「分かったから。さっさと行ってこい」
元気の有り余る様子で、こちらに向かって念押ししてくる一匹の子供に向けて、あっちに行けという意味を込めて手をヒラヒラと振ってみせる。満足したように遊び相手のななしに向き直る甥っ子が、楽しそうでなによりだ。あぁ、まったく。本当に。
「がおー」
「そーれ!」
「わあ〜〜!!」
威嚇するように両手を構えて、まぬけな声を上げながらななしへと駆け寄っていく。彼女は、抱きつかれる寸前で、小さな獣の両脇に手を差し入れると、そのまま持ち上げ、その場でぐるりと一周まわった。最後に、すとん、と元の場所に着地させる。
「見た見た?おねーたんすごいんだよ!」
「あー、見た見た。すごいな」
「もっかいやろー!」
向こうからの大声での呼びかけに適当に返せば、飽きもせず、同じ様にななしに向かって駆けていった。
先ほど。いつものように、というのも癪ではあるが、騒がしい毛玉が飛びついてきた。かと思えば、隣に連れているのはいつもの付き人ではなく、数年ぶりに見たななしの姿で。
聞けば、彼女自身も王宮に勤めることが決まり、父親の赴任先から帰国したらしい。それで、旧知でもある兄貴たちに挨拶をしに来たところ、この脳天気な次期国王に懐かれた、と。ついでがてら、俺にも顔を見せに来たのは結構なことだが、このうるさいオマケさえなければ、もっと良かっただろうに。
二人が同じことを繰り返しているのを、ぼうっと眺めていたが、何度目かで降ろされた後、何故かこちらに駆け寄ってくる。……そのまま大人しく遊んでいればいいものを。
「ね、見た?」
「あぁ、見た」
「僕、何回やってもおねーたんに勝てないんだ」
木を背もたれにして寝そべっている俺の腹によじ登りながら、内緒話をするように、声をひそめて報告される。何かの勝負をしているようには到底見えず、ただじゃれているだけかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「勝つ?勝負でもしてたのか?」
「そう!狩りごっこだよ!」
近づいた頭を遠ざけるように軽く肩を押し返しながら言えば、ななしにして見せたように、両手で威嚇するようなポーズをとった。狩り、ね。
ななしに視線をやれば、少しばかり意外そうな色も浮かべつつ、ニヤニヤしながらこちらを眺めていた。腹立たしくも、どこか懐かしい表情だ。
「ったく、獲物を捕らえたいなら少しは頭を使え」
たとえば今、彼女に触れたいと思うのなら、この“狩りごっこ”とやらの状況を利用すればいい。
腹の上の重しは気にせず立ち上がれば、なぜか期待のこもった眼差しで見上げられる。俺に続いて立ち上がろうとした頭を押さえれば、何も言わずともブンブンと頷いて、そのまま大人しく腰を落ち着けた。普段からこれくらい聞き分けが良ければ、まだマシなんだが。
さて、ななしはといえば、俺が一人で向かって来るのに不思議そうな顔こそしているものの、警戒している様子はほとんどない。リラックスした様子で、じっとこちらを見返される。
途中、俺の後ろに視線を向けた後は、何を察したのか、距離が縮まるにつれて僅かに警戒心を強めてはいるようだが、それでも隙きだらけであることには依然変わりなかった。
「ななし」
ただの立ち話をするかのように、なんてことない声色で名前を呼んで、同時に足を払う。想定したよりも、見事にバランスを崩して倒れ込みそうになったところを、腕をまわして抱きとめた。揺れた髪から、近づいた肌から、彼女の香りが広がる。
思った以上にあっけない。昔じゃこうはいかなかった。
「レオナ!いきなり何……」
「おじたんすごーい!おねーたんに勝っちゃった!」
体に回した腕をがしりと掴まれ、憤慨した様子で睨み上げられるが、駆け寄りながら叫ばれた言葉を聞くと、納得したように、ゆるりと表情を緩めた。そして、大きく息を吐く。
「随分
