妄想、愉悦。


拾捌


  


 源太郎を見送った後、蘭丸は洗濯を始めた。寝間着と敷布を洗って布団と一緒に干した。
 昨日洗った星空と小龍の着物を丁寧に畳む。どうしようか、この姿では、返しに行くことが出来ない。この姿で会っても混乱させてしまうだけだ。せめて、この顔も一緒に変化していたら、別人としてまた出会えたかも知れないのに。
 そんなことを考えていたら、壁の向こうに人の気配を察知した。誰だろう。源太郎が仕事を切り上げて、戻って来たのだろうか。蘭丸は戸を開いて注意深く外を覗いた。

「小龍殿…」

 庭に小龍がいた。

(何故此処に…)

 源太郎が家を教えたのだろうか。されど、この姿で再会する訳にもいかず、蘭丸はそっと戸を閉めた。ざり、と草履が小石を踏んだ。小龍が近付いてくる。

「蘭、いるのか?」

 どうしよう。

「蘭…」

 自分の名を呼ぶ小龍の声が悲しげで、蘭丸は思わず名を呼び返す。

「小龍殿」

「良かった、いたのか」

 返事をしたら、小龍の声は分かりやすく明るくなった。

「ここ、開けてくれないか?」

「…今、お会い出来る姿ではなくて」

「寝起きか?気にしないよ」

 そう言った次元の話ではない。

「……すみません」

「なら、顔だけでも見せてくれないか?」

 顔だけなら。顔だけだったらこの姿でも平気だ。

「では、あの、窓から…」

「あ、分かった」

 蘭丸は小龍よりも先に窓から身を乗り出して手を振った。手の大きさが変わったのがばれるとまずいので小龍が近付く前に引っ込める。普通に立っていれば、小龍の位置からは顎までしか見えないはずだ。
 顔を合わせると、小龍は微笑んで、抱えていた荷物を手にした。

「これ、届けに来た」

「あ、服…」

 置いていった源太郎の服と源太郎の妹の服が入っていた。それから、小さな草履。どれも綺麗に洗ってあった。

「わざわざ有難うございます」

 どうしよう。そもそも、こんなに親切にして貰ったのに家にも上げず、何のもてなしもないのは失礼すぎる。

「本当にごめんなさい。着物、こちらから届けるべきでしたのに…」

「いいよ、気にしなくて」

「今、お持ち致します」

 蘭丸は小龍から見えないように、壁側から回って服を取りに行った。戻る時も同様に。

「上手に洗えたな」

「いえ」

 小龍は受け取った服を包んで、顔を上げた。

「蘭に言いたいことがあるんだ」

「何でしょう?」

「源さんから聞いたかも知れないが、小蘭、絵、辞めたんだ。だから、蘭が来る必要はない」

「え?」

「もう、蘭と会うこともなくなる」

 小龍の言葉が重かった。
 思い上がっていた。二人が親切で、楽しい時間をくれたから、友になれる気がしてた。けれど、結局二人が優しかったのは、自分が作品を作る上で必要だっただけで、それ以外、何の意味もなかった。
 本来持つ、人を惹きつける魅力を持っている人がいる。それは、能力や地位や名誉とは全然別物で、信長だったり、源太郎だったり、或いはこの姉弟だったり、蘭丸が惹かれた人物には、必ずその魅力があった。一緒にいるだけで楽しくて、幸せな時を過ごせる人。自分にはない魅力を持った、敬愛すべき人。
 何か言わなければ。

