拾伍
暑い。源太郎は、昼の休憩が始まるとすぐに、水を汲んで頭から豪快に浴びた。
「ふぃー」
「源太郎、何か落ちたど」
足元に、泥水に塗れた石が落ちていた。
「何だ、ただの石か」
「ただの石じゃないだよ」
源太郎は石を拾い、桶を手渡した。
「どこさ行くだ?」
「家、一旦帰る」
「昼飯の時間なくなっちまうぞ」
「すぐ戻るだ」
源太郎は、蘭丸のことが気になっていた。
目覚めると、蘭丸は本来の姿に戻っていた。しかし、目覚める気配がなく、鍵を掛けて家を出てしまった。目を覚ましたら困るだろうが、それでも無防備に眠り続けていたから、何だかそのままにしておけなかった。
「源太郎!」
別の百姓に名を呼ばれた。
「おめえに客だ」
「客?」
「源太郎って名前の若い百姓っつでたから、おめえのこったろ」
「ああ…、誰だ?」
「あの女だ」
差した方向には小蘭がいた。小蘭は手を振りながら微笑みかける。
「美人だな」
百姓はにやにやしながら源太郎の肩を叩いた。
「おら、知らん」
源太郎は踵を返して家路に向かう。
「おいっ」
「待って、源太郎さん」
小蘭が声をあげる。源太郎は、振り返らずに走った。
「待って!」
小蘭の声が変わらない近さで響いた。
「待って!」
どうやら追い掛けられているようだ。源太郎は振り切る為に、全力疾走した。
「待ってったら!きゃあっ」
小蘭の声に源太郎は思わず振り返る。小蘭のしなやかな体は地面に押し付けられていた。勢いよく転んだようで、立ち上がるにも、なかなか起きあがれずにいた。
源太郎は、歩み寄って泥だらけの手を出した。
「大丈夫か」
小蘭はにこりと微笑んだ。
「平気よ」
源太郎の手は借りずに、ゆっくり立ち上がった。体の泥を払う。
「怪我は?」
「…足首、痛い。運動不足だったから」
「今、水持ってくるから、其処で座って待ってろ」
「う、うん」
小蘭は足を庇いながら岩へ腰を下ろした。源太郎はまた畑に戻り、水を汲みに行った。小蘭の赤く腫れた足首に濡れた手拭いを当てる。
「これで冷やしとけ」
「有難う」
「おら、行くから」
「私も行く」
「来んな」
「私、源太郎さんに話があってきたの。用があるなら、私もついていくわ」
「おらはない。お前の話なんか聞きたくないだ」
「それでも。もう、絶対にあなた達の前に現れたりしない。だから、聞いて?」
小蘭の真剣な眼差し。きっと、本当にこの女は付いて来るだろう。家を知られるのも面倒だ。源太郎は、近くなりすぎないように距離をとり、小蘭の隣にしゃがんだ。
「有難う。あ、これ」
小蘭は包みを出し、開く。二枚重ねの巻いた紙を差し出した。
「これ、あなたが欲しいって言ってくれたの。あげるわ」
「いらね」
「そう、私の絵なんて、もう欲しくないか」
「いや…、本当に。もう必要ねえから」
「そう…。そうよね。あんなに可愛らしい人がいてくれるんだものね」
小蘭は絵をしまった。
「で、話って?」
「私ね、絵師、辞めることにしたの」
「なしてだ?」
予想外の言葉に、源太郎はつい聞き返してしまう。
「なして、って…。蘭さんのおかげで最高傑作も出来たことだし、幸せになろうと思って」
「幸せ…?嫁ぐのか?」
「まだ相手はいないけどね。普通に働いて、普通に誰かと、いい人と巡り会えたら、そうする」
小蘭は源太郎を見て、短く笑った。
「意外だって顔してるね」
「ああ…。幸せってのも不自然だし」
少なくとも、絵の生活にどっぷり浸かる小蘭は充実しているように思えた。
「うん。絵を描いてる私は確かに誰よりも幸せだったよ。夢中で描いて、弟も協力して、気に入った誰かが買ってくれるんだもん。こんな幸せはないわ」
「なら、なして」
「私ね…、子供の頃、両親が死んで…、これ、話したかしら?」
「ああ。小龍から聞いた。おめえも小さいのに、一人で小龍を養ったって」
