妄想、愉悦。








  


 小鳥の囀りで、蘭丸は目を開けた。傍らで源太郎はまだ眠っていた。先に目覚めたことにほっとして、ゆっくり布団から出た。

「…!」

 後孔から、白濁液が垂れた。蘭丸は慌てて脱いだ寝間着の裾で押さえた。その情けない体制のままで外まで赴く。

「あ」

 草履が出来上がっていた。源太郎が昨夜、蘭丸が寝落ちした後編んでくれたのだ。足をはめるとぴったりで、改めて源太郎の思いやりに感動してしまう。

「!」

 油断していたら白濁液が腿に滴った。慌てて戸を開け、井戸端に駆け込む。
 水を汲んで、汚れた下半身を洗う。誰が見ている訳でもない、少々寒いが草履だけの姿になって脱いだ寝間着を洗った。空模様を確認すると、不安定な曇天が心許なく、部屋干しすることにした。
 源太郎の妹の服に着替え、たすき掛けをして、部屋の角の間に紐を通して寝間着を干した。これからご飯を炊いて朝餉の準備をしよう。ちらりと源太郎を見てみると、まだ眠っていた。
 楽しい。やはり、こうして大切な人の為に何かをするこの時間が、蘭丸にとって一番充実している。




「源太郎様、源太郎様」

 源太郎は寝起きには強い。名を呼んだらすぐに起きた。

「ん…?お蘭、まだ、鐘は鳴ってないだよ」

「今朝は、小蘭殿の絵を見るのでしょう?」

 昨夜は、源太郎の仕事後の姿では作品部屋にすら入れさせて貰えなかった。

「ん、そうだったな…」

 起き上がった源太郎に冷たいお絞りで顔を拭いてやる。源太郎は気持ち良さそうにまた目を閉じた。

「源太郎様、草履、有難うございます。とても歩きやすいです」

「そっか良かっただ」

「お食事の用意が出来ました故、目が覚めたら召し上がって下さい」

「うん」

 源太郎が布団から出ると、蘭丸は敷布を取って洗いに出た。体液で硬くなった部分がなかなか落ちずに四苦八苦して、部屋に戻ると源太郎は既に食べ終えていた。

「あとはおらがやるから、お蘭は食べていいだよ」

「いえ、あと少しですから」

「いいから」

 源太郎は蘭丸の手から敷布を取り、干してから食器を洗いに出た。朝はあまり食欲がないが、少量の汁かけ飯を何とか流し込んで源太郎に続く。共に皿を洗い、歯を磨き、鍵をかけて家を出た。
 明け方の山の空気は一段と澄んでいる気がする。しかし、今日は湿った匂いが気になった。