「短い間でしたが、お世話になりました」

 小龍に悟られないように、笑顔を向けた。

「そんな顔しないでくれよ」

 作り笑顔がばれたらしい。蘭丸は俯いた。

「蘭、昨日何してた?」

 急に別の話題をふられた。

「ええと…、昼過ぎまで寝て、ご飯を食べて、掃除と、風呂掃除をして、風呂を焚いて夕餉の支度を…」

「ずっと此処にいたのか?」

「はい」

「そうか…」

 小龍は包みを開けた。丸めた紙を差し出す。

「これ」

「版画、完成したのですか?」

「いいや。もう、版画にしないんだ。それだけ」

 蘭丸は紙を開いた。穏やかに微笑む女性の姿が現れる。

「綺麗…。私じゃないみたいです」

「いや、どう見てもあんただよ。あんた自身が小蘭の描く女と近いのもあるが、小蘭の方が気付かずあんたに引き込まれたんだ」

「そんな…、私、こんなに綺麗では…」

「綺麗だよ。俺、三日間ずっとあんたのこと見てた」

「小龍殿…」

「だからさ、これは売り物にならないよ。自分だってばれたくないんだろう?」

「何だか申し訳ないです」

「いいよ、小蘭、最高傑作が出来たって喜んでる。だから、後腐れなく絵、止められたんだよ。あんたのおかげだ」

 小龍は、蘭丸が差し出した絵を受け取らなかった。

「あんたにやる」

「でも、これしかないのでしょう?私が頂いては…」

「いいんだ。あんたに持っていて欲しい」

「最高傑作なのに?」

「うん。俺はもう十分目に焼き付けたから」

「有難うございます、小龍殿。小蘭殿にも、是非伝えておいて下さい」

「うん」

「私、お二人に会えて嬉しかったです。とても楽しくて…」

「俺もだよ。蘭のお陰で、色んなこと、知った」

「私、何もしてないですよ?」

「笑ってくれた」

「小龍殿が、優しくして下さったからです」

「初めてだった。家族以外で、誰かを大事だと思えたの」

「小龍殿…」

 ならば、何故会えないなどと言うのだろうか。

「小龍殿、何処かへ行かれるのですか?」

「何処も行かないと思う。彼処には、仕事が沢山あるから、あの街で他のことして生きてく」

「ならば…」

 また会いましょう。そう言いかけたけれど、言葉は出なかった。自分は彼等と出会った時とは変わってしまった。
 不意に、小龍の手が伸びて蘭丸の髪を撫でた。

「もう、逃げないでいてくれるんだな」

 前は、この大きな手が怖くて反射的に逃げてしまった。けれど今は、この人の優しさを知っている。

「蘭…、顔、よく見せてくれるか?」

 蘭丸は少し背伸びをして、窓縁に顎をちょこんとのせた。

「初めて会った時、蘭は小蘭の絵から抜け出てきたのかと思った。でも今は…、気がついたら、逆になってた」

「逆…?」

「うん」

 言葉の意味を考える。すると、顔に影が重なった。小龍の澄んだ黒目が近すぎて、焦点が合わない。唇に、温かいものが当たった。

「……!」

 本当に一瞬で、小龍は離れた。頬を染め、穏やかに微笑んでいる。

「やっぱり、柔らかいんだな」

 小龍は、照れくさそうに鼻の頭を指でかいた。

「つまり、あんたの方が大事なんだ。小蘭の絵より」

 ほんの一瞬だったのに、唇に小龍の温もりが残っていた。

「あんたは俺達を大切だと言ってくれたけど、明らかに俺が想うあんたへの気持ちとは違うよ。だから、もう会えない」

「小龍殿…」

「でも、いつか蘭より大切な存在が現れたら、その時は…」

「また、楽しい時間を共に過ごせますか?」

「うん、必ず」

「小龍殿でしたら、必ず現れますよ」

「…うん。蘭も、辛いことあるかも知れないけど、負けるな」

「はい」

「じゃあな」

 小龍はその場を離れた。

「小龍殿…っ」

 窓からではすぐに見えなくなる。蘭丸は外へ出て、一度も振り返らない小龍の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。

「いつか……」

 振っていた手を下ろす。家へ向き直る。

「あ」

 窓の下に袋が置いてある。忘れ物だろうか。その袋から花がはみ出ていた。小龍が作った花だ。そして、小銭の袋と、貝の石が入っていた。

「汚れてる…」

 磨いたばかりなのに。何故、小龍が持っていたのだろうか。






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