これの続き


 この国でも一際大きな屋敷の裏手、人気ひとけがなく夜空が良く見えるいつもの場所。ひんやりと冷たい地面に腰を下ろして、壁に背を預けて星を仰ぐ。手を握る距離、肩が触れ合うほどに近くの左隣には、同じように、壁にもたれながら空を見上げるななしが座っていた。
 星と月の輝く夜。時折、冷たい空気を身に纏わせる穏やかな風。初めて言葉を交わしたあの日から、片手では数え切れないほどの季節が通り過ぎた。出会った当初は気が向いたときにだけ、そのうちに帰省中には欠かさず足を運ぶようになって。いつしか、ななしは離し難い存在に。



「今日は、弟たちから手紙が来たんだ」
「へぇ、良かったじゃないか」

 気ままに遊ぶように、俺の左手を握ったり緩めたり。そんな動作を繰り返しながら投げられた声色に、どことなく違和感を覚えた。いつもならば嬉しそうに話す話題のはずなのに、どうやら今日は、嬉しい以外の何かも混ざっているらしい。顔を少しななしの方へと向けて、月に照らされる表情を伺いながら、耳を傾ける。

「みんな、相変わらず学校楽しいみたい。それに、一番下の妹も料理をするようになったって。今のところはまだ、誰も私には適わないらしいけどね」

 にぎにぎと、緩急つけた手遊びは続けながら、こちらを見て、得意げに笑ってみせる姿に、軽く笑みを返す。ななしはスマホを持ってはいないから、離れて暮らす家族とは、こうして時々、手紙でやり取りをしている。今日も特段、良くない話があったわけでもなさそうだが、一体どうしたというのか。

「そうか。元気そうなら何よりだな」
「そうだね」

 ほんの少し顔を寄せれば触れ合う距離で、彼女は優しげな笑顔を浮かべたが、その相槌はやはり、どことなく落ち込んでいるように聞こえた。
 俺の手を握るのには飽きたのか、するりと右手が離れていき、両腕で膝を抱え込む。そのまましばらく黙っていたかと思えば、冷えた夜風に乗せるように、いつもより小さな声で話し始めた。

「なんかさ……良いことなんだけど。私がいなくても、みんなどうにかなるんだなぁって、改めて思って」

 なるほど、そういうことか。伏せられた視線に合わせて揺れた睫毛を眺めながら、どこか拗ねたような声を耳にして、少し納得する。彼女にとって、家族は守るべきものではあるが、同時に間違いなく、枷でもあった。個人の望みは押し込めて、すべては大事な家族のために。そんな存在から“自分がいなくとも問題ない”だなんて事実を突きつけられるのは、きっと、面白くない。

「お前の弟妹も、いつまでも子供じゃないって事だろ?」
「そう、それ!そうなの……」

 勢いよくこちらを振り向いて、力強く同意を示したかと思えば、すぐに大きなため息をつきながら、額を膝に擦りつけるようにして背中を小さく丸めていった。なんだかんだ、彼女がここまで気落ちしているところを見るのは初めてかもしれない。

「みんなが成長するのは、嬉しいと思うのに……。ずっと、昔のままでいてくれたらいいのに、って思ってる自分もいて……」

 顔をうずめているせいで、もごもごと籠もった声の、途切れ途切れの言葉。それが頭の中に流れ込んでくるにつれ、気持ちが同調していくような気にさえなるが、それを表すのは堪え、沈黙を保つことで続きを促す。

「みんなが大人になったら、私って……何なんだろうって」

 ゆっくりと正面に顔を上げて、瞳に月を揺らしながら、ぽつりとこぼされた、不安そうな淋しい言葉。そうだよな、そういうことか。自由になった先にある、一番大きいものが、ななしにとっては、今までの自分が空白になる恐怖や不安なのだろう。
 認めたくはないし、到底あり得ないことではあるが、俺だって、突然カリムが全てを自分一人でやるようになったとしたら。もしくは、他の誰かが“同じように”アイツの世話をこなし始めて、俺が用済みになったとしたら。解放された喜びと共に、“それじゃあ、俺の今までは何だったんだ”と怒りや憎しみを抱くだろうから。行きつく感情の名前は違えど、きっと、それと似たようなものだ。

