弐
運ばれた夕餉を平らげ、源太郎は腹をさすった。
「満腹だ」
「蘭は苦しいです。温かい食事は久しぶりでしたし、食べ過ぎてしまいました」
蘭丸は腹を抱えながらため息をついた。
「平気か?この後風呂なのに」
「大丈夫です。温泉、楽しみですね」
蘭丸が可愛く微笑みかける。頭を撫でようと手を伸ばすと、使用人の声が戸の向こうから聞こえた。
「膳をお下げしても宜しいでしょうか?」
「はい、お願いします」
蘭丸はすぐに返事をして、源太郎はこっそり手を戻した。使用人が戸を開け、部屋へ入る。蘭丸は、運びやすいようにてきぱきと膳を重ねた。
「食事、とても美味しかったです」
「ありがとうございます。魚料理は、この宿の目玉なんですよ」
使用人は膳を外へ運ぶと、包みを持って部屋へ戻り、入浴を勧めてきた。
「離れに温泉があるんですけどね、広々として、とても気持ちいいです。この宿の一番の目玉なんですよ」
使用人は包みを開いて、畳まれた服を蘭丸に差し出した。
「奥様はこれを着て下さい」
「奥様?」
蘭丸は誰のことか分からなかったようで、疑問符を浮かべたまま表情を固めていた。使用人は今度は畳んだ布を源太郎に差し出した。
「旦那様は、これで腰を隠してお入り下さい。温泉は男女共用なので。脱衣所と洗い場は別です。脱衣所入り口の青暖簾が男性、赤暖簾は女性です。脱衣所出口にそれぞれ洗い場がありますから、体を洗って合流して下さい。湯に浸かる前に体を綺麗にするのを忘れないで下さいね」
使用人の説明が終わると、蘭丸は口を開く。
「申し上げにくいのですが、私は男です」
「ええ!?」
使用人の心底驚いた様子に、蘭丸は、少し強めに女性用の湯着を突き返した。
「ですので、あちらと同じものを」
「ああ、そうだったんですか、お召し物は男性用ですものねえ…、私も初めは男性だと思ったんですけどね…」
「初めは?」
「いえ…」
使用人の言葉の歯切れが悪い。そして、何やら思い出したのか顔も赤い。ああ、と源太郎は一人で納得する。
「お蘭、どうでもいいだよ、早く入ろう?これ、持ってきてくれねえか?」
「はい、畏まりました」
使用人は湯着を持って、部屋を出ていった。蘭丸は口を尖らせる。
「あの方は何を言いたかったのでしょう、男だと思っていたとか、煮え切らない言い訳ばかりして」
「ああ、お蘭はちゃんと男に見えるってことだよ。だが、聞かれちまったんだと思う」
「何をですか?」
「してる時の声」
「してる時…」
蘭丸は口にして理解すると、一瞬で顔を赤くした。
「お蘭の声、いつもより大きかったし」
あの甲高い喘ぎを聞いて、男と判断する者はあまりいないだろう。
「蘭は、そんなに大きい声でしたか?」
「覚えてないだか?」
「夢中でしたから…」
旅のせいで開放的になってしまったのだろうか。
「でも、すっげえ可愛かっただよ」
蘭丸は俯いたままでいる。これでは、今夜は相手をしてくれないかも知れない。それはそれで仕方のないことだが。
「あの…お持ち致しました」
使用人が気まずそうに声をかけ、戸を開く。蘭丸は顔が見れないのか、俯いたままだった。
すぐに出て行った使用人の足音が聞こえなくなってから、源太郎は蘭丸の肩を叩いた。
「お蘭」
「蘭は、あの方と顔を合わせられません」
「大丈夫だよ、今日と明日しかないから。早く、温泉行こう?」
「はい」
蘭丸は、やっと顔を上げてくれた。まだ肌は赤かった。
離れの風呂場へ向かい、青い暖簾をくぐって脱衣所に着いた。妙な匂いがする。
「何か臭いな」
「これが温泉の匂いですよ」
