心臓が、どくん、と大きく跳ねる。
この恐ろしい感覚は、身に覚えのあるものだった。反射的に振り返って辺りを見回すが、頭に思い浮かんだ姿は、やはりどこにも見当たらない。
ばくばくと暴れ続ける心臓を落ちつけようと深呼吸をしても、やはり、どうにも落ち着かなかった。だってきっと。まだ、見られている。
どうして今日に限って一人で買い物になんて来てしまったのだろう。今さら後悔をしても遅いのは分かっているが、友人を誘えばよかったと思わずにはいられない。一人で恐怖に耐えるよりも、誰かがいてくれた方がずっとマシだ。家に戻るにしても、今しがた視線を感じた方向に引き返すことになるため、それもまた望ましくはない。
予想外の状況に、人通りの真ん中で立ち尽くしてしまい、道行く人々からの注目までも集めている。どうする。とにかく、早く決めてしまえ。やっぱり引き返す?……いや、出くわす羽目になるのは嫌だ。
それに、視線を感じるとはいえど、昔と比べたらそこまで強いものではない。それなら買い物を続けた方が安全では?以前ほど関心がないのであれば、途中でいなくなるかもしれないし、そもそも、私の気のせいかも……。
おおよそ薄い望みであることは分かっていても、そう自分に強く言い聞かせて、予定通りに足を進めることにした。
ミドルスクールの頃。直接、何かの危害を加えられたことこそなかったが、どういう訳だか、射殺されそうな目で見られている、という感覚に襲われることが度々あった。
授業中や、休み時間、部活でトラックを走っている最中にだって。ゾッとして振り返っても、私を見ている人も、見ていたであろう仕草をする人も見当たらない。そんな奇妙なことが、当時の日常には織り込まれていた。
「それって、ななしのこと、好きなんじゃない?」
「いや、そういうんじゃないって。なんていうか、その……殺されそうな感じ」
「あはは、なにそれ。大げさだって!」
信頼できる友人に、本気で相談したつもりだったのだが、その時は笑い話で終わらされてしまった。一緒にいる時間は多い割に、そんな気配を感じたことは、ついぞないらしい。時折、びくりと怯えて周囲に目を走らせるのにも、いつも不思議そうな顔をされるばかりだった。
その視線とよく似た恐ろしさを感じていた人物が、苦手な同級生、ルーク・ハントだった。私が彼について知っていることはあまり多くはない。狩りと美しいものが好きらしいことと…。それから、私に話しかける時には、目の奥が鋭く、それでいてその鋭さを隠すように、鈍く光ることくらい。私には、彼のその目が、姿の見えない“誰か”と同じもののように思えてならなかった。
いや、その“誰か”は彼だ、と思ってはいたのだ。実際、心臓が縮み上がるような気配を感じた時に、目が合うことが、稀にあった。そんな事実があってなお、絶対にそうだと思う自信を無くすことがあったのは、視線が交わった後の彼の言動のせいだ。凍りついた私のことが見えているのかいないのか、そんな時には必ずと言っていいほど、人目も憚らず大げさに、嬉しそうに、褒めそやした。
『あぁ。その、飾らない素朴な美しさ!いつまでもこの目に留めておきたいくらいだ』
『マーヴェラス!キミの走りは本当に美しいね。まさにガゼルのような脚で駆け抜ける様、実に素晴らしい。感動したよ!』
内容はともかく、そんな堂々とした振る舞いができる人なのだ。どういう訳だかそれを思うと、こそこそと何かをする、という行動には結び付かない気にもなってきて、何が真実なのか、分からない心地にさせられた。賛辞を並べながら私を見据える、鋭さを押し隠そうとしている緑の目は、間違いなく恐ろしいというのに。
いつ、喉を切り裂かれるだろうか。いつ、心臓に刃物を突き立てられるだろうか。いつ、首を折られるのだろうか。そんな、命を狙われているかのような恐怖心を確実に抱かせながらも、彼自身がそれを引っ掻き回しに来るような。本当に、よく分からない人だった。
そんな彼を、これ以上はない、というほどに恐ろしく思ったのが、放課後に教室で鉢合わせしたときのこと。部活終わりに教室に戻ると、大きな夕日も翳ってきた薄暗い部屋の中、ドア近くの壁にもたれかかっている彼がいた。その姿を認識した瞬間、落ち着いていたはずの心拍数が一気に跳ね上がる。
「おや、こんな時間に、どうしたんだい?」
「えっ、と……ノート忘れちゃって」
「ふふ、存外おっちょこちょいなのだね」
