拾弐
雨の勢いが増し、展示用の台が濡れた。そろそろ引き払うとするか。小龍は鞄に勘定箱と絵を仕舞う。一枚の絵で手を止めた。源太郎が欲しがっていたものだ。
小龍は改めて絵を眺めた。源太郎が言うのだから、間違いなく彼女はこの女性と似ているのだろう。この絵の女性はどんな人だったか、小龍は思いだそうと小首を傾げるが、具体的な記憶は引き出せなかった。体を重ねた相手であるにも関わらず。
「……」
結局思い出せず、小龍は他の絵と一緒に箱に収めた。小龍にとっては女性を抱くのも小蘭の製作を手伝う為の手段でしかない。肉体的な快楽を得ることはあれど、その行為に対して何の感情も生まれなかった。あるのは、素晴らしい作品が生まれることへの情熱だけだった。
「店仕舞いか?」
顔を上げると、源太郎がびしょ濡れで目の前に立っている。
「あれ、仕事は?」
「この雨だから、切り上げただ」
「そうか。雨避けに入りなよ」
「いいだよ。商品濡らしちまう」
「じゃあ、これ使って」
小龍は傘を差し出す。源太郎は首を横に振った。
「いいだよ。もうこんなに濡れてるしな、雨に当たった方が汚れも落ちるだ」
源太郎は、明るく言った。如何にも、山育ちの百姓らしい発言だった。
「帰ったら着替え貸す」
「すまね。こげん濡れてたら小蘭に怒られるからな」
小龍は風呂敷に荷物を包んで背負い、傘を差した。一人だけ防水しているのも気が引けるが、商品を濡らす訳にもいかず、そのまま歩き出した。源太郎は気にする素振りもなく、寧ろ楽しそうに雨を受け、顔を上げていた。
「小蘭、あとは仕上げだけだって言ってたから、もう終わってると思う」
「そっか。楽しみだ、早く見たい」
「俺もだ」
「終わったら、会うこともなくなるな」
源太郎の声音は大人しく、横顔もしんみりとしていた。
「おめえらには感謝してる。お蘭に親切にしてくれたこと」
「源さん?もう、此処へは来ないのか?」
「多分な」
「何でだ?小蘭、まだ描きたいって…」
源太郎は返事をくれない。少し間が空いたあと、口を開いた。
「今朝、おめえと楽しそうに話すお蘭見て、嬉しかった」
「俺も嬉しかった」
初めて会った日、彼女は戸惑いばかり顔に出して、笑ってもぎこちない作り笑顔しか見せてくれなかった。そして翌日、源太郎にだけは愛らしい笑顔を向けることを見せ付けられた。そして、今朝、やっと自分にも笑ってくれたのだ。楽しそうに。
彼女の過去に何かがあるのも、源太郎が気にしているのも、十分察しはつく。けれど、彼女の笑顔を見て思い上がっていた。友になれると。
「すまね。感謝してるって言っといて」
「いや、俺も楽しかったから」
気にさせまいと口にしたつもりだったが、源太郎の顔は晴れなかった。さっきまで気持ちよさそうな雨が、寒そうに見える。
「きっと、小蘭が求めてるお蘭はいなくなる」
「いなくなる?まさか」
最悪の考えが一瞬脳に過ぎった。
「違う、死ぬとかそういうんじゃねえ。お蘭はああ見えて頑丈だよ」
「なら、どう言った意味だ?」
「…ん、絵はもう駄目だ」
「絵が駄目でも構わないさ。何にもなくても、用がなくても、いつ来てくれたっていい」
「小龍…」
「俺だって感謝してるんだ」
小龍は歩みを止めてしまった。少し前へ行く、源太郎の濡れた足先を見詰めた。
「じゃあ、今のお蘭と違っても、変わらず会ってくれるか?」
「うん」
源太郎が歩み寄って濡れた手で小龍の肩を叩いた。
「有難う。また、お蘭と仲良くしてくれ」
源太郎は、少し悲しい目をして、限りなく優しく微笑んでいた。何て顔をするのだろうか。きっと、この人のこんな部分に、彼女は惹かれたのかも知れない。
裏庭に回って、離れの風呂場に源太郎を案内した。
「これ、着替えと手拭い」
「ありがとな」
「着替えたら、勝手口から入って。茶淹れる」
小龍は先に勝手口から土間に入る。誰もいなかった。
「まだ終わってないのか」
朝作った饅頭も減っていない。昼食もまだなのか。
茶碗が倒れていた。零れた茶の上に小さな花が咲いている。そして、甘く癖のある芳香が残っていた。まさか。
土間には草履が三組ある。一つは小蘭の、もう一つは彼女の、ではあとの一つは…?小龍は、草履を脱ぎ捨てて階段を駆け上がった。
