妄想、愉悦。





   


 あのちっぽけな蔵より、ずっと大きな長屋だった。

「ここさ」

「広いですね…」

「まあね。作業部屋と道具部屋と寝室があるから。絵はあっちにある」

 小龍は障子の開いた部屋を差した。

「上がって。茶、淹れるから、好きに見てていい」

「いえ、お構いなく。お邪魔します」

 蘭丸は草履を揃えて、部屋に上がった。
 随分散らかっていて、紙が四方に落ちていた。その一枚を拾う。まだ匂いが残る墨だけで描いた河原の絵だった。魚が一匹飛び跳ねている。蘭丸が泳いでいる時に描いていたようだ。

 他にも、猫が眠っていたり、風に揺れる木々だったり、綿毛のような雲が浮いた空だったり、色んな風景が落ちていた。蘭丸はそれらを拾いながら一通り眺め、集めてから大きな紙の束を手に取った。河原で小蘭が見せてくれたものより、大きい紙だった。
 畳に座りながら眺めていたら、二階で作業をしていた小蘭がやってきた。

「今日は本当に有難う。大切なものだったから、なくして困ってたの」

 蘭丸は一つ会釈をする。

「いえ、私も、この絵が見たかったので」

「嬉しい。どれか気に入ったのはある?」

「どの絵も素晴らしいです」

「お世辞が上手いのね。それにしてもあなた…」

 小蘭がじっくり蘭丸の体を眺めた。着物の乱れが気になるらしい。

「来て。直してあげる」

 小蘭は蘭丸に着付けをしてくれた。締め直された帯が苦しくて、女性は毎日こんなことをして大変だと思う。

「随分大きいの着てるね」

「貰い物ですので」

「丈、直せばいいのに。ほら見て」

 小蘭は姿見の布を取った。蘭丸の目の前に、小柄な少女がいる。

「これが、私…?」

「そうよ。ほら、後ろも見て。帯も可愛いでしょう?」

 小蘭は蘭丸の後ろにもう一つの鏡を持って立った。蝶みたいな形をしている。
 蘭丸は自分の頬に触れてみる。顔は、間違い無く自分のものなのに、首から下だけ別の人間になってしまった。

「ねえ、髪、梳いてあげる」

「もう、大丈夫ですから」

「あら。せっかく綺麗に着付けたのに、髪だけ無造作なんて不格好だわ」

 そう言うと、小蘭は蘭丸の髪の結わえを解いてしまった。懐から櫛を出し、梳き始める。蘭丸はなるべく鏡を見ないようにしていた。そんな姿を、小蘭は照れているのかと勘違いしているのだろう。けれど違う。女性らしくなればなるほど、どんどん自分の昨日までの姿が遠退いていくように感じて、直視出来なかった。やっぱり、この着物ほ着てくるべきじゃなかった。