「今日は雨かも知れませんね」

「うん。おら、お蘭と出会ってから、雨が好きになっただ。雨だったら一緒にいられっから」

「はい」

 手を強く握りあう。まだ誰も活動しておらず、人の気配はない。この広い長い山道を二人で独占しているみたいだった。

 街に入っても、早いだけ昨朝よりも人が少ない。蘭丸は、なるべく前を見て歩いた。

 長屋の前に辿り着く。源太郎が声をかけると、一回で小龍が戸を開けた。

「すまね、朝早くに」

「いいよ、絵、見てくれるんだろ?」

 小龍が戸を開けて、二人を中へ促してくれた。寝癖こそあるものの、顔はすっきりしていて、既に目覚めていたようだ。

「ゆっくり見てってくれ」

「じゃあ、ゆっくり見させて貰うだ」

 源太郎は開けたままの障子部屋に入って行った。
 朝餉の支度途中だったらしい小龍はまな板の前に立った。

「あんたは見ないのか?」

「私は昨日、ゆっくり拝見させていただきました。それに、私がいては落ち着いて見られないと思いますし」

「そりゃあ、そうだな」

「お邪魔でなければ、小龍殿のお手伝いさせて下さい」

「ああ、助かるよ」

 蘭丸は服をたすき掛けて手拭きで丁寧に手を拭った。

「その台にある粉をそこにある冷水で割って打ってくれ。硬さは…」

 小龍が蘭丸の顔に手を伸ばした。蘭丸はびくっと体を揺らして、半歩後ずさる。
 その挙動に、小龍の目が少しだけ動揺していた。

「あの…」

「硬さは、これくらい」

 小龍は蘭丸が謝るより先に、固まった手を伸ばして、蘭丸の耳朶をつまんでやわやわ引っ張った。くすぐったさに、蘭丸は笑ってしまう。小龍も笑い返した。

「これくらいですね、承知しました」

 小龍は蘭丸の気まずい思いを察してくれた。後腐れないように、触れた指はとても優しい。

「力仕事なんだが、大丈夫か?」

「大丈夫です。私、力はありますから」

 蘭丸は半球型の鉢にある粉を水と混ぜ、こねる。硬さを調整して、台に打ち粉をのせて力強く打った。
 楽しい。これは、昨日食べた肉饅頭の生地だろうか。昨夜、源太郎は旨そうに三つも食べていた。きちんと教えて貰って、家でも源太郎に作ってあげたいと、ふと思った。

「小龍殿、これくらいで宜しいでしょうか?」

 小龍は見たこともない手法で具材を調理していた。油と調味料の、朝には少し重たい匂いが漂う。

「ああ。上手いよ。小蘭よりずっと」

「力仕事ですから、女性には重労働ですよ」

 小龍は水気を落とす為に布巾の上で具材を盛り、蘭丸がこねた生地を鉢に戻して布巾を被せて、棚にしまった。代わりに、もう一つの鉢を出す。鉢の布巾には蘭丸がこねたのと同じような白い塊がのっていた。

「こねたのは少し寝かすんだ」

「これで材料を包むのですね?」

「ああ」

 小龍は、台の上の小さな瓶を開けた。中には甘い餡がぎっしり詰まっている。

「生地をこれくらい取って、広げて、このへらで中身を掬って、載せて、こうやって包む」

 小龍は手早く一個を仕上げてしまった。

「お上手ですね」

「やってみるか?」

「良いのですか?」

「勿論」

 蘭丸は小龍の手元を見よう見まねで再現してみる。手の大きさが異なることもあり、なかなか小龍のようには出来ない。
 小龍は蘭丸の包んだ小さくいびつな饅頭を誉めてくれた。

「初めてにしちゃ上出来だ。小蘭よりも上手い」

「小蘭殿より?」

「ああ。小蘭は、絵以外からっきしなんだ。性格もあんなだし」

 確かに、小蘭は他人に気兼ねをすることもないし、強引な部分もある。しかし、今ではそれも小蘭の魅力だと蘭丸は思っていた。

「あれほど絵の才があれば十分ですよ。それに、小蘭殿はお茶を淹れるのも上手ですよ」

「そんなの、誰でも出来るさ」

「小龍殿が淹れて下さるのと全く違うお茶です。花と肉桂の香りの…」

 蘭丸の言葉の途中で、小龍の眉間に皺が寄り、眉が歪んだ。

「小龍殿?」

「ああ…、それは、多分小蘭が調合した茶だ。苦くなかったか?」

「少し苦かったですけど、美味しかったです」

「そっか」

 一瞬、小龍には隠して小蘭がこっそりくれていたものだったのかと不安になったが、小龍に笑顔が戻っていた。
 小龍の手が動き続けてるのを見て、蘭丸も生地に手を伸ばし、餡を包む。

「けれど、小蘭殿は絵だけではないです。彼女自身、とても美しい方だと思います」

「美しい?」

 小龍は吹き出した。身内を誉められるのが気恥ずかしいのだろうか。

「俺は小蘭を見慣れてるから、そう言った判断はしかねるが…。あの外見で面倒なことはあっても役に立ったことないな。まあ、小蘭自身が自分の外見を利用している節はあるが、迷惑被るのはこっちだ」

 確かに、あの美貌で奔放に振る舞えば、家族は気が気ではないだろう。世の中は、親切な人間ばかりではない。蘭丸は、この姉思いな弟が微笑ましかった。小龍の場合は、弟と言うより兄の感覚に近いようだが。

