ひどく、気分が悪い。
目が回っている。頭が痛くて、身体が重い。指一本すら動かすのが億劫だ。
耳に聞き慣れたエンジン音がする。それに僅かに頭を上げたが、それにすら胃が動く気がして息を詰めた。

「気が付いたか」
「……秀…?…ごめん、私……」
「すぐに病院に着く。着いたらまずそこに置いてある経口補水液を飲め」
「……ああ」

倒れたのか、あの後。
チキンのパックの蓋を開けた直後、蒸れた肉の匂いと脂の匂いに胃の中がひっくり返った。
吐き戻す前に全力でトイレに駆け込み、胃の中のものを全て吐き戻して胃液しか出なくなっても吐き気は止まらない。
意識も朦朧とする中、鍵をかけたトイレの個室のドアを叩く音と同僚の必死の呼び声がどんどん遠くなっていって、最終的に意識は暗転した。
今の状況から見るに、あの後同僚はジェイムズ班のオフィスに駆け込んで状況を説明し、赤井に車を出させたに違いない。せっかく仕事が終わったばかりで、皆気楽になりたかっただろうに。
すまない事をしてしまった。
赤井にもちゃんと謝りたいところだが、彼は「今は安静にしていろ」としか返してくれないだろう。
早く治して、皆に元気な顔を見せないと。靄がかった意識で、それだけを思った。


FBIの息がかった病院に到着する。
車の中で一度水分を取ると、赤井に支えられて極力身体が揺れないように院内に入った。
その後すぐに運ばれて検査が行われた。ベッドに寝かされている間赤井がずっと傍にいた。滅多に冷静さを欠かない彼の目が動揺に揺れていて、そんな顔をするなと笑ってやる。
簡単な検査の後、医師の口から出たのは精密検査をするから部屋を移す、という事だった。
そんなにこの身体は悪いのだろうかと不安になる。
大丈夫だ秀、と言ってやりたいのに、胃液に焼かれてそう経っていないこの喉では何も言ってやれなかった。

暫くして部屋を移され、ここ最近の体調の変化を根掘り葉掘り聞かれた。
その間に起き上がれるくらいにまで身体が回復した。
精密検査が終わると、ベッドから椅子に移動する。医師に呼ばれて赤井も入って来た。
椅子に腰かけて多少マシになった顔を見せると、赤井の表情も幾分かマシになった。そんな表情を見たのは数年ぶりなものだから、こっちが心配になってくる。

「…すまないな、迷惑をかけた」
「気にするな。寧ろ俺がいる時に倒れてくれて助かった。体調はどうだ」
「多少マシになった。多少、だが」
「ああ、だろうな。唇が紫だ」

首筋に赤井の長い指が触れた。指の熱さに驚いたが、彼の指が熱いのではなく自分の体温が下がっているのだと気付く。
自分の指先が冷え切っていた。赤井のジャケットが肩に掛けられる。
これは返そうとしても突き返されるだろうから、大人しく貸してもらった。
そうこうしている内に検査の結果が出たのか、医師が奥から戻ってくる。先程応対した男性医師ではなく、リリーも何度か世話になった女性医師だった。

「お久しぶりね、貴方が担ぎ込まれるとは思ってなかったから驚いたわよ」
「精密検査までされて私が一番驚いている…」
「しかも担ぎ込まれた理由がねえ…貴方忙しいから仕方がないっちゃ仕方がないか…」
「…そんなに深刻な病気で?」

知人の女医の口ぶりに流石に不安が隠しきれなくなった。
赤井の表情はさっきまでマシだったのに話を聞くにつれて眉間にしわが寄ってきている。
彼女は何故か「は?」という表情を見せて、その直後暫く肩を震わせ、遂にこらえきれないとばかりに笑い出した。
女医の様子からして病気ではない、というのは瞬時に理解した。
では何だ?