小蘭は、自分が名作を仕上げる為だったら何でもやった。時には、自分自身を傷付けることさえ厭わずに。けれど、誰かにその矛先を向けたことはない。きっと違う。小龍は祈るような思いで勢い良く襖を開けた。
「しゃしゃ、小龍…!」
音に驚いて、全裸の少年は顔を上げ、振り向いた。少年の体の下には彼女がいた。小龍は少年を突き飛ばした。
「いで!」
少年の体が勢い良く壁に叩き付けられた。
「小龍!止めて!」
小蘭が身を乗り出した。小蘭の作業台の紙には体を寄せ合う男女が描かれていた。
「私が頼んだんだから、乱暴しないで!」
少年へ振り返ると、少年は怯えた目で小龍を見ていた。頬は腫れ、肩には擦り傷が残っていた。そのすぐ傍で横たわっている無抵抗な彼女は、着物の意味もなさないほど剥かれ、白い肌には点々と吸い跡や唾液の跡、肌よりも白い体液が腹や腿に付着していた。手首は縄がきつく結ばれ、穏やかな寝顔が、より一層惨たらしさを引き立たせていた。
「お前はもういい、失せろ」
少年は自分の着物を引き寄せて、逃げるように去っていった。
頼んだと小蘭は言った。自分の欲望の為に、彼女を辱めた。他でもない、自分の姉が、彼女を。
呆然と立ち尽くしていると、床が軋んで、振り返る。小龍の服を着た源太郎がいた。
「お蘭!!」
源太郎は彼女の前まで駆け寄って、すぐさま白い汚れを手で拭い、前を合わせて肌を隠して手首の拘束を解く。
「お蘭、お蘭、どうした、お蘭…!」
「源さん、眠っているだけだ」
小龍は取り乱す源太郎の肩に手を置いた。
「眠ってる…?」
「今は起こさない方がいい。混乱させちまう」
「……」
源太郎は立ち上がった。小蘭に歩み寄る。無表情なのに凄みがあって、小龍は声をかけられなかった。源太郎は台にある未完成の絵を引き裂いた。紙の乾いた音が雨音の中で響いた。小蘭は何も言えずに泣きそうな子供のような顔でばらばらになった紙を見ていた。
「源さん」
小龍の声に振り向きもせずに、源太郎は彼女を抱えて階段を降りていった。
「源さん、外はまだ雨だ」
小龍は後を付いていく。源太郎は草履を足に嵌めてそのまま外へ出て行ってしまった。小龍は勝手口から濡れた傘を持って、後に続いた。
「これ使ってくれ」
傘を開いて差し出す。しかし、源太郎は彼女を抱えている為両手が塞がっている。小龍は傘の柄を源太郎の肩に引っ掛けて、落ちないように密着した源太郎の胸と彼女の腰の間に挟んだ。
「す、すまね…」
源太郎の声は震えていた。ぽたりと彼女の胸の上に雫が落ちて、星空の中に染み込む。源太郎は泣いていた。
源太郎は表情を崩さず泣いていた。彼の怒りや苦しみや悲しみの総てがその涙に現れているように。
「源さん、俺…」
小龍の言葉を聞かず、源太郎は歩いた。一度も振り返らずに。
(蘭……)
傘も見えなくなり、小龍は家へ入った。終わった。総て終わった。
土間には彼女の小さな草履がある。自分が脱いだのと比べると、より一層小ささが際立つ。
小龍は階段を上がった。作業部屋に戻ると、小蘭は新しい紙に何かを描いていた。
「何してんだよ!」
「忘れないうちに描いてるの」
「くっ…!」
小龍は紙を引っ張って破った。勢い良く丸めた紙を小蘭に向けて投げた。
「痛っ」
「何で、俺に言わない!?迷った時は俺に言えよ!いつもみたいに!」
小蘭は力強い目で見上げてから、俯いた。
「あんたにそんなことさせられる訳ないじゃない」
「だからってあんな餓鬼捕まえて、こんなことさせるなよ」
「じゃあ、あんたは協力してくれたの?好きになった相手を眠らせて、無理矢理抱くことが出来るの?」
今、姉の口から直接自分の気持ちを知らされた気がした。
「出来たとしても私が嫌だったの。あんたを一生苦しめることになるから」
小蘭は大きなため息をついた。
「でも、これじゃあ結局同じね。ううん、余計にあんたを傷つけた。失敗したわ。夢中になって、雨に気付かなかったの」
「気付かなかったら、してたのか…」
小蘭は何も答えなかった。
「お前がこんなになったのは、俺のせいだったな…」
もう言葉も、その場を去る力も出ない。代わりに、目から生暖かい雫だけが落ちていた。
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