「……完全に油断してた」
腕の中で体勢を立て直しながら、拗ねたような悔しそうな顔でちらりと睨まれた。支えていた重さが、すっと消えていく。
「すごい、すごーい!」
「そうだね、レオナおじさんすごいね」
するりと俺の元から抜け出たななしは、足元の子供と視線を合わせるようにかがみ込むと、ふわりと笑いながら、その言葉に同意を示す。
一方で、彼女の言葉を聞いた毛玉はぴたりと言葉をつぐんだ。そして、何やら考え込む様子を見せた後、ぱっと顔を輝かせて宣言する。
「でも、負けちゃっても大丈夫だよ!僕が守ってあげる!!」
「ふふ、ありがとう」
「だから、僕のお嫁さんになってね!」
ななしは驚いたように目をぱちくりさせてから、ひと呼吸おいて、カラカラと楽しげに笑った。
「そうだね。チェカ様が大きくなってもそう思ってくれていて……私がまだ結婚していなかったらね」
「絶対だよ!」
それから少しして、ようやく、“かわいい”甥っ子のお迎えがやってきた。嫌だのなんだの駄々をこねてはいたものの、結局はななしに諭されて渋々戻っていった。生意気にも、彼女の手を離す前に、その指先にキスを贈ってから。
辺りは燃えるような夕日に染められている。
そうしてようやく、広い中庭にいるのは、俺とななしだけとなった。同じ木にもたれかかって、横目に見ながら言葉を交わす。
「子供の戯言に、やけに予防線はってたじゃねぇか」
「そう?でもまぁ、子供だからって約束して、守れなかったら良くないと思ったから」
手持ち無沙汰に胸元のペンダントを弄びながら、なんてことないように返される。伏せられた長い睫毛が夕焼けに染められて、どことなく蠱惑的だった。
「なんだ、当てでもあるのか?」
「当てはないけど……期待したい人ならいるかも」
悪戯っぽくも、どこか艶めいた視線を投げかけられる。そう来るか。そっちがその気なら、乗ってやるのも悪くない。
「へぇ、誰だ。言ってみろよ。場合によっちゃ協力できるかもしれないぜ」
隣に向き直って発破をかければ、悔しさと熱っぽさが入り混じったような、なんとも言い難い表情をされる。彼女の瞳の中には、ついさっきまでの彼女自身と同じ目をして、笑みを浮かべる男が映っていた。
しばし互いに睨み合ったまま、呼吸すらも一瞬止まる。先に動いたのはななしで、観念したように、大きくため息をつきながら項垂れて、それから再び視線が交わる。
「……あぁ〜、もう。わかった、私の負け!それでいいでしょ?」
「負け?俺は勝負なんざ仕掛けたつもりはないんだが」
昔は、あんな足払いくらいではこれっぽっちも動じなかった、むしろ、倒れざまにこちらを投げ飛ばすくらいの気概で、したり顔をしていたくらいだというのに。随分と、しおらしくなったものだ。
納得いかなそうな、それでいて強請るような視線に、心臓に優しく爪を立てられているような心地になる。その感覚に流されないよう、獲物を追い詰めにかかる。
「で?誰なんだ?」
右手をななしの頭上あたりに置きながら、あえて少し距離をおいて覗き込む。眉を下げた困り顔だというのに、気持ちが溢れんばかりの色で見上げられ、そのまま飛びかかりたくなる心をぐっと堪えた。あと少しで、向こうから首を差し出してくる。
ふいに、少しばかり視線が強くなったと思えば、両手で襟元を掴まれて、力任せにぐいっと引き寄せられた。抵抗せずに身を任せれば、柔らかな香りと共に、ふんわりと唇と唇が触れた。
「なるほどな」
握られた襟元の力が緩む。互いの鼻先が触れ合いそうな距離で見つめ合う。
返した言葉が、自分で思う以上に喜びの乗った音になったことについては、今ばかりは致し方ないと思うべきか。
華奢な肩に手を添えて、さらりと流れる髪をかきあげて。唇が触れ合う寸前。僅かな時間、動きを止めれば、柔らかな手が俺の頬を撫ぜて、首筋にまわった。
その手に引き寄せられるよりも前に、そっと、口付けを贈った。