「そう。で、そんな時、絵に出会ったの。毎日、忙しく働いて辛かったけど、絵を描くのが楽しくって、その時間だけは忘れられたの。小龍は病弱だったから、外に出られなくて、そんな時、私が動物や虫を描くと喜んでくれたのも嬉しくて。大きくなったら小龍も働いて、生活が大分豊かになったの。それからは画材を揃えて毎日夢中で描いたわ。そうしたら、小龍が売りに出してみないかって持ち掛けてきたの。試しに呉服屋さんに頼んで幾つか置かせて貰ってね。すぐに売れたって。そのあと、源太郎さんが寄ってくれていたあの場所を借りて、露店で売るようにして…。小龍は商売上手だし気立てもいいから、順調に売れたわ」
楽しそうに語る小蘭の瞳が、陰り出す。
「でもね、私も段々絵師としての欲求が深くなって、私の絵を輝かせる色んなものが描きたくなったの。ある時ね、呉服屋で、綺麗な帯留めを見つけて。それは、私がその時描きたかった女性に似合いそうで…、でも、高価過ぎて買えなかった。私、どうにか譲って貰えないか店主に交渉したのよ。店主のおじさんは、私自身を求めた」
「そ、それは…」
「そう。私が体を差し出せば、おじさんは高価な帯留めをただで貸してくれた。それからね、色んな髪飾りや、貴重な織物まで貸してくれるようになったわ。勿論用が済んだらきちんと返したし、汚したり壊したりしたことがないからなのだけど。半年くらい、そんなことしてたら小龍に見つかっちゃって…」
見つかったって、情事の最中にだろうか。だとすれば計り切れない程、小龍は傷付いたことだろう。もし、自分の妹が好きでもない相手とそんなことをしていたら…。想像しただけで胸が痛くなる。
小蘭は、源太郎を見て困ったような笑顔を作った。
「見付かったって言っても、私が家でおじさんと行為に及ぼうとしてたら、小龍が帰って来ちゃって、襲われてると勘違いしちゃってね、逆上しておじさん殴っちゃったの。私が事情説明したら、小龍、泣いたの。私、小龍が泣いたの初めて見たわ。小龍、泣きながら言うの。何でこんなことするんだ、俺はそんなに頼りにならないのか、困ったことがあるなら、俺に言え。これからは絶対絵の為に自分を貶めるのは止めろ。小蘭が絵を描くためなら、俺は何だってする」
小蘭は、ここまで喋ると、足首の手ぬぐいを撫でた。
「小龍は、本当に何でもしてくれたわ。高価な物は手に入らなくても、手先が起用でね、似たような小物を作ってくれた。着物だって、安価な生地で綺麗なものを仕立ててくれた。それにね、春画が描きたいと言ったら、小龍は描かれる為に女性を抱いたわ。私、小龍がその女の人に何の感情も抱いてないの知ってた。でも、私の絵の為にしてくれたの。絵が仕上がると小龍はとても喜んでくれた」
「でも、それは…」
源太郎の言葉に、小蘭は頷いた。
「そう。同じことなのよね。私が、帯留めや髪飾りの為におじさんとしている時も、何も感じなかったもの。でも、私は小龍にそんなことさせても、そんなに辛くもないの」
「小龍は、幼いお前を一人で働かせて、辛かっただ。だから、好きでもない女とも…」
「分かってるわ。私、小龍のその気持ちも利用してたの。この話、蘭さんにしたら、蘭さん怒ったの。小龍殿が可哀相ですって。きっと、あなたも小龍に同情してるわよね?」
「いや。おらは、お前の方が可哀相に見える」
「蔑んでるのね」
「……」
「好きな絵を毎日描いて幸せなのに、小龍は私によく言ってたわ。お前が幸せになれないのは俺のせいだって。私にとって、これ以上の幸せはないのに。ねえ」
「何だ」
「初めて会った時、私のこと、どう思った?」
源太郎は、蘭丸の言葉と共に、記憶を掘り出しだ。
「強引だけど、明るくていい奴だと思った」
「ふふ」
小蘭は、顔を両手で覆いながら笑い出した。
「昨日、小龍がね、泣きながら言うのよ。明るくて優しいお前に俺は救われてた。なのに、お前をこんな風にしたのは俺のせいだって」
手を離した小蘭の顔は濡れていた。
「私ね、やっと気付いたの。私は、幸せなんかじゃなかった。好きなものの為に、自分を貶めるようなことをしてしまうのは、本当の幸せじゃないのよ」