「あー……ふふ、あー…そこの、貴方の後ろのコワーイお顔の色男が貴方のDarlingね?」
「…仕事上のパートナーだが」
「なるほどね。じゃ、彼女の体調、行動には細心の注意を払うようにね。くれぐれも最前線に出ちゃダメよ。Darlingの方は喫煙者ね?くれぐれも彼女の近くで吸わないように心がけなさい」
「………え?」
「五ヶ月目ね、もう安定期に入ってるけど無理は禁物よ。次の検診日、いつ来れそう?」

…………………………………
……………………待ってほしい。

「ご、五ヶ月目、って………?」
「やだ、私の口から言わせる気?可愛い赤ちゃんに決まってるじゃない!」

………………………………………

「…………………あ、あか、ちゃん」

五ヶ月目。安定期。
今、安定期に入っているという事は。前線で派手にドンパチやっていた数週間前まで、まだ。
いや、それ以上に。この腹の中に子供がいる。誰との、なんて決まっている。

「…まあ、話し合っておきなさいな。点滴で栄養入れておいてあげるから、その間にでもね」

女医は気を利かせて一時的に個室を貸出し、点滴を入れてくれた。
ナイトテーブルの上のスマートフォンが絶えず通知を受け取っている。ジョディ達だろう。
だがそれよりも、一言も言葉を発していない赤井の顔を見ることが出来なかった。
腹の中に赤井との子がいる。いつのが切っ掛けだったとか、そんなことよりもずっと彼に拒絶される事に怯えていた。

「リリー」

ぴく、と肩を跳ねさせてしまった。
怯えているのが隠せていない。それでも彼に呼ばれた以上は、顔を上げて目を合わせるのが誠意だ。
かち合った彼の目は、穏やかだった。

「お前は、堕ろしたいか?」
「…っ!」

首を必死に横に振った。
赤井は、分かっている。リリーの葛藤や怯えを分かって、敢えて「産みたいか」ではなく「堕ろしたいか」を問うたのだ。
赤井はリリーの腹に手を当てる。大きな手のひらだった。

「お前は、俺に幸せで在れと言った。組織を解体し、目的も目標も失った俺に、罪を背負いそれでも幸せになる権利はあると」

静かな声だった。
なんて顔をしているのだと言ってやりたかった。
まるで迷子の子供のような顔を、して。

「俺も同じだ。お前が幸福で在れと願う。お前に女としての幸せを与えるのが他の男でもいいと思っていた。お前が幸せであれば」
「…馬鹿な男ね」
「ああ。馬鹿な、男の考えだ」

腹に赤井が額をすり寄せる。
胸が苦しくてどうしようもなくなって、どうしたらいいか分からなかった。
わからないから、迷子のような顔をする男の頭をできるだけ優しく抱き込んだ。心臓の音が五月蝿い、彼にも聞こえているはずだ。

「…俺が、幸せにしたいと思った。…お前を」

お前の献身を受けるだけで良かった『赤井秀一』は、来葉峠で死んだ。
与えるばかりのお前に惜しむことなく与えたいと思った。一度でもそう思ってしまえば、願いは膨らんでいくばかりだった。
赤井秀一は幸せだった。それでも、誰かを愛す事に臆病になっていた。求めても良いのだと、それを許したのは。

「……、いいの?」
「ああ」
「私、…貴方の子を産んで、いいの?」
「ああ」
「………、貴方と、っ」

手で制される。
男殺しの名を欲しいままにしているのは素敵なことだが、ここで男を殺してくれるな、と。
雄弁に語る瞳に、思わずリリーは押し黙った。泣きそうだった。

「俺と、幸せになってくれないか。リリー」

君に幸せ在れ、と。幸福を待つのはもうやめだ。
ついに、紫の瞳からひとつまたひとつと雫がこぼれた。堰を切ったように抑えることもままならない。
それでも、彼は許してくれた。その優しさが暖かかった。
声なんて出なかった。代わりに、痛いくらいの力で赤井を抱き寄せた。それが全てだった。




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