「へえー」
源太郎と蘭丸は、服を脱いで同じ籠に仕舞った。着替え籠は五つ使用済みだったが、洗い場には誰もおらず、気の済むまで垢を落とすことが出来た。全身を徹底的に洗ってから、腰に布を巻く。初めての温泉にわくわくしながら洗い場を抜ける。
「おお…!」
高い囲いの真ん中に、大きな岩風呂があり、それを隠してしまう程の湯気だった。
「ほー、すげえな」
「広いですね」
源太郎は岩に腰を下ろして、そっと足先を湯に入れた。
「あったかいだな」
そのまま体を沈める。蘭丸は源太郎の隣で、ゆっくり湯に浸かっていく。
「気持ちいいですね」
温泉の湯は濁り、視界は湯気で埋め尽くされている為、周りの目を気にする必要もない。源太郎は伸びをして、関節をほぐし、寝そべるように岩に背を預ける。隣の蘭丸も伸びをした。脇の窪みが露わになり、濁り湯が柔く波打ち、赤らんだ乳首をちらつかせた。さっき散々弄ってしまったせいで、まだ腫れている。
「どうかなさいました?」
源太郎の視線に気付き、蘭丸は問いかける。
「ん、ちっと熱いかな」
源太郎は咄嗟に誤魔化した。
「屋外ですから、熱めになってるとは思いますけれど…。のぼせては困りますし、程々にして出ましょうか?」
「すぐ出たら勿体無いだ」
源太郎は蘭丸の肩を抱き寄せた。蘭丸は困り顔で囁く。
「此処ではお止め下さい」
「平気だ、湯気で見えねえから」
源太郎は蘭丸の肩を抱いたまま、湯の中で手を握り、指を絡ませた。恥ずかしそうに俯く蘭丸の肌は桃色に色付いていた。
「綺麗だな」
「え?」
「星」
「ああ、本当に」
蘭丸は空を見上げた。大きな瞳に無数の輝きが映し出された。
「本当に綺麗だ」
「ひゃ」
源太郎は蘭丸の首筋に唇を寄せる。
「源太郎様…、此処では」
「大丈夫、湯気が隠してくれる。だが、声は我慢するだよ?」
「……っ」
肌を吸い取るようにして啄むと、蘭丸の体温がどんどん上昇してきた。
「…のぼせてしまいます」
蘭丸は源太郎の手を取り、自分の胸の上に置いた。鼓動が早くなっている。
「大丈夫だか?」
「心配なさるなら、悪戯は控えて下さい」
「ん」
「ひゃっ」
源太郎はわざと蘭丸の胸の指先をずらし、乳首を擦った。蘭丸は両手で胸を隠し、つつ、と後ずさる。
「止めてと言っているのに!蘭は向こうに入ります!」
「え?お蘭っ」
蘭丸は、湯気に紛れて見えなくなってしまった。取り残された源太郎が呆けていると、すぐ傍で笑い声が聞こえる。
「可愛い連れだな、色男」
「駄目よ、あんな純な子をからかっちゃ」
源太郎の背後には、一組の男女が居た。状況を見られていたらしく、今更気恥ずかしくなってしまう。
「いや、初めての温泉で、調子にのっちまって」
「まあ、開放的になっちまうのは仕方ねえな」
「そうね」
女は男の肩にもたれかかるようにして寄り添った。どうやら二人は夫婦らしい。二人の持つ空気が似ているのは、若いながら長年連れ添った証のように思えた。
「なあ、不機嫌なお連れさんを、喜ばせてあげたくないか?」
夫が妻の肩に腕を回しながら唐突に言った。
「へ?」
「俺達なら、それが出来る。後で部屋に来てくれ。いいものを紹介してやる」
「いいものって?」
「あの子を悦ばせてあげるものよ」
妻が割り込む。品物を紹介すると言うことは、この二人は商人なのだろう。
「有難いが、おら、自由に遣える金がねえだよ。ここに泊まったのだって最初で最後の贅沢で…」
「触るなああああ!」
