妄想、愉悦。





  



 雨の音はない。ああ、やっぱり夢だったのか。
 変な夢。今まで、女らしい顔をからかわれて嫌な思いをしたことだって数え切れない。そんな自分があんな夢を見てしまったのは、きっとあの美しく淫靡な絵画のせいだ。あの女性たちが源太郎の心を捕らえたことに嫉妬したから。
 かちゃん、と音がする方を見ると、源太郎が炉端で食事していた。

「源太郎様…」

「お蘭。無理させちまっただな。まだ休んでていいだよ」

「いえ、すぐに私も…」

 布団から出ようとすると、上手く腰が立たず、くらりとよろけた。

「わ!」

 床に倒れる直前、源太郎が体を受け止めてくれた。体の下に源太郎の両手があった。顔を上げると、転がった茶碗と箸と零れたご飯が見えた。

「大丈夫か?」

「はい…」

 源太郎は蘭丸の体制を戻した。胸を掴んでいたことに気付いて、慌てて手を離す。

「す、すまん!わざとじゃないだよ!痛くなかったか?」

「いえ、大したことないですから」

「少しは痛いだな?大丈夫か!?」

 源太郎は胸元ばかり見ていた。やはり、申し訳程度に膨らんでいる。そして、下半身にも見慣れたものがなかった。夢じゃなかったのかと、蘭丸はため息をついた。

「其処じゃないです。打った膝が少し痛んだだけです」

「見せてみろ」

「平気です、わ!」

 源太郎は蘭丸を担ぐようにして膝に顔を近付けた。

「赤くなってっけど、切ってはいねえみていだな。待ってな、今手拭い濡らしてくる」

「大丈夫ですから。早く、食事を済ませて下さい」

「うん…。それより、おめえも早く服、着ろ。目のやり場に困る」

「ええ…」

 蘭丸は夏掛け布団で体を覆い、畳んだ着物を肩に掛けた。襟の合わせを調整しても、布が余って胸元がはだけてしまう。

「あ」

 源太郎は箸を置いて表へ出て行ってしまった。蘭丸は後に続こうと上がり框へ足を下ろした。

「これ…」

 蘭丸の草履の隣に、編みかけの小さな草履があった。余程急いでいたのか歪な形をしているが、足の大きさはぴったりだ。

「蘭が、眠っている間に…?」

 自分の不甲斐なさと源太郎の甲斐甲斐しさで泣きたい気分になった。蘭丸は草履を履いて、小さな草履を胸に抱いて外へ出る。

「源太郎様…!」

「ん?」

 源太郎は物干し竿の前に立っていた。竿には見たことのない着物と、帯、襦袢が掛けられている。

「これは?」

「ああ、服、大きいと思ってな。妹のお古だ。洗ったんだが、まだ乾いてねえな」

「随分と華やかな柄ですね」

 明るい黄色地に、赤や緑の線が入った格子柄。帯も黒地ではあるが、こちらも色とりどりな花が刺繍されている。

「ああ。きっと、お蘭にも似合う」

 いくら女の体になっても、服まで女のものを着たくはない。しかし、源太郎の横顔が少し寂しげに見えて、蘭丸は何も言えなかった。
 すると、遠くから源太郎を呼ぶ声がした。源太郎の友人たちだ。蘭丸は家の中に戻って隠れた。

