伍
あのちっぽけな蔵より、ずっと大きな長屋だった。
「ここさ」
「広いですね…」
「まあね。作業部屋と道具部屋と寝室があるから。絵はあっちにある」
小龍は障子の開いた部屋を差した。
「上がって。茶、淹れるから、好きに見てていい」
「いえ、お構いなく。お邪魔します」
蘭丸は草履を揃えて、部屋に上がった。
随分散らかっていて、紙が四方に落ちていた。その一枚を拾う。まだ匂いが残る墨だけで描いた河原の絵だった。魚が一匹飛び跳ねている。蘭丸が泳いでいる時に描いていたようだ。
他にも、猫が眠っていたり、風に揺れる木々だったり、綿毛のような雲が浮いた空だったり、色んな風景が落ちていた。蘭丸はそれらを拾いながら一通り眺め、集めてから大きな紙の束を手に取った。河原で小蘭が見せてくれたものより、大きい紙だった。
畳に座りながら眺めていたら、二階で作業をしていた小蘭がやってきた。
「今日は本当に有難う。大切なものだったから、なくして困ってたの」
蘭丸は一つ会釈をする。
「いえ、私も、この絵が見たかったので」
「嬉しい。どれか気に入ったのはある?」
「どの絵も素晴らしいです」
「お世辞が上手いのね。それにしてもあなた…」
小蘭がじっくり蘭丸の体を眺めた。着物の乱れが気になるらしい。
「来て。直してあげる」
小蘭は蘭丸に着付けをしてくれた。締め直された帯が苦しくて、女性は毎日こんなことをして大変だと思う。
「随分大きいの着てるね」
「貰い物ですので」
「丈、直せばいいのに。ほら見て」
小蘭は姿見の布を取った。蘭丸の目の前に、小柄な少女がいる。
「これが、私…?」
「そうよ。ほら、後ろも見て。帯も可愛いでしょう?」
小蘭は蘭丸の後ろにもう一つの鏡を持って立った。蝶みたいな形をしている。
蘭丸は自分の頬に触れてみる。顔は、間違い無く自分のものなのに、首から下だけ別の人間になってしまった。
「ねえ、髪、梳いてあげる」
「もう、大丈夫ですから」
「あら。せっかく綺麗に着付けたのに、髪だけ無造作なんて不格好だわ」
そう言うと、小蘭は蘭丸の髪の結わえを解いてしまった。懐から櫛を出し、梳き始める。蘭丸はなるべく鏡を見ないようにしていた。そんな姿を、小蘭は照れているのかと勘違いしているのだろう。けれど違う。女性らしくなればなるほど、どんどん自分の昨日までの姿が遠退いていくように感じて、直視出来なかった。やっぱり、この着物ほ着てくるべきじゃなかった。
「湯が沸いたよ」
無造作に障子が開いた。小龍が顔を出す。
「へえ、可愛いじゃん」
「でしょ?」
背後で、小蘭が得意気に笑った。蘭丸は申し訳ない気分で、笑顔を作ってみせる。
「さあいらっしゃい」
土間の卓上には見慣れない陶製の小作りな道具が並んでいた。
「これは?」
「茶器だ」
小龍は茶葉が入った容器に湯を注いだ。芳醇な香りが広がる。湯が色付き、蓋をして時間を置いて、お猪口のように小さな椀になみなみと注いだ。
「座っておあがんなさい」
小蘭は小龍の隣に腰掛け、自分の茶を煽った。蘭丸はその向かいに座り、碗を手に取る。蜂蜜色の液を口に入れると、爽やかな味と香りが広がった。
「お二人は、明のお生まれですか?」
「いや。生まれも育ちも安馬田だ」
「お祖父ちゃんが明から来た人なの。よく分かったわね」
信長の下で、似たようなものを飲んだことがある。だから、二人の名が聞き慣れない読みなのだと納得した。
「有難うございます。美味しかったです」
「いいのよ。おかわりいかが?」
「いえ。今日はもう…。改めて、伺っても良いですか?」
「待って。もう少し」
小蘭が身を乗り出し、自分の手を蘭丸の手に重ねた。爪が絵の塗料に染まっていた。
「私、あなたに来て貰ったのは、絵を見せたかっただけじゃないのよ」
「え?」
「私、あなたを絵に描きたいの」
「私を?」
「そう」
小蘭の目は真剣だった。冗談ではなさそうだ。
「何故、私を?」
「言ったでしょう?私は、あなたの理想なの」
「俺も初めてあんたを見た時思ったよ。小蘭の絵から抜け出たみたいな子だって」
小龍は頷きながら口を挟んだ。
「私、そんなに綺麗じゃないです。だいたい、小蘭殿が描く女性は、もっと…」
蘭丸は口ごもってしまった。
「もっと?」
「……大人じゃないですか、体つきだって…」
「胸やお尻が小さいことを言ってるの?」
「まあ…、そうです。私、小蘭殿の春画を幾つか拝見させていただきました。私とは真逆の女性でした」
「それ、どこで見たの?」
「…家で、です」
「それ、きっとお家の人の趣味なのよ」
「へ?」
「ちょっと待ってね」
小蘭は席を立って、障子の部屋から箱を持ってきた。
「これ、見て」
蘭丸は箱を開けてみる。男女が絡み合った絵だった。箱の厚さからして、その下にも幾枚かある。
「全部、春画ですか?」
「ええ。見てくれたら、分かると思うわ」
蘭丸は、なるべく表情に出さないように次を捲った。
「……」
なるべく、女性の上半身を、体型だけ確認すればいい。しかし、濃密に絡み合った男女の姿は刺激的で、この行為はするよりも見る方が、遥かに恥ずかしいのかも知れないと、蘭丸は思った。表情は固定出来ても、羞恥心から来る火照りは抑えることが出来ない。
「くっ…、あははっ」
小龍が吹き出した。
「小蘭、もう許してやりなよ。あんたも無理しなくていいよ、見慣れてないんだろ?耳まで真っ赤だ」
小龍の言葉は、明らかに蘭丸を子供扱いしていた。
「な!そんなことありません!春画はあまり見たことはないですけど、誰だってしてることです!」
「あんたもしてるのか?だって、さっきは…」
蘭丸の反論に、小龍は意外そうに目を丸めた。必要もないのに自身の内情もばらすことはない。蘭丸は口を噤んだ。
「……兎に角、そう言ったお気遣いならば、無用ですから」
蘭丸は視線を紙に戻した。次を捲ると、大股開きの女性が現れた。顔がひきつり、はたと気付いて顔を上げると、小龍が不敵に笑ってこちらを見ていた。悔しさに、蘭丸はすぐ女性に視線を落とす。
「…この女性は、痩せていますね」
「でしょう?ねえ、その女の子は、他の胸が大きい子に比べると、色気が足りないかしら?」
色気よりも、淫ら、卑猥、と言った表現の方が当てはまる気がするが、蘭丸は首を横に振った。
「私はね、あなたのその小さな体も含めて、理想だと思ったの。他の女性とは違った儚さや危うさがある。あなたには、あなたしか持たない美しさがあって、私はそれを絵にしたいわ」
小蘭の目は、ひたむきで真っ直ぐで、絵に対する情熱がじかに伝わってきた。その純粋さに、たじろいてしまう。
「でも嬉しい。体型を気にするってことは、春画の方を考えてくれてるってことよね?絶対、最高傑作にしてみせるわ!」
「春画なんて、絶対駄目です!いえ、それでなくても駄目です!」
「どうして?」
「私を絵にして、もし、他の人に私だと知られたら、困ります」
「それなら問題ない」
小龍が口を挟んだ。蘭丸の手から紙の束を取って、二枚差し出す。一人の男と三人の女がまぐわっている絵と、一組の男女が半裸で絡み合っている絵だった。
「あんた、この四人の女、見分けつく?」
「…体型と髪型でなら」
「だろ?結局、小蘭が描くとこの女になっちまう。だから、あんたを描いても誰もあんただとは思わないさ。だがな、小蘭があんたを描きたがっているのは、何も顔や体つきだけで言ってるんじゃない。あんただけが持つ空気だったり、気品を絵にしたいんだ。小蘭にはそれが出来る」
小龍も同じくらい真っ直ぐ蘭丸を見つめた。この弟も、姉が描く絵を大事にしているのだろう。気持ちが伝わって、蘭丸は応えたくなった。けれど。蘭丸は、断る理由を探した。
「ねえ、お礼はするから。あなただったら、倍、払ってもいい」
小蘭は銭が入った袋を目の前に置いた。じゃらりと重たい音がした。
一瞬、源太郎の笑顔が浮かんだ。お金があれば、源太郎にもっと美味しいものを食べさせてあげられる。けれど、お金に目が眩んだみたいで、自分が卑しい人間に思えた。
「お、金の、問題ではありません。私は、そうそう好き勝手に動いていい身分ではないのです」
「川でのびのび泳いでいたじゃないの」
「それは、周りに人がいなかったからです」
