画像

振袖



私が仕事から帰ってきたら、自室で燕青が何かを見ていた。よく見てみたらそれはひとつの写真立てで、その中にある一枚の写真は私が二十歳を迎えた時の振袖を着た写真だった。私が帰って来たことにも背後に回ったことにも気づかないとは、その集中力の程度が推し量れることだろう。尚更言いたい。


「そんなに面白い? その写真」


声を掛ければ返ってきたのはいつもどおりの平静な声で、逆にこちらがびっくりしてしまう。なんだ、私が帰って来たことに気付いていたのか。コートを脱ぎハンガーに掛ける私の傍らで、燕青がまじまじと写真を見ながら言った。


「マスター綺麗だな」


「着飾れば並程度くらいにはなるよ」


「卑屈だなぁ」


「そう?」


「何か特別な日なのか?」


「成人式っていう、二十歳を迎えた人達の門出を祝う祭典の日だよ。日本じゃ二十歳から何から何まで大人扱いになるからね」


「へぇ。着物っていうには袖が長過ぎじゃねぇか?」


「ああそれ、振袖っていう着物の一種だよ。確か百センチ前後だったかな。中振袖っていうの」


振袖には三種類あって、袖丈が百十四を越えて床に広がる程度の長さの着物を本振袖と言い、袖丈が百センチ前後の着物を中振袖と言い、袖丈が八十から九十の間の着物を小振袖と言う。成人式の日も、私はむしろ式典にも行く気はなかった。同級生がどうのこうのではなく、ただ単純に行く気が無かっただけである。だが母が「唯一の愛娘の振袖の姿くらい見させてちょうだい」と諭され、やむ無しに中振袖を一着購入し、母にあれよあれよと装飾されて式典に行った記憶がある。レンタルでもよかったのに、と領収書を見て顔が青褪めた自分も覚えている。今や手元に残っている物は母に買ってもらったこの振袖のみだ。最近は過去の自分を見ることがなかったためになんだか少し懐かしい。一応定期的に手入れはしているため虫などは付いていないが、それでもじっくりと見たことはあまりないな。


「せっかくだから着ようか」


「おっ、ほんとか!?」


「うん。輓近出してなかったしね」


「楽しみだな、マスターの振袖姿」


「何言ってるの、燕青が着るんだよ」


「はあ!?」


うきうきしていた燕青は聞くや否や双眸をこれでもかというほど丸くさせた。


「なんで俺が!? どう考えてもマスターだろ!」


「いやだって、私もう着たし」


「だからって男が女物の服を着るってのもなぁ」


「大丈夫。燕青なら絶対似合うよ」


「そういう問題じゃねぇって」


「服脱いで」


「ちょっ、わかっ、解った! 解ったから剥がないでくれってマスター! 追い剥ぎかいアンタは!」


往生際が悪い燕青の服を全身から剥いで肌襦袢を着させ、次いで長襦袢を着させていく。ああもうじっとしてなよ燕青。漢なら潔く諦めるってことも覚えて。そんなに顔を赤くさせても逃がさないよ。肩幅がきついかもしれないと思っていた肌襦袢だが、案外すんなりと着付けることができた。意外と肩幅狭いんだね、燕青。振袖の柄に負けるとも劣らない綺麗な刺青が隠されてしまうのはかなり勿体無い気もするが、だからといって上半身を着崩すならぜひ振袖ではなく長着でやってもらいたい。ふむ、今年の夏祭りに備えて一着燕青のために長着を一着購入しておこうか。燕青なら紺系統か深緑系統の長着が似合うはずだ。デザインは控えめな物にして……っと、考え込み過ぎた。

取り敢えず長襦袢は無事に着付けられたから、いよいよ振袖を着てもらおう。ようやく観念した燕青を後目に、クローゼットの中から一つの包みを出す。横に長いそれを恭しく床に置くと、ぱさっと包み紙を取った。現れたのは私が母に買ってもらった振袖である。これには灰と化していた燕青も目を燦々と輝かせて感嘆の声を漏らしている。子供みたいだ。はい燕青、両腕を広げて。通すから。どうやら彼は乗り気になったようで、振袖の上から下まで、右から左まで、隅という隅まで視線を忙しく動かし、おおっ、と驚きながらも喜んでいる。初めてお目にかかる振袖に好奇心を隠せないのだろう。

彼のこういう素直なところは好きだ。そして順当に振袖を羽織らせて、腰紐を用いて固定させる。次におはしょりを整えてそれを固定させた。そして帯を取り出し腹部に滑らせる。竜のように、また川のようにうねりながら滑るそれを燕青の背後に回ってしっかりと形を作った。最後に貝の口結びをして、


「できたよ」


約一時間半弱掛かったが、なんとか完成した。うん、物の見事に女性だね、燕青。すげえすげえと目を輝かせる彼を姿見の前に立たせる。そこに映ったのは紛うことなき美女であった。


「凄い似合うね燕青」


「そうかい? でもありがとう、マスター。にしても日本の振袖ってすげぇなぁ」


彼の深緑の長い髪と釣り合いの取れている璃紺色の振袖。それには猩々緋や深緋などで縁取られたり描かれた大振りの椿が、縦横無尽に鮮やかに散りばめられている。大輪の椿と同じように目線を奪ってしまうのは、両翼を高らかに、天に届くように広げた鶴だった。頭頂部は鮮やか赤色で塗られており、翼の部分は胴体から先にかけて赤、金、黒となっている。椿の園に隠された一羽の鶴と言ったところだろうか。そしてそれらの上を細かな金箔の紙吹雪が舞っている。言わば椿の園に降る金の驟雨といったところか。

一から百まで絹で作られた璃紺色の腹部には、光り輝く金色の帯が巻かれており、それには五つ捻じ瓜紋の奥ゆかしい箔押しが施されている。動けばその度に光を反射して鈍くその柄を主張させる。金色の帯には猩々緋の帯飾りがされていた。振袖自体がひとつの絢爛絵巻物になっているのにも関わらず、それを服に着せられるわけでなし、完全に服を着こなしている燕青は、まさに八面玲瓏の女性と言えるだろう。我がサーヴァントながら相変わらずその美しさには舌を巻いてしまう。


「綺麗だよ、燕青」


「ありがとよ」


「うん、凄く綺麗」


「お、おう」


「咲いたばかりの花みたい。可愛らしさもあるけど美人だよ」


「何回言うