星と月の輝く夜。時折、冷たい空気を身に纏わせる穏やかな風。約束を取り付けている訳ではなかったが、こうして二人で過ごすのは、今晩で幾度目かとなる。彼女は友人でもないし、同じ屋敷で働くただの顔見知りだったが、気が向いたときに此処へ足を運べば、必ず会った。今までは、ただそれが積み重なっただけ。
同じ屋敷で働くと言えど、彼女と出会ったのは随分と最近で、先の長期休暇で帰省した時のこと。その日の午後、カリムの元から、絨毯が突然飛び出していったのがきっかけだった。それを追いかけたカリムを追いかけて。途中で一度見失いこそしたものの、ようやくこの場所で追いついた。そこに居たのが、しゃがみ込んで優しく絨毯に話しかけている彼女と、少し離れた場所に腰を下ろして、それを興味深そうに眺めるカリムだった。
その時に得た情報といえば、彼女の名前と、ここで働き始めた時期くらい。俺たちがNRCに進学してすぐの頃に、やって来たらしい。時間帯と状況的に、厨房で働いているであろうことは推察できた。
今日ここへ来る気になったのは、日中に用向きがあって訪れた厨房での出来事、一人で片付けをしていた彼女と入れ違いでやって来た料理長の言葉のせいだ。ぼんやり夜空を眺めていると、意識せずとも引きずり出される占星術の知識を頭の隅に追いやりながら、その時のことを思い返す。
彼女は、見習いでこそあるものの、話を聞く限りでは、料理の腕も大層評価されて、ここへ来たようだった。しかし、
でも、当事者である彼女は?一体どう思っているのだろうか。さほど重要でない疑問ではあったが、なんとなくその答えが気になった。話がしたいと明確に思って此処を訪れたのは、初めてだ。ちらりと横目で見ながら、今日の本題とも言うべき話の入口を投げる。
「そういえば、忙しい時間に悪かったな」
星空から視線を外して、こちらを向いた彼女は、一度ぱちりと目を瞬かせた。すぐに合点がいったのか、月明かりの反射する瞳を弓なりにさせて、軽く笑みを浮かべる。今宵は満月ではなかったが、相手の表情が分かるくらいには、辺りは薄ぼんやりと明るい。
「ううん。私こそ、ろくな挨拶もしてなくてごめん」
「いや、なに。タイミングも悪かったようだし」
あの時は、単に間が良くなかった。なにせ、俺に気付いた彼女が口を開こうとした矢先に、料理長が入ってきたのだから。そのこと自体はさして問題ではない。
彼女は、小さな笑い声と共に相槌を打ちながら、すいっと視線を空へと戻した。その眼差しを、こちらへ引き戻すように言葉を続ける。
「……あの後聞いたんだが、ここへ入る前に、料理を作ってみせたらしいな」
「あぁ。さすがに一度も包丁握ったことがない人だと、ってやつでしょう?」
立てた膝を支えに、左腕で軽く頬杖をついて、彼女を眺めながら一歩話を進めてみた。狙い通り、こちらに視線は戻ってきたものの、“大したことではない”とでも言いたげな返答からは、何かをはぐらかそうとしている感じを覚える。なんとなく、面白くはない。
「その時のこと、随分と“買っている”ようで、えらい褒めようだった」
「へぇ、そうなの?お世辞でも嬉しい。教えてくれてありがとう」
まじめに受け取っていないのか、そもそも受け取る気がないのか、彼女は中身の詰まっていないような軽い声音と共に、へらりと笑みを浮かべた。無性にそれが気に食わなくて、無意識に眉間に力が入る。
“見習いにしておくには勿体ない”。そう言わせるほどの実力が君にはあるんだろう?俺に彼女の評価を盛って伝えたところで、何のメリットもない。俺達が顔見知りであることも知らないようだったし、あれが彼女への正当な評価だ。
「……お世辞なんかじゃないさ」
眉を寄せながらの少し低い声色に、彼女は僅かに目を見開いたようにも見えたが、結局は、聞いた話を有耶無耶にするかのように、曖昧な表情で、はにかんでみせた。真意は分からないが、褒められたことに対して明るく喜ぶわけでもなく、自信がないわけでもなく、ただ“認める”気がない、という意思表示として受け取る。
そうして、腹の奥底から煙のように湧き上がってくるのは、苛立ちとも言うべき、重くて熱いもの。あの話を聞いてから渦巻いていた疑問が、立ち込める感情に合わせて、ふっ、と鎌首をもたげる。
「悔しくないのか?」
そしてそのまま、ゆらりと威嚇するかのように、言葉が滑って落ちた。
過去、何度かのやり取りを踏まえて思うに、彼女は賢い部類の人間だ。頭の回転は早いようだし、何を言って、何を言わないべきかの判断もつけているようだった。だからこそ、この場で言わないのは道理ではあったが……それでも彼女は、自分の実力と、自分の扱いを天秤にかけたら、どちらに傾くか分からないほど、馬鹿ではないはずなのに!