「どうして?何が、あなたをそんなに縛り付けるの?」
「……」
何にも縛られていない。寧ろ、今までの人生では一番自由でいる。縛るものがあるのなら、それは自分自身の心だ。あれから、源太郎以外の人間との関わりを避けていた。この不思議な魅力を持った姉弟と深く関わってしまったら、自分はどうなるのだろうか。
俯く蘭丸に、憐れみの視線が注がれた。
「ごめんなさい、私、あなたを困らせたい訳じゃないの。あなた、私の絵を誉めてくれたから、思い上がってた」
「思い上がりではありません。私、小蘭殿の描いたものより美しい絵を見たことがありません。本当です。けれど、自分が描かれるなんて、想像していなかったので、戸惑っていて」
「そう…。なら、少し、考えてくれないかしら?私、待ってるわ」
小蘭はにっこり笑った。
蘭丸は、結局答えを出せないまま帰ることとなった。あまりここに居ては源太郎を迎える準備が出来なくなってしまう。
「送るよ」
挨拶して長屋を出ると、小龍が付いて来た。
「有難うございます。けれど、大丈夫です」
「いいから。また、餓鬼共に狙われたら大変だ」
「心配はご無用です。さっきは油断してただけで、今度会ったら返り討ちにしてやります」
小龍は屈託なく笑った。そのまま蘭丸について来る。
「じゃあ、あんたが油断してもいいように、送るよ」
「え?」
「俺がいたら、気を張らずに済むだろ」
「……」
分かっていたが、小龍はとてもいい人だ。けれど、大人の男は源太郎を除いては蘭丸にとって恐怖の対象でしかない。窮地を救ってくれた小龍とて例外ではない。そんな気持ちに、小龍は全く気付いてない。自分がとても嫌な人間に思えてしまう。
「では、山の麓まで、お願いします」
「へえ、あんた、あの山に住んでいるのかい」
「ええ」
「いいね。何もないだろうけど、静かで、のどかなんだろうな」
「何もなくないです。森も、泉も、川も、田畑もあります」
「そうかあ」
大通りを出て、店の並びの向こうの山を小龍は眺めた。
「小龍」
商店の女将さんが明るく声をかけた。小龍は手を振る。
「やっぱり、その別嬪さんはあんたんのとこ客だったんだね」
「まあね」
「気をつけてやんな」
「あいよ」
立ち止まらず、短い会話を交わして、軽い返事のまま通り過ぎた。蘭丸が振り返ると、女将さんはまだにこやかに二人の背中を見送っていた。
「小蘭の客は、いつも俺が送り迎えしてんだ」
「客って、絵のですか?」
「ああ」
「小龍殿は、小蘭殿と仲が宜しいのですね」
「まあね。二人きりの家族だから…。それ以上に、俺は小蘭の絵が好きなんだ。小蘭が良い作品を生み出すなら、俺は何だって協力する」
小龍は瞳を輝かせた。
「何でも、ですか?」
「ああ。だから、あんたを描きたいって小蘭の願いを、叶えさせてやりたいんだ」
「小龍殿…」
「小蘭はいつもいい女を見つけてくるんだ。器量だけの話じゃない、素材って意味でだ。小蘭が創り出す景色に絶妙に組み合う、いい女だ。俺は、小蘭に描かれたあんたを見たいよ。あんたは、俺が思うに極上の女だ」
「……」
「まあ、あんたが嫌なら仕方ないがな」
「いえ、嫌と言う訳では…」
「分かってる。事情があるんだよな?」
「申し訳ありません」
「いいさ」
話しているうちに、山の近くまでたどり着いてしまった。小龍は家まで送るという申し出を断ると一回で引き下がった。こちらの事情を察してくれているのだろう。
「じゃあ、気をつけてな」
「はい。有難う御座いました」
蘭丸は深く頭を下げ、顔を上げた。
「小龍殿?」
「ん?」
「あの、大変図々しいですけれど、絵の件、断ったとしても、またお宅に伺っても宜しいですか?小蘭殿の絵を、気に入ってる人がいるのです」
「勿論。何時でも来な。お連れさんにも旨い茶、用意してやる」
「有難う御座います」
蘭丸がもう一度深々とお辞儀をして顔を上げると、小龍は手を振りながら街へ戻って行った。蘭丸も手を振り返し、小龍の背を見送ってから、家路に向かった。
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