「小蘭が何かやらかすのは、決まって絵に関わることだ」

「やらかすって…?」

「色々あるんだ。だが、俺は小蘭が作品を作るためなら何でも…」

 小龍の輝く瞳が蘭丸を捉え、恥ずかしそうに逸らした。

「小龍殿、とても楽しそうでしたのに、何故話すのを止めてしまうのですか?私、もっと聞きたいです」

「まあ、何でもするさ」

「何でもって?」

「…食事の世話や、体調管理だな。彼奴はほっとくと平気で三日間寝ずに絵を描いたりするし…。あと売り子もするし、着物の生地の案を仕立て屋に頼みに行ったり、小道具を仕入れたり、作ったり…」

「何を造るのですか?」

「扇子とか花とか、髪飾りとか、簡単なもんだけだが」

「素晴らしいです。昨日、私が持った花も小龍殿が?とても、精巧で、綺麗でした」

「あれくらいなら、簡単だ」

「他にはどんなことを?」

「後は、見本になったり…」

「小龍殿の絵ですか?見てみたいです!」

「いや…、まあ、な…」

 小龍は顔を赤く染めたまま語尾を濁し、饅頭だけ作り続けた。何故駄目なのだろうか。幾ら男性でも、小龍は顔立ちだって整っているし、小蘭の画力ならば人目に晒せないような作品になるはずがないのに。
 ちらりと障子を見てみる。紙を捲る音。源太郎はじっくり鑑賞しているようだ。あの部屋は、総ての作品を残していると言っていたが、それらしきものはない。そもそも、男性が描かれた作品すらなかった。

「あ」

 ある。男性の絵。春画だ。女性の淫靡さを引き立たせる為に、男性の姿が割合にして半分はある。

「どうした?」

「だから小蘭殿は、女性の体は描き分けるのに、男性の体は総て同じなのですね」

 納得した蘭丸の呟きで、小龍は耳まで真っ赤になっていた。それを見て、蘭丸も我に返り、発言を撤回したくなった。

「す、すみません、私…」

「ちゃんと見てるとこは見てるんだな…」

「え?」

「いや、何でもない!今度はこっちだ!」

 小龍は先程仕上げた具材を台に置いた。

「この餡は中でばらつくから、強く握れ」

「は、はい…」

 肉饅頭も、小龍の真似をしながら黙々と作った。出来上がったものを並べると、蘭丸のは小さく形も悪いので一目で分かる。

「顔」

「んっ?」

 濡れ布巾で顔を拭かれた。

「粉だらけだ」

「小龍殿は、面倒見の良い方ですね。兄様みたいです」

「そうか?俺はしがない弟だよ」

「しがないだなんて」

「小蘭は、俺がいなかったらもっと違う生き方が出来た」

「小蘭殿は、とても幸せそうですよ?」

「それは、小蘭が絵しか知らないからだ」

「小龍殿…」

 小龍は背を向けて、竈の蒸し器に饅頭を並べ始めた。
 自分の才を見つけて、その道に進むことは十分幸せに値することだと蘭丸は思う。けれど弟から見たら、年頃になっても嫁がずにそればかりに熱中している姉が心配なのかも知れない。
 気にはなるが、人には誰にも事情がある。小龍が適度な距離を保ちながら優しく接してくれる人であるように、出会って間もない自分なんかが深入りしてもいい問題ではない。

「小龍!」

 唐突に、部屋から源太郎が出て来て、小龍を呼んだ。

「どうした?」

「これ、欲しい!在庫はあるか?」

 源太郎は紙を二枚出した。

「あんた、こんな綺麗な嫁がいて、まだ春画が欲しいのか?」

「だって、お蘭に似てるだよ。ほら」

 源太郎が二枚の絵を向けた。極めつけの構図で、痩せた女性としなやかな肉体を持つ同じ男性が、どちらも深く交わっていた。

「どした?お蘭はともかく、小龍まで…」

 耳まで赤面する二人を源太郎はきょとんと見比べていた。






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