臓腑の底に溜まった苛立ちが、牙を剥きながら、大きく口を開けていく。
「悔しい?」
「君には実力がある。それなのに、見習い扱いされて、こき使われて……。嫌じゃないのか?」
勢いのまま、噛み付くように全てぶつけ終わってから、少しだけ我に返る。怒鳴ることこそなかったが、随分と感情的な物言いだ。
俺は今、何に対して苛ついている?誤魔化そうとする態度?彼女の処遇について?それとも、
そんな俺とは対照的に、彼女は概ね冷静なように見受けられた。一瞬だけ、何かを探るように目を細めたが、すぐに目元を緩めて、こちらを落ち着かせようとするかのように、穏やかな声で答えを寄越す。
「それは、別に……。まだここへ来てそんなに長くはないし、弟たちのこともあるから。働かせてもらえるだけ、ありがたいよ?」
期待したものとは異なる、随分な“綺麗ごと”だった。頭の内側が、再び轟々と燃え盛っていく。認めたくないが故の誤魔化しなのか、見込み違いで、本気で呑気にそう思っているのか。どちらにせよ、気に食わない。考えるよりも先に、言葉を投げつける。
「なら君は、自分の腕前を、どう思っている?」
「それは……」
ようやく彼女は、なんと答えるべきか悩むように言葉をつまらせた。月を映す
さぁ、どう答える。まだ、はぐらかすのか?体の内で燃え上がる炎は、どうやら闘争心にも似ているようだった。絶対に認めさせたい。そのために、次はどう手を打って、退路を断つか。興奮で前のめりになる思考でそう思った矢先のこと。
再び、双眸に月明かりと俺を映した彼女が口を開く。
「まぁ、庶民的な料理なら、かなり上手い方なんじゃない?地元では評判良かったし。……あ、でもこれ、他の人には言わないでね」
予想に反した、自信ありげな悪戯っぽい笑顔に、思わず毒気を抜かれた。苛立ちは、霧散して消えることはないが、あるべき場所へ戻っていき、ようやく冷静さを取り戻す。いつの間にか、体ごと彼女の方を向いていたのに気付いて、背中を壁に預けなおした。
その動きに合わせるように、彼女はゆっくりと空を仰ぐ。そして、つい今しがたの言動とは打って変わった、大人びた慈しむような声で、言葉を続けた。
「でも、ほんとに今は、仕事があるだけで十分。弟たちが独り立ちした、そのあとは分からないけど」
内容は大して変わらないはずなのに、今度はすんなりと受け入れることができた。自分の実力は分かった上で、それでも血を分けた家族のためなら、今はそれでいい。その言葉には、嘘偽りや、強がりはないように思えた。
それでも、隠された諦めの色が、横顔にじわりと滲んだように見えて、彼女の家の事情を聞いた日の夜が頭を過る。
何を思えば良いかも分からず、黙ってその横顔を見つめていたが、ふいに、がらっと表情が切り替わって、くるりとこちらに向き直られる。
「それで?あなたは悔しいの?」
「っ!」
想定外の言葉に、思わず目を見開いて、軽く息を呑む。僅かな時間、思考も固まった。どう返すべきか、考えを巡らせるよりも早く、彼女は言葉を重ねていく。
「だって、さっきの。まるで自分のことのようだったから」
ぼんやりとした暗がりの中、ひどくまっすぐに視線が交わされた。不躾に探るでもなく、何かを押し付けるでもなく。ただただ、歪みない、月を灯した透明な視線で捉えられる。
「それは……」