蘭丸の絶叫が源太郎の言葉を遮る。そして、湯気を割く大きな水柱が出来上がり、源太郎らにまで飛沫が届いた。被ってしまった湯を払って見下ろすと、間抜け面の男が二人、水面に叩きつけられ、外れた腰巻きが浮遊している。
「…お蘭!」
源太郎はすぐに蘭丸が投げ飛ばしたのだと分かった。源太郎は湯船から出て、洗い場の方へ向かうと、すたすた歩く蘭丸の後ろ姿が見えた。
「お蘭!」
源太郎は蘭丸の手首を掴み、振り返った蘭丸を抱き寄せた。
「一人にさしてすまなかっただ。嫌なことされたな」
「源太郎様…」
「次からは、ちゃんと傍にいる」
「…離れたのは、蘭の方です」
「それでも、お蘭の傍にいる」
蘭丸は源太郎の背に手を添えた。
「で、だな」
「え?」
「触るなって言ってたけど、何処触られただ?」
「肩と手を…」
蘭丸は口ごもる。
「ん?」
「お前は女じゃないのか、と胸と、…股を…」
「なっ」
頭に血が昇ってしまう。源太郎は湯船の方へ振り返った。
「何処へ行かれるのですか?」
「おらからも殴らなきゃ気がすまねえ」
「駄目です!」
蘭丸が源太郎の腕にしがみついた。
「勢い余って思い切り投げ飛ばしてしまったので、源太郎様が手を加える必要はありません。もう、部屋へ戻りましょう?」
「だが…」
「ねえ」
女の声が割って入った。振り返ると、先の商人の妻がいた。
「さっきの話、忘れてないでしょう?私の部屋は二階の南の角部屋よ。必ず来てね」
「へ?」
「支払い何て気にしなくていいわ。これも、何かの縁だもの」
妻は穏やかに笑った。
「だが、そんな訳には」
「お連れさんも絶対、喜ぶはず。じゃあ、後で部屋に来てね」
妻は手を振り、湯気の中へと消えて行った。何だか、誤解を与えそうな状況だ。
「お蘭…」
蘭丸の反応が気になって、振り返ると既に蘭丸は隣にはいなかった。
「あれ?お蘭?」
源太郎は脱衣所まで慌てて追いかける。蘭丸は雑に体を拭いていた。
「お蘭」
「お話は済んだのですか?」
蘭丸は振り向かない。ああ。やはり不機嫌だ。しかも、それを隠そうともしていない。
「うん」
「そうですか」
「気になるだか?」
「何がですか?」
「話」
「別に…なりません」
蘭丸は濡れた髪を纏めた。手拭いを頭に巻いて、浴衣に腕を通す。
「そうか。まあ、大した話じゃないだ」
源太郎も体を拭いた。身仕度を終えた蘭丸は、源太郎の浴衣を広げてくれた。源太郎が腕を通すと、今度は前に来て襟を合わせ、帯を巻く。不機嫌でも、蘭丸は甲斐甲斐しい。
「有難うな」
「いえ。蘭は先に部屋へ戻りますから」
「おらも行くだよ」
「あの方の部屋へ行くのでしょう?」
「お蘭が一緒なら」
「約束なさったのは、源太郎様です」
「なら、おらも行かない」
「きちんと断ってもいないのに、相手に悪いです」
意固地な上に真面目だ。
「わかった」
「では、お先に」
蘭丸はぺこりと一礼して行ってしまった。源太郎も脱衣所を出て、若夫婦の部屋へ向かった。すると、同時に脱衣所から出てきた妻と鉢合わせした。
「ほんとに来てくれたのね」
妻は嬉しそうに笑いかけた。並んで部屋まで進む。
「あのね、支払いはいいって恩着せがましいこと言っちゃったけど、本当は、こっちからお願いしたいの」
「商品を使うことか?」
「ええ。実は、新しい商品を売り出したいんだけど、その前に色んな人の意見を聞きたくて。あなたたち、とても仲が良さそうだから」
「いいけど、その商品って何だ?」
「それはね…」
妻は含みを得た意味深な笑みを浮かべた。
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