「俺は、お前といると落ち着く。だからいいじゃないか、それで」

 なんとも言いようのない気持ちになって、大した思考を通すことなく、思ったまま口から出た言葉だった。
 少し間をおいてから、何やら空気が変わった気がして、ふと隣を見やる。驚いたように僅かに目を丸くした様子が、欠け始めてなお明るい月に照らされていた。……そんなに変なことを言っただろうか。口元に手を当て視線を外しながら、今しがた零した言葉を頭の中で反芻する。

 俺は、それでいいと言った。……何が?
 まず、ななしは未来の自分の存在意義について不安そうだった。それで、お前がいれば安心するから、って……?

 そこまで思考を巡らせてようやく思い至る。まるで、この先も一緒にいることが前提のような言葉じゃないか。慌てて彼女へ視線を戻す。

「あ、いや。今のは、……」

 咄嗟に弁解しようとして、それもまた違う気がして、情けなくも、意味をなさない言葉しか出てこない。思考回路が熱を持って鈍くなっているからか、目や頬にも熱が籠もっていく。
 まともに動かない頭からどうにか絞り出した答えは、この場で否定するのは違うということと、今の言葉で終わらせてしまうのはナシだということ。
 今の顔を見られるのは心底嫌だった。でも、いくら月が明るいと言えど、日の出ている時間と比べれば暗いことには変わりない。だから、大丈夫だ。散らかった心を落ち着かせようと、拳を握りながら、適切かどうかももはや分からない言い分をひとまず腹の中に押し込めて、体ごと彼女に向き直る。

「少し待ってくれ。ちゃんとケジメはつける」

 背筋を伸ばして、真っ直ぐに見つめて告げた。いや、告げたはいいが、ちょっと待て。“少し”ってなんだ。今このまま続けるべきなのか、機会を改めた方が良いのか。それすら決めないままで、見切り発車も良いところだ。
 月を映した眼差しに視線を絡め取られ、正常な思考を辿るのが、さらに困難になる。そんな混沌とした俺の脳内を知ってか知らずか、嬉しそうな、どこか照れたような表情で、ななしは柔らかく笑った。

「うん、楽しみにしてる」

 優しい言葉に合わせて動いた彼女の指先が、俺の左手を探し当てて、その指先に、はらりと絡む。ひとつ、問題が解決したことに、内心ほっと息をついて、返事の代わりに、握り返すように力を込めた。
 しばし、そのまま視線を交わしていたが、やがてななしは少し悪戯っぽく笑みを深めると、自分の存在を示すように、今一度、そっと指先を握り込んでから、星を仰いだ。

 それに倣って、ぼんやりと空を見上げながら、先ほど口にしなかった言葉に考えを巡らせる。冷静になってみると、あのまま勢いに任せなくて良かったと思わざるを得なかった。なぜなら、ななしには自由でいてほしいから。俺がそれ・・を言ってしまえば、彼女も恐らくはここ・・に縛り付けられる。それは先祖代々変わらないこと。
 でも、だからといって、彼女を手放したくはない。
 ならば、俺は逃れられるのか?2年の冬、あれ・・でも変わらなかったことを、変えることはできるのか?ただ自由になるだけではダメだ。俺の今までを無駄・・にすることなど、到底許されない、俺自身が許さない。だが、過去を無駄にすることなく自由を手にすることなど、この期に及んで可能なのか?
 そこから、思考は堂々巡りに陥った。答えはすぐに出るはずもない。身動きが取れないまま、体の内でのたうち回る苦しみは、昔からよく馴染んだものだった。