「湯が沸いたよ」

 無造作に障子が開いた。小龍が顔を出す。

「へえ、可愛いじゃん」

「でしょ?」

 背後で、小蘭が得意気に笑った。蘭丸は申し訳ない気分で、笑顔を作ってみせる。

「さあいらっしゃい」

 土間の卓上には見慣れない陶製の小作りな道具が並んでいた。

「これは?」

「茶器だ」

 小龍は茶葉が入った容器に湯を注いだ。芳醇な香りが広がる。湯が色付き、蓋をして時間を置いて、お猪口のように小さな椀になみなみと注いだ。

「座っておあがんなさい」

 小蘭は小龍の隣に腰掛け、自分の茶を煽った。蘭丸はその向かいに座り、碗を手に取る。蜂蜜色の液を口に入れると、爽やかな味と香りが広がった。

「お二人は、明のお生まれですか?」

「いや。生まれも育ちも安馬田だ」

「お祖父ちゃんが明から来た人なの。よく分かったわね」

 信長の下で、似たようなものを飲んだことがある。だから、二人の名が聞き慣れない読みなのだと納得した。

「有難うございます。美味しかったです」

「いいのよ。おかわりいかが?」

「いえ。今日はもう…。改めて、伺っても良いですか?」

「待って。もう少し」

 小蘭が身を乗り出し、自分の手を蘭丸の手に重ねた。爪が絵の塗料に染まっていた。

「私、あなたに来て貰ったのは、絵を見せたかっただけじゃないのよ」

「え?」

「私、あなたを絵に描きたいの」

「私を?」

「そう」

 小蘭の目は真剣だった。冗談ではなさそうだ。

「何故、私を?」

「言ったでしょう?私は、あなたの理想なの」

「俺も初めてあんたを見た時思ったよ。小蘭の絵から抜け出たみたいな子だって」

 小龍は頷きながら口を挟んだ。

「私、そんなに綺麗じゃないです。だいたい、小蘭殿が描く女性は、もっと…」

 蘭丸は口ごもってしまった。

「もっと?」

「……大人じゃないですか、体つきだって…」

「胸やお尻が小さいことを言ってるの?」

「まあ…、そうです。私、小蘭殿の春画を幾つか拝見させていただきました。私とは真逆の女性でした」

「それ、どこで見たの?」

「…家で、です」

「それ、きっとお家の人の趣味なのよ」

「へ?」

「ちょっと待ってね」

 小蘭は席を立って、障子の部屋から箱を持ってきた。

「これ、見て」

 蘭丸は箱を開けてみる。男女が絡み合った絵だった。箱の厚さからして、その下にも幾枚かある。

「全部、春画ですか?」

「ええ。見てくれたら、分かると思うわ」

 蘭丸は、なるべく表情に出さないように次を捲った。

「……」

 なるべく、女性の上半身を、体型だけ確認すればいい。しかし、濃密に絡み合った男女の姿は刺激的で、この行為はするよりも見る方が、遥かに恥ずかしいのかも知れないと、蘭丸は思った。表情は固定出来ても、羞恥心から来る火照りは抑えることが出来ない。

「くっ…、あははっ」

 小龍が吹き出した。

「小蘭、もう許してやりなよ。あんたも無理しなくていいよ、見慣れてないんだろ?耳まで真っ赤だ」

 小龍の言葉は、明らかに蘭丸を子供扱いしていた。

「な!そんなことありません!春画はあまり見たことはないですけど、誰だってしてることです!」

「あんたもしてるのか?だって、さっきは…」

 蘭丸の反論に、小龍は意外そうに目を丸めた。必要もないのに自身の内情もばらすことはない。蘭丸は口を噤んだ。

「……兎に角、そう言ったお気遣いならば、無用ですから」

 蘭丸は視線を紙に戻した。次を捲ると、大股開きの女性が現れた。顔がひきつり、はたと気付いて顔を上げると、小龍が不敵に笑ってこちらを見ていた。悔しさに、蘭丸はすぐ女性に視線を落とす。

「…この女性は、痩せていますね」

「でしょう?ねえ、その女の子は、他の胸が大きい子に比べると、色気が足りないかしら?」

 色気よりも、淫ら、卑猥、と言った表現の方が当てはまる気がするが、蘭丸は首を横に振った。

「私はね、あなたのその小さな体も含めて、理想だと思ったの。他の女性とは違った儚さや危うさがある。あなたには、あなたしか持たない美しさがあって、私はそれを絵にしたいわ」

 小蘭の目は、ひたむきで真っ直ぐで、絵に対する情熱がじかに伝わってきた。その純粋さに、たじろいてしまう。

「でも嬉しい。体型を気にするってことは、春画の方を考えてくれてるってことよね?絶対、最高傑作にしてみせるわ!」

「春画なんて、絶対駄目です!いえ、それでなくても駄目です!」

「どうして?」

「私を絵にして、もし、他の人に私だと知られたら、困ります」

「それなら問題ない」

 小龍が口を挟んだ。蘭丸の手から紙の束を取って、二枚差し出す。一人の男と三人の女がまぐわっている絵と、一組の男女が半裸で絡み合っている絵だった。

「あんた、この四人の女、見分けつく?」

「…体型と髪型でなら」

「だろ?結局、小蘭が描くとこの女になっちまう。だから、あんたを描いても誰もあんただとは思わないさ。だがな、小蘭があんたを描きたがっているのは、何も顔や体つきだけで言ってるんじゃない。あんただけが持つ空気だったり、気品を絵にしたいんだ。小蘭にはそれが出来る」

 小龍も同じくらい真っ直ぐ蘭丸を見つめた。この弟も、姉が描く絵を大事にしているのだろう。気持ちが伝わって、蘭丸は応えたくなった。けれど。蘭丸は、断る理由を探した。

「ねえ、お礼はするから。あなただったら、倍、払ってもいい」

 小蘭は銭が入った袋を目の前に置いた。じゃらりと重たい音がした。
 一瞬、源太郎の笑顔が浮かんだ。お金があれば、源太郎にもっと美味しいものを食べさせてあげられる。けれど、お金に目が眩んだみたいで、自分が卑しい人間に思えた。