楽しげに、おどけたような仕草で言葉を返されたが、その時点で頭の中は、すでに真っ白だった。他のクラスメイトであれば、何をしていたのか聞き返すくらいはできただろうに。
夕闇の影に潜む双眸に射抜かれて、心臓は今にも飛び出しそうなほどに、ドクドクと動き回っている。早く、教室から出ないと。私たちの他には誰もいない状況が、殊更に恐怖心を煽る。
断ち切るように視線を外しても、背筋がぞわぞわとする嫌な感じが止まらない。早く、はやく。早く逃げなきゃ。急所に狙いを定められた心地になって、どんどん焦りが増していく。
息苦しささえ感じながら、机の中のノートを手に取る。振り返ったところで、また
やばい、やばい。やばい!今度こそ、喉を射抜かれるかもしれない。無意識のうちに目を見開いて、体が動かなくなる。
「そう怯えないでおくれ。傷つけるようなことはしないさ」
どこか演技がかったように、それでいて静かに告げられたその言葉は、間違いなく、私が“殺されそう”だと思っていることを見透かしたうえでの台詞。この人は、全部分かった上で、
矢を射られこそしなかったが、恐ろしさのあまり、体から力が抜けて足が崩れた。どたん、と、間抜けにもその場に尻もちをついて、肩にかけたカバンも、どさりと床に落ちる。打ち付けた痛みがじんじんと伝わってくるが、それどころではない。今は、彼から目を逸らしてはダメだ。
「おっと、」
僅かに見開かれた切れ長の目。そのまま、ぶわりと鋭さが増したかと思えば、すぐに、いつものように覆い隠される。それでも隠し足りないかのように、私の方へと歩み寄りながら、彼はにこりと笑みを浮かべた。緑の瞳が見えなくなってゆく。
「大丈夫、立てるかい?」
差し出された右手。今は笑顔の向こうに隠された、鋭い目。それでもなお、止まることのない恐怖心。
本当に殺されるわけがないことは、頭ではちゃんと理解していた。もしも私が、例えばライオンのように、狩りをする側の獣人だったならば、彼や私自身の人間性を貶めるような、そんな恐れを抱くことはなかったのだろうか。
目の前の手を取るのは、ひどく恐ろしかった。だけど、取らないでいるのもまた、恐ろしいような予感がして。迷いながらも、震える手をそっと重ねた。すると、何かを確かめるように強く手を握られて、それから、ぐいっと逞しい力で引き上げられた。
久々の買い物だったというのに、目当ての店をまわりきっても、私の手にあるのは、たった一つの紙袋だけ。まぁ、それも当然か。かつての恐怖を思い出させる視線を、それなりの時間、向けられていたのだから。当時よりも薄れたとは言え、やはり楽しむどころではなかった。
どこかでお茶でも飲んでから帰ろうか。甘いものが食べたい。でも、結局こんな状況なのだから、行ったところで休まる気もしない。それなら、おとなしく家に帰ろうか。ぽつぽつ歩きながら、ぼんやりと考える。
「ボン・ジュール、ななし。久しぶりだね」
そんな時、目の前に現れたのは、切り揃えられた金の髪を揺らした一人の男性。帽子のつばで影がかかっているあの緑の目が、昔よりも高い位置から私を見下ろしていた。想定外の出来事に、思わず息を呑んで、体はピシリと固まる。
「変わらず君の美しさは健在なようで、何よりだよ。いや、素朴な中にも、大人の女性としての艷やかな美しさが兼ね備えられてきた、と言うべきかな?」
身振り手振りを添えながら、朗らかな声音で下される私の評価なんて、どうだっていい。そんなことより、この場から逃げないと。どうすればいい。縫い付けられたように足は動かないし、声も出ない。凍りついた顔をしている私のことなど気にしていないのか、思惑通りなのか、彼はご機嫌な様子で話続ける。
「折角だ、再会を祝して一緒にお茶でもどうだい?」
差し出された右手。笑顔の向こうに隠された緑の瞳。思い返される恐怖心。
行きたくない、無理だ。でも、嘘をついて断ったとしても、すぐ見抜かれて、かえって窮地に陥るのは目に見えている。かといって、行きたくないと正直に言えるわけもない。
ただ、気のせいでなければ、僅かばかりの希望が無いわけではなかった。最初に視線を感じたときからそうだったけれど、昔よりは幾分マシなのだ。たぶん。恐ろしいことには変わりないが、無理に断ろうとして状況を悪化させるよりも、誘いに乗った方が“最悪”にはならない気がする。
迷いながらも、彼の手のひらに指先を重ねると、ぎゅっと、強く優しく握りこまれた。