全身が筋肉痛に似た鈍痛と怠惰に包まれながら、夢を見る。
温かな日差しや鳥の囀り、少し肌寒い風と、湿った土の匂い。全て空想となったそれらを目にする事すらなくなって随分と久しい。
覚えのない鼻腔を擽る優しい香りは、夢から浮上すれば馴染んだ薬液の匂いに全て掻き消される。
目を開く事すら怠惰を揺り起こす倦怠感の中、うろうろと腕を持ち上げ彷徨わせ、すぐ傍に無造作に置かれていたデュエルディスクを掴んだ。
今日もデュエルをする。昨日もデュエル、一昨日もデュエル。一体いつから昨日で一昨日で今日なのか、もう時間の感覚はそれこそ気の遠くなるほどずっと前に置き去りにしてしまっていた。
外の気配を何もかも忘れてしまう程に、眼孔にはこの真白い部屋と人工白光が焼き付いていた。
いつからここにいるのかもわからない。それ以前の記憶がほとんど存在しないからだ。
最も古い記憶は、この部屋の白く聳える壁を見て首を傾げた、ただそれだけのものだった。それ以前の記憶は綺麗に拭い去られ、本来自分が生きて行く上で必要な知識が詰め込まれていた部分には今まで行ったデュエルで使用したカードの効果ばかりが詰め込まれて行った。
この部屋に元の狭さではなく窮屈さを覚えるようになって、眠る時に使う一枚の毛布が小さくなったと感じるようになって、漸く自分の身体の成長を実感するほど長い間この部屋に閉じ込められていたのだと気付いた。
デュエルディスク以上に重いものを持たなくなり、数年自然光を浴びていない腕は異常に白く、か細い。
「…けほ、けほっ」
声を出そうとして、自分の想像以上に喉が干乾びていた事に気付かないで、思わず咳込んだ。
喉が渇いた。けれど、水を得るにはデュエルをするしかない。勝っても負けても最低限の水分は貰えるのだから。
デュエルに必要なVRヘッドセットが手の届く範囲に見当たらず、最小限の首の動きで周囲を見渡す。
すると自分のいる場所と反対側の壁際に、無造作にヘッドセットが転がっていた。意識を飛ばす前に行っていたデュエルで負けて、その時に与えられる電撃で吹っ飛ばされた際にヘッドセットも飛ばされてしまったらしい。
まるで打ち上げられた魚のように惨めに這い蹲りながら、力の入らない腕と胴体を使って何とか前進して、なんとかヘッドセットを掴む。
元々悪かったらしい足は、過度に電撃を浴びた事による負荷で最初期に機能を果たさなくなった。
それでも僅かには動いた足も、今ではどんなに命じようと指一本自力で動かす事も叶わない。
その事を嘆く程の気力も精神力も疾うに擦り減っていた。
どうしてこんな目に遭っているのかもわからず、憎む事も理不尽な仕打ちに憤る事すら疲れを訴える程、心身ともに打ちのめされてしまっていた。
頭を空っぽにしようとしても、浮かぶのはこの部屋に閉じ込められてから与え続けられる苦痛と恐怖と絶望だけ。
いっそ、壊れてしまえば楽になれる。目を醒まさなければ全部終わる。それだけを願いながらも考え続ける事を決して辞めず、気の遠くなるような10年間すぐ傍にあった一線を越えられずにいた。
ヘッドセットを装着して視界が暗く成った瞬間、突然現れたこちらに歩み寄ってくる数人の足音がこの部屋の中に反響した。
身体が反射的に竦むようにしてきゅっと縮こまった。その様子にふ、と誰かが笑う気配がして、その誰かも分からない骨ばった指が伸び切った髪を掻き分け、白くほっそりとした首に触れる。
疾うに心は生を諦めて久しいというのに人間の動物的本能というのはどうにも死ぬまで役割を果たすらしいのか、やはり首に触れられた瞬間引き攣ったような声が自然と喉から這う。
日に当たる事の叶わない白骨のほうな首筋には、赤いふつふつとした鬱血痕が点在していた。負担のかからぬように首を傾けられ、ちくりと首に鋭い痛みが走る。
冷たい液体を流し込まれる馴染みのある感覚のあと、突き落とされるように意識が失せる。
このまま目を醒まさなければいい。それは、逃げる手段も足も意思も疾うに失いながらも考える唯一の能動的な逃避に関する思考だった。
直ぐ傍に、いつだって横たわっていた終わりに手を掛ける事ができなかった。
ずっと昔に聞いた、たった一度だけの天国からの言葉。
それは思考する事をやめるなと、そうすれば君は生きられるのだと、それはひどく残酷な言葉だったけれど。
もうその声も忘れてしまって、ただ与えられて返された言葉だけをずっと反芻してきた。
――――そして、それだけがこうして、この身を10年もの間地獄へ縛り付けている。
まだ天国に行くのは早いんだと数えきれないほど自分に言い聞かせて、いつかあの土の匂いを肺いっぱいに吸い込む、醒めない夢を見られるのだと。
どんな声かは、もう忘れてしまった。でもその声が酷く痛切さを滲ませていたことだけを憶えている。
そしてそれは自分にとって唯一苦痛を伴わない、優しい記憶だった。
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