄上と、私がここで見た兄上も違っていて、まだ変わってないって実感が湧かなくて。それも昨夜、解決しましたけれど」

 力丸はにっこり笑った。そして、昨夜を思い出したのか笑ったまま顔を赤くして俯いた。

「力丸…、心配かけて、ごめん。私は、力や坊みたいに、誰とでも仲良くなれる訳ではないんだ」

「知っています。兄上は真面目すぎて、皆様気後れしております。だから、浮いているんじゃないですか?」

「浮いてる…。やはり、そう見えるか?」

「ええ。その生真面目さが兄上の美徳でもあります。同世代の皆様が全員兄上を好くかと問われれば、そうではないでしょう。でも、その美徳を愛さずにいられない方も、少なからず存在します。お館様以外にも」

「力…」

 不意に、力丸が小さな手で蘭丸の髪を撫で始めた。

「兄上の髪、今日は私が結っても良いですか?」

「え?」

 返事をする前に、力丸は鏡と櫛を箱から取り出した。枕元に落ちていた飾り付きの紐を拾う。鏡に映る二つの顔は、よく似ていた。

「いつも、目覚めたらこんな風に坊兄上の髪を梳きます。まだ、お互い自分のは上手く出来ませんから。兄上は、ずっと一人でしていたのでしょう?」

「うん…」

「でも、これから、寝起きで手が痺れていたりして上手く出来ない時は、私か坊兄上に言って下さいね」

 髪を頭上で高く括られ、飾りがよく見えるように綺麗に結ばれた。力丸は、確認するよりも先に蘭丸の肩を抱き締める。

「力…?」

「もう、一人じゃありませんから」

 寂しくなかった訳ではない。しかし、自分が孤独だと思ったことはなかった。それでも、力丸の細腕が温かく、蘭丸の胸を締め付けた。
 もしかして、信長は小姓仲間として入った弟との距離を縮める為に、力丸の側で蘭丸を抱いたのだろうか。他にやり方があるような気もするが。

「有難う、力。寂しい思いをさせて悪かった」

 力丸が蘭丸のこめかみに頬を寄せた。不意に手を下げ、胸に服の上から指先をこすりつけてくる。

「力?」

「兄上、やはり、痛いですか?」

 思い当たる箇所に指先が当たる。

「なっ!」

 蘭丸は力丸を突き飛ばした。力丸の小さな体は尻餅をついた。力丸は起き上がってきょとんとする。

「やはり、痛いのですか?」

「痛くない!」

「ならば、何故怒るのですか?」

「力こそ、何故こんなことを」

「お館様に言われました。お蘭が痛がっていないか確かめて、痛がっていたなら手当てをしてやれと」

「手当てって……!」

 淫らかつ子供じみた悪戯を、子供を使ってするなんて。しかし、これで蘭丸が怒ったりしたら信長の思う壺だ。蘭丸は唇を震わせながら気持ちを落ち着かせた。

「兄上?本当に痛くないのですか?」

「うん…」

「良かった」

 力丸は櫛と鏡を道具箱にしまった。

「私は戻ります。そうだ、今夜は兄上がお館様の部屋へ来るように、とのことだそうです」

「今夜?」

「はい。では、失礼致します」

 力丸が部屋を出る。蘭丸は布団を畳んで、部屋を見回した。小さな塵を拾い、屑籠に捨てて布団と一緒に持ち上げて部屋を出る。
 信長の布団は分厚くて、前が見えない。慎重に歩を進める。

「兄上!」

 階下から坊丸の声がした。階段を駆け上がる足音。

「危ないですよ、半分お持ちします」

「有難う」

 坊丸は上半分の布団を取った。これなら前も弟の顔も見える。そう言えば、今夜の宿直の番は坊丸ではないか。蘭丸は信長の思惑に複雑な気分になった。

「坊、午後の剣術稽古が終わったら、坊と力の部屋に行ってもいいか?」

「ええ、勿論!」

 坊丸は嬉しそうに笑った。そして、不思議そうに小首を傾げた。布団に柔らかな頬が埋まる。

「でも、何故改まって?」

「坊たちと遊びたくなった。菓子でも食べながら、歌留多遊びでもしよう」

「はい!楽しみにしております」

 坊丸は満面の笑みで返してくれた。よほど嬉しいのか、坊丸は聞き覚えのある懐かしい小唄を口ずさみながら軽快な足取りで前を歩く。
 今夜きちんと信長に伝えよう。もう、私たち兄弟は大丈夫ですと。信長はどんな顔をするだろうか。きっと、優しく微笑みかけてくれながら、何のことだとはぐらかすかも知れない。今夜のことを考えると胸がとくりと高鳴った。






-了-   





- 8 -

*前次#


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