先程の彼女と同じ台詞が、ぼろりと口から溢れて落ちた。感情的であったとはいえ、見抜かれ指摘されたことに、少なからず動揺した。あわせて何故か、相反するはずの、安心したような心地にも。それらがまぜこぜになって、悔しさと期待のようなものが渦巻き、混ざり合っていく。苦しいのに、あたたかい。そんな、訳のわからない感じだ。
でも、その言葉を肯定することはできない。
「……君の、勘違いだろう」
彼女はしばらく黙って、俺を見ているようだった。夜の冷えた空気が俺たちを撫ぜ上げていく。冷たくも優しい風が通り過ぎたあとで、ようやく言葉が戻ってきた。
「そう。それならそれで、いいけど…」
それが、なぜだか寂しそうな声に聞こえて、そっと隣を見やる。彼女は、俺を見るでもなく、星を見上げるでもなく、膝を抱くように背中を丸めて、足元に視線を落としているようだった。その表情は、垂れた横髪に隠されて見ることはできない。
それ以上、無遠慮に踏み込んでくることはなかった。それに心地よさを覚える反面、もう少しくらいなら、踏み込まれても良いかもしれないと思う自分もいた。
その後は、互いに何も言わなかった。しばらくして隣の様子を伺うと、彼女はいつもと同じように星空を見上げていた。あまり気にしていないのだろうか。まぁ、気にしていたとて、恐らく彼女は隠そうとするだろう。
頭上の星空へと視線を戻す。その後も沈黙は続いたが、だからといって、気まずさや居心地の悪さがあるわけでもなかった。今までもそうだったし、さっきの事があったとしても、それは今も変わらない。
「そろそろ戻るね。あなたは?」
おもむろに腰を上げながら沈黙を破った彼女が、衣服についた砂を、手慣れたようにバタバタと払っていく。今日はそれを視界の隅に入れながら、同じように立ち上がった。今までなら、彼女の背中を見送って、少し経ってから帰っていたが、なんとなく今は、一緒に戻っても良いような気になった。
「俺も戻る。……部屋の前まで送ってく」
「え?あ、別にそういうつもりじゃ」
「俺だって別に他意はないさ」
今までにはないやり取りだからなのか、俺の目の高さより少し下にある顔は、どこか困惑したような様子だった。まさかそんな反応をされるとは思っておらず、親切心を無下にされたような気になって、自然と口角が下がる。
しばし無言でそのまま見合った。目の前の、2つの瞳で反射する月明かりを見下ろす。
「わかった。一緒に戻ろう」
さほど長い時間ではなかったが、先に動いたのは彼女の方だった。ゆるりと表情を緩めて、ふんわり笑ったかと思えば、続けて口元を覆いながら、眠そうにあくびをしてのける。
「ふふ、ごめん。眠くなってきちゃった」
全身で夜空を仰ぐように大きく伸びをして、それからのんびりと歩きはじめた後ろ姿。夜にはその背に下ろされる髪が揺れる。それを今宵は、ひと呼吸分だけその場で眺めて、すぐに後を追った。
この国でも一際大きな屋敷の廊下を、ひとり分の隙間をあけて、隣に並んで歩みを進める。
「……明日も、あそこで星を見るのか?」
「うん。天気が良くて、風も穏やかなら」
どことなく眠そうな小さな笑顔と共に、頭に思い浮かべた通りの言葉が返ってきた。太陽の照らす元で初めて会った時にも、ななしは同じことを言っていた。だから、風の穏やかな晴れた夜にあの場所へ行けば、彼女に会えるなんてことは、最初から知っていた。