「そうだな」
「私、本当に馬鹿だわ」
「そうだな」
「幸せになれないかも」
「大丈夫だよ。お前も、お前の弟も」
「許してくれるの?」
「それとこれとは別だ」
「そうよね…」
小蘭は肩を落とした。疲れきった横顔を見ながら、源太郎は口を開く。
「なあ、何でもするって言った小龍に、何でお蘭を抱かせなかった?」
「……」
「させられなかっただな?小龍がお蘭のこと、妹みたいに可愛がってたから」
小蘭は黒目がちな目を大きくして、きょとんと源太郎を見た。
「小龍は、蘭さんのことを大切に想っているけど、妹じゃない」
「え?」
「鈍いのね。だから蘭さんを任せてくれたんでしょうけど。小龍はね、蘭さんのこと好きよ。あなたが蘭さんと好きあってるみたいに、一方的にね」
「そ、そうだったか!?」
「そうよ」
「で、でも、お蘭だって兄貴みたいだって…」
「じゃあ、蘭さんも気付いてないのね。可哀相に…」
小蘭は大袈裟にため息をついた。態とらしく、それでいて神妙に。
「小龍、多分初恋だと思う。私の絵を誰よりも愛してくれたんだもの。あの子を好きになるのだって、自然なことだわ」
「だから、お前は小龍にお蘭の相手をさせなかっただな?大切な人を、無抵抗にして犯すだなんて、させられなかった」
「…うん。でもね、私、描くことに夢中になりすぎて、雨が降ったことに気付かなかった。結局、小龍を余計に傷つけちゃった。最悪よね」
「最悪だ、本当に」
「私、あなたにも蘭さんにも、いくら謝っても償いきれない」
「いいよ、もうおらたちの前に現れないでくれれば。それに、取り返せないことにはならなかった」
「取り返せないこと?」
「お蘭の処女」
「ああ…、やっぱりそうなの」
「だからもういい。お蘭もずっと眠ってて、気付いてない。お前は小龍のこと、考えてやれ」
「うん…、有難う」
「あと、自分のことも」
「うん。そうだ。これを…」
小蘭は包みから小銭の袋を出した。
「蘭さんに」
「いいよ」
「どうして?大丈夫よ、絵は売らないから」
「いらない。思い出したくないだ」
「…そう」
小蘭は諦めて包みに小袋をしまった。
「話は終いか?」
「うん。聞いてくれて有難う」
小蘭は立ち上がった。
「じゃあ、背中、乗れ」
「おぶってくれるの?」
「その足じゃ帰れないだろ」
「有難う。でも私、重いわよ?」
「見れば分かる」
「失礼ね」
小蘭は源太郎の背中にのった。背中が柔らかく、抱えた足はむっちりしている。
「目方はお蘭と同じくらいか」
「それはないわよ。あの子とはは背丈に差があるし、骨組みだってあんなに小さくないわ」
「そうだな」
「源太郎さんの背中は広いね」
「小龍と変わらんだろ」
「多分ね」
小蘭は源太郎の肩に腕を巻き付けて寄り添った。
「私ね、馬鹿だから、大切なもの、手遅れになってから気付いちゃうの」
「手遅れ?取り戻せないだか?」
「うん…」
「なら、次は失敗しないようにすればいい」
「そうね」
それから、小蘭は口を開かなかった。山道を降りて、街に出る。
「源太郎さん、もう、ここでいいわ」
「もう平気か?」
「うん。もう、道が平坦だから、ゆっくりなら歩けるわ」
「分かった」
小蘭は源太郎の背中から降りた。
「本当に有難う、それから、ごめんなさい。私、あなたたちのこと忘れないわ」
「おらは忘れたい」
「……」
「でも、忘れられねえな、多分。お前たちとの時間、楽しかったし」
「源太郎さん…」
「元気でな。これ、小龍にやる」
源太郎は小蘭に手の中のものを差し出した。
「石?随分汚れてるわね」
「綺麗にして、大事にしろって伝えてくれ。いいことがあるかもな」
「うん、分かったわ。源太郎さんも元気でね」
「ああ」
二人は、互いに振り向かずに目的地へ向かった。
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