ふっと朝の微睡みから意識が浮上する。目の前にはいつもと同じ、長い睫毛に縁取られた瞼がそっと閉じられている。顔にかかる髪を掬い上げて避けると、肌に触れた指先が異様な熱さを感じた。改めて手の甲を頬に押し当てる。かなりの高熱を出しているようだった。
十中八九、俺が風邪を移した。やってしまった、と後悔の念に苛まれる。そりゃあ、あれだけキスをすれば風邪だって移る。先日の行いを反省したってもう遅い。
「ん、」
ナナシがもぞもぞと動き始めた。しばらくしてゆっくり瞬きをしたあと、2つの綺麗な宝石が覗く。けれどもやはり、いつもと比べてぼうっとした輝きだった。
「んー、」
再び閉じられた瞳。体がしんどいのか眉間に皺が寄っている。
「おはよ、体大丈夫か?」
「んー、熱い、頭痛い」
ぐったりと力なく喋る彼女を見ると、あの時の、戦場でのことが頭によぎり、心がざわつく。おでこに手を当て、そのまま頭を撫でてやる。再び、ゆっくりとした瞬きのあとで、ぼんやりした瞳が現れた。
「風邪ひきました」
「そうだな。俺が移しちまった。ごめん」
「しょうがないですよ」
小さく小さくナナシは微笑む。俺の頬に手が触れる。そっとキスをする。
「キスしちゃだめですよ。また風邪ひいちゃいます」
「もう免疫できてるから平気だろ」
俺の言葉に、小さな笑みがまた浮かんだ。こめかみの髪を後ろへ撫でて、鼻に軽くキスをする。
「とりあえず薬飲まなきゃだな。何か食べれそうなもんあるか?」
ナナシは目を閉じて考えたのちに、そっと瞼を押し上げる。
「ヨーグルト、とか」
「分かった。持ってくるからちょっと待ってろ」
彼女は俺が立ち去ることに対して名残惜しそうな顔をしながらも、こくんと頷いた。額にキスを落として、ベッドを抜け出す。
冷蔵庫からヨーグルトを取り出し、皿に盛る。いつもならフルーツを入れたり、ジャムやはちみつをかけたりするが、今日はプレーンが良いだろう。白一色の皿をお盆の上に置き、水と薬も準備する。そういや冷えピタがあるんだっけ、なんて思い出し、それもお盆に乗せて寝室へと戻った。
ナナシはまだベッドで横になっていた。ベッドの端に腰掛け、汗ばむ髪を撫でる。しんどそうに閉じられていた瞼がゆっくり上がる。
「起きられそうか?」
「はい」
ナナシはゆったりとした動作で体を起こし、枕を背もたれにして座った。
「じゃ、おでこ出して」
ナナシは片手で額にかかる髪を上げた。薄いシートを剥がして、おでこにピタリと貼り付ける。ナナシは目を瞑って少しだけ気持ち良さそうな顔をした。
膝の上のお盆から、ヨーグルトの小皿を持ち上げる。
「あーん」
「あー、ん」
口元に差し出すと、素直に口が開いた。スプーンを差し込むと今度は唇が閉じる。ゆっくり引き戻すと、スプーンはきれいに空になっていた。ちょっとでも元気を出してほしいと思い、スプーンが出てきたばかりの唇に軽くキスをする。
「……」
「ヨーグルト〜俺の愛を添えて〜」
ナナシは恥ずかしがるでも喜ぶでもなく、ぼーっとしたまま俺を見ている。
「あれ?ときめかない?」
「……いまそれどころじゃないです」
熱でぼやぼやしている瞳の中に、ほんの少しの呆れが見えた気がした。あんまりうまく行かなかったらしい。気を取り直して再度スプーンでヨーグルトを掬って口へ運ぶ。ナナシはぼんやりだるそうにしながらも、差し出されたものはきちんと食べていた。皿に残るヨーグルトをかき集めて、最後のひとくちを差し出す。小さく空いた口でぱくりとスプーンを閉じ込め、きれいに食べきった。
「全部食えたな」
「はい」
相変わらずしんどそうなまま、こくんと頷く。
「よし、あとは薬だな」
お盆に乗せていた薬のシートを先に手渡す。手のひらに錠剤が落とされたのを確認してから、シートと引き換えにキャップを開けたペットボトルを渡した。緩慢な動作で薬を口に放り込み、ペットボトルに口をつける。ごくんと喉が動く。
「熱出て汗かいてるだろうから、もうちょっと水飲んどけ」
「ん、」
ペットボトルを俺に返そうとしたのを遮り、水を飲むように促す。ナナシは小さく返事をすると、水を二口飲んで、俺に差し出した。
「じゃあ片付けてくるからちょっと待っ…」
ベッドから立ち上がると、ナナシがとても悲しそうな顔で俺を見ていた。思わず言葉も途切れる。
「大丈夫、すぐに戻ってくる」
熱い頬を撫でながら、安心させるようにそう言って聞かせても、その瞳にはゆらゆらと涙が浮かんでくる。
「わかった、どこにも行かねぇよ」
お盆をベッドサイドのテーブルに置き、彼女の髪をかき上げながらそう伝えた。皿がカピカピになるのは仕方なしとする。
「手、つないでくれますか?」
寂しそうな顔で問われる。承諾以外の返事はない。
「あぁ、一緒に寝ようぜ」
頬にキスを落として、俺もベッドに潜り込む。左手で彼女の手を握り、右腕で体を抱き寄せる。じっと俺を見つめる熱に浮かされた瞳にようやく穏やかな色が戻った。
「ちゃんと寝るんだぞ」
「はい」
安心したように、ナナシはきれいな宝石を瞼で隠した。冷えピタの貼られた額におでこを寄せる。次に目覚めた時には彼女が元気になっていますように、だなんて、ありきたりな願いを込めて、目を閉じた。