「……もし仮に、どこか別の場所へ行けるとして、ななしはどうする?ずっとここ・・には留まらないだろう?」

 流れ作業をするように、何周目かになる思考を回しながら。ふと、隣に注意を向けて、気まぐれに尋ねてみる。
 その言葉から何を受け取ったのだろうか。彼女は、ゆっくり呼吸をしながら、驚いたような、切なそうな、そんななんとも言い難い表情を形作っていたが、ふいに、少し目を細めた、挑戦的な顔に切り替わる。

「貴方なら分かるでしょう?」

 からかうような、じゃれつくような調子で投げられたその言葉は、今ばかりは嫌ではなかった。こういう悪戯めいた時の彼女が考えそうなことも、不思議と、ぱっと頭に思い浮かぶ。
 保険をかけるため、“そんなはずはない”と言い聞かせて。一方で、“これであっている”という自信の方が上回りながら。それでも、最終的には半信半疑に落ち着いて、期待を押し殺した怪訝な顔で答えを述べる。

「……俺と一緒なら、何処へでも?」

 まずは表情だけが動いた。彼女の目と唇がきゅっと弓なりになる。それから、焦らすように一拍おいて、正解、とでも言うかのように、楽しげな笑い声が漏らされ、繋いだ左手を優しく引かれた。そのまま委ねると、少し冷えた左手も添えられて、両手で包み込まれる。柔らかな唇が吸い付くように押し付けられて、小さな音を立てて離れていった。

「っ、なんだよそれ」

 空いた右手で、前髪を握るようにして、軽く頭を抱えこむ。つい先程まで迷宮入りしていた思考はどこへやら。嫌にすっきりした気分だった。だが同時に、頭のほんの片隅では、何故だか泣きたい気持ちにもなる。

「ジャミルだって。よく自分で言ったよ」
「まぁ、それもそうだな」

 ななしの声に導かれるように、頭をもたげて視線を戻した。我ながら、よく言えたものだ。思わず笑い声を漏らしながら、繋がれた手を今度はこちらへ引き寄せる。俺よりも、ひと回りは小さな手の甲に、唇を押し当てた。




「……そろそろ戻るか」
「そうだね」

 絡めた指を握り直して、その手を引いて立ち上がらせる。繋いだ左手はそのままに、右手で彼女の肩を抱くように撫ぜた。そうすれば、どちらからともなく自然と顔が近付き、そっと唇が触れあって、そのまますぐに離れる。
 別れ際の、いつもの挨拶。普段なら、このまま体を離して帰路につく。だが今日は、あんなやり取りをしたからだろうか。もう少しだけ、と名残惜しいような気になって、頭であれこれ考えるより先に、身体が動いた。

 肩から首筋を撫でた手で髪をかき上げ、そのまま頭を抱き寄せて。やんわりと唇を啄むように滑らせる。いつもとは違う動きに驚いたのか、ななしは一瞬だけ体を強張らせたが、すぐに身を委ねるように力を抜いた。たったそれだけのことなのに、胸の内側がじわりと熱くなった気がして、そのまま続けて同じように口づける。口角が上がるように動いた唇の感じから察するに、今度は、何やら笑みを浮かべたようだった。
 緊張感のない奴だな。と思いながら、双眸を覗き込むように額同士をつき合わせれば、間髪入れずに、楽しげな笑い声が聞こえてくる。つられて笑えば、甘えて擦り寄るように、首元に手が這って添えられた。

 この距離、この関係であれば、いつだって俺の術中にいざなうことはできる。尾を噛んだ蛇のように循環する思考の先、俺の選んだ未来がななしとたがったのであれば、その必要にも迫られるのか?そうならないために、俺が打つべき手は、策は、一体何だ。先延ばしにせず考えるべきなのは分かっていた。何事も、事前に潰しておけば後から焦ることはない。
 でも、今、この感じこそがきっと、満たされている、というのだろう。今はただ、それでいい。そうも思ってしまうのだ。

 抱き寄せた背中に垂れる柔らかな髪に、指を絡めて滑らせる。間近で覗いた瞳に映っているのは、僅かに欠けた月ではなく、俺だった。