「お、金の、問題ではありません。私は、そうそう好き勝手に動いていい身分ではないのです」

「川でのびのび泳いでいたじゃないの」

「それは、周りに人がいなかったからです」

「どうして?何が、あなたをそんなに縛り付けるの?」

「……」

 何にも縛られていない。寧ろ、今までの人生では一番自由でいる。縛るものがあるのなら、それは自分自身の心だ。あれから、源太郎以外の人間との関わりを避けていた。この不思議な魅力を持った姉弟と深く関わってしまったら、自分はどうなるのだろうか。
 俯く蘭丸に、憐れみの視線が注がれた。

「ごめんなさい、私、あなたを困らせたい訳じゃないの。あなた、私の絵を誉めてくれたから、思い上がってた」

「思い上がりではありません。私、小蘭殿の描いたものより美しい絵を見たことがありません。本当です。けれど、自分が描かれるなんて、想像していなかったので、戸惑っていて」

「そう…。なら、少し、考えてくれないかしら?私、待ってるわ」

 小蘭はにっこり笑った。
 蘭丸は、結局答えを出せないまま帰ることとなった。あまりここに居ては源太郎を迎える準備が出来なくなってしまう。

「送るよ」

 挨拶して長屋を出ると、小龍が付いて来た。

「有難うございます。けれど、大丈夫です」

「いいから。また、餓鬼共に狙われたら大変だ」

「心配はご無用です。さっきは油断してただけで、今度会ったら返り討ちにしてやります」

 小龍は屈託なく笑った。そのまま蘭丸について来る。

「じゃあ、あんたが油断してもいいように、送るよ」

「え?」

「俺がいたら、気を張らずに済むだろ」

「……」

 分かっていたが、小龍はとてもいい人だ。けれど、大人の男は源太郎を除いては蘭丸にとって恐怖の対象でしかない。窮地を救ってくれた小龍とて例外ではない。そんな気持ちに、小龍は全く気付いてない。自分がとても嫌な人間に思えてしまう。

「では、山の麓まで、お願いします」

「へえ、あんた、あの山に住んでいるのかい」

「ええ」

「いいね。何もないだろうけど、静かで、のどかなんだろうな」

「何もなくないです。森も、泉も、川も、田畑もあります」

「そうかあ」

 大通りを出て、店の並びの向こうの山を小龍は眺めた。

「小龍」

 商店の女将さんが明るく声をかけた。小龍は手を振る。

「やっぱり、その別嬪さんはあんたんのとこ客だったんだね」

「まあね」

「気をつけてやんな」

「あいよ」

 立ち止まらず、短い会話を交わして、軽い返事のまま通り過ぎた。蘭丸が振り返ると、女将さんはまだにこやかに二人の背中を見送っていた。

「小蘭の客は、いつも俺が送り迎えしてんだ」

「客って、絵のですか?」

「ああ」

「小龍殿は、小蘭殿と仲が宜しいのですね」

「まあね。二人きりの家族だから…。それ以上に、俺は小蘭の絵が好きなんだ。小蘭が良い作品を生み出すなら、俺は何だって協力する」

 小龍は瞳を輝かせた。

「何でも、ですか?」

「ああ。だから、あんたを描きたいって小蘭の願いを、叶えさせてやりたいんだ」

「小龍殿…」

「小蘭はいつもいい女を見つけてくるんだ。器量だけの話じゃない、素材って意味でだ。小蘭が創り出す景色に絶妙に組み合う、いい女だ。俺は、小蘭に描かれたあんたを見たいよ。あんたは、俺が思うに極上の女だ」

「……」

「まあ、あんたが嫌なら仕方ないがな」

「いえ、嫌と言う訳では…」

「分かってる。事情があるんだよな?」

「申し訳ありません」

「いいさ」

 話しているうちに、山の近くまでたどり着いてしまった。小龍は家まで送るという申し出を断ると一回で引き下がった。こちらの事情を察してくれているのだろう。

「じゃあ、気をつけてな」

「はい。有難う御座いました」

 蘭丸は深く頭を下げ、顔を上げた。

「小龍殿?」

「ん?」

「あの、大変図々しいですけれど、絵の件、断ったとしても、またお宅に伺っても宜しいですか?小蘭殿の絵を、気に入ってる人がいるのです」

「勿論。何時でも来な。お連れさんにも旨い茶、用意してやる」

「有難う御座います」

 蘭丸がもう一度深々とお辞儀をして顔を上げると、小龍は手を振りながら街へ戻って行った。蘭丸も手を振り返し、小龍の背を見送ってから、家路に向かった。





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