「おぅい、もう、皆、集まってるぞ」

 友人二人が源太郎を迎えに来たようだった。源太郎はこれからまた仕事に出るのか。蘭丸は戸からひょっこり顔を出し、様子を窺った。

「!」

 一人と目が合い、蘭丸は咄嗟に隠れてしまった。

「今、お小姓が見てたぞ」

「え?」

「もう、隠れちまった」

「嫌われたもんだな」

「しょうがないだよ」

 二人が話していた。まだ少しだけ、源太郎以外の男は怖い。源太郎の友人だから、自分だって大切にしたいのに、未だにまともに顔を合わせられずにいた。

「お蘭」

「は、はい!」

 源太郎が戸から顔を覗かせていた。

「おら、もう行くから。いい子にしてるだよ?」

「はい」

「後でそれ、ちゃんと編んでやるから」

「はい」

「ん」

「ん?」

 源太郎が屈んで顔を近付けてきた。蘭丸は背伸びをして目を閉じた。腰を掴まれ、持ち上げるようにされて、つま先が一瞬浮いた。唇同士が触れ合うと、すぐに地面に足が戻る。

「じゃあ」

 浸る間もなく源太郎は行ってしまった。物陰に隠れながら、源太郎の後ろ姿を見送って、座敷に戻る。
 源太郎の作った朝食が蘭丸の分も用意されていた。源太郎は蘭丸が寝ている間に、体を清め、草履を編み、洗濯をして、食事の用意までしてくれた。自分が情けなくなる。今日は源太郎の為に、美味しいご飯を用意してあげよう。蘭丸は、そう思いながら冷めてしまった食事をゆっくり食べた。




 日差しが強く、気温はぐんぐん上がっていた。掃除や洗濯、一通りの家事をこなし、日課の剣術の稽古を終えると、汗だくになっていた。
 水浴びしたいとふと思った。川へ行こう。今日は魚を取って源太郎に食べさせてあげよう。網と桶を取って早速出掛けた。

 少し歩いた場所には川がある。近隣の住民の目を避ける為、蘭丸は、下流まで足を運んだ。川の流れが激しく、足場も悪い為、滅多に人が来ない。
 川縁に網と石で仕掛けを張り、頑丈な木に縄を括り、自分の足首に繋いで、念の為の命綱をつけたまま川へ飛び込んだ。気持ちいい。勢いに負けないぎりぎりのところで、水と戯れた。
 泳いでいると、水中できらきら光る群れが蘭丸の体をすり抜ける。

(魚…)

 一つだけ掴み取り、川から顔を出した。

「ぷはぁっ…!」

 顔を出して握ったものを確認した。ぴちぴち跳ねて暴れている。

「鮎かな…?」

 ひとまず、源太郎の分は確保できた。川から出て罠を確認すると、二匹掛かっていた。魚を桶に移して、大きな岩へよじ登って腰を下ろした。

「ふう…」

 心地よい疲労感がのしかかる。川が光って綺麗で、何時まででも見ていたい。この場所は、子供の頃の遊び場だったと源太郎が教えてくれた。何だかこうしていると、幼い源太郎と共に過ごしたような錯覚に陥る。
 兎も角、ここにいては肌を焼きすぎてしまう。もう一度泳ごうか迷っていると、思いがけず声をかけられた。

「あの」

 遠慮がちな女の声がした。顔をあげると、女性がこちらを見ていた。

「あ…」

 蘭丸は透けた着物の下の肌を咄嗟に隠した。しかし、今は女の体な訳だから、慌てて隠す必要もないのか。
 蘭丸の素振りを見て、女はにこりと笑って歩み寄って来る。女は若く、整った顔をしていた。切れ長で黒目がちな瞳と、深紅の紅を引いた薄い唇が印象的で、背もすらりと高い。それなのに、所々の豊かな肉付きは着物の上からも主張している。

「あなた、とても綺麗」

「え?」

「あなたみたいな女の子、初めて見たわ」

「はあ…」

 女の澄んだ瞳には妙な迫力がある。訝しんだ蘭丸の気持ちを察して、女はしゃがんで、風呂敷の包みを置いた。
 見た所、彼女は源太郎と同年齢ぐらいだろうか。着物は独特の着こなしではあるが、身なりは綺麗で、どこぞの行商のように見える。女は、丁寧に包まれた布を蘭丸に差し出した。

「すみません、手が濡れているもので」

「あ、そうか」

 女は中の冊子を蘭丸に見せるようにぱらりと開いた。

「あ」

 見覚えのある女性がいる。この光り輝く瞳と、憂いを含んだ表情は。右下にはあの印が捺してある。

「この絵…」

「私が描いたの」

「あなたが?」

「ええ」

「まさか、こんなにお若い方だとは思いませんでした」

「まあ。ねえ、どれか気に入って?」

「どれも素晴らしいと思います」

「嬉しいわ。ねえ、少し歩くけど、私の家に来ない?もっと沢山あるの」

「え?」

 何故、この人はこんなに積極的なのだろうか。意図が分からない。

「ねえ、いらっしゃいよ」

「いいえ、急にそんな…」

「だって、あなたがあんまりにも綺麗だから。ね?」

 ぐっと身を寄せてきた。

「本当に、結構ですから」

「そう…」

 女は肩を落とした。そして、深い目で蘭丸の体をじっくり眺め始めた。
 この不自然なまでの積極性は。もしかしたらこの人は、好意の対象が女性なのかも知れない。蘭丸は身じろぎながら改めて肌を隠した。

「うん、やっぱり綺麗。それに可愛らしいわ。私の理想通り…」

 やっぱり。どうしよう。今まで、男のまま男に言い寄られたことは何度となくあったが、女のまま女に言い寄られることなど初めてだった。

「私ね、泳いでるあなたをずっと見てたの。最初、男の子かと思った。あんまり上手に泳ぐから。でも、水から上がったあなたを見て、とても綺麗で、愛らしくて驚いちゃった。あまりにも、私の理想通りなんだもの。私、あなたに出会うために此処に来たんだわ」

「はあ…」

「そうだわ。今日が無理なら、後日、いらっしゃいよ。時間がある時にでも」

「お宅に、ですか?」

「ええ。だって、私の作品見てもらいたいの。ね?」

「はあ…」

「必ず来てね、待ってるから。私、ここに毎日いるから」

 蘭丸が曖昧な返事をすると、女は嬉しそうに風呂敷から何かを出した。掌におさまる小さい板だった。紙のように薄いそれを、蘭丸に手渡す。

「私、此処にいるから」

 板には何やら書いてあった。この女の住処が記してある地図だった。蘭丸は、濡らさないように受け取る。

「あなた、まだ泳ぐの?」

「ええ、まあ…」

「私のことは気にしないで泳いでいて。ここ、良いかしら?」

「どうぞ」

 女が岩へよじ登ろうとする。蘭丸は手を差し出した。

「私、重いわよ?」

「大丈夫ですよ」

 出された手を握り、自分よりも大きな女性を引き上げる。

「見かけによらず力持ちなのね」

 蘭丸が川へ下りると、女は岩に腰を下ろして、包みから色んな道具を出した。筆や墨で汚れた容器がある。どうやら、絵を描くらしい。どんな絵を描くのか気にはなるが、あまり意識しないようになるべく遠くへ、深く泳いだ。
 いつの間にか本当に女のことを忘れていて、夢中で泳いでしまっていた。川から上がった頃には既に女の姿はなかった。蘭丸は一旦岩の上で休み、今度は服を脱いで絞った。
 罠に魚がもう一匹掛かっていた。服を着て大きい草履を履きながら、もう一度小さい板を眺める。この川からさ程遠くもない街にあるようだが、地図がざっくばらん過ぎて、具体的な場所が分からない。
 今度、源太郎と一緒に行ってみようか。

「ん?」

 冊子が河原にぽつんと置き忘れてある。これは、さっきあの人が見せてくれたものだ。手を拭いて拾い、辺りを探したが、既に彼女はいなかった。どうしよう。
 改めて中を眺めると、美人画が表れ、今度はじっくり見てみる。源太郎の家にはなかった作品が幾つもある。心を奪われ始めていた。

「届けた方がいいのかな…」

 一通り眺め、蘭丸は、魚と小さい地図と冊子を持って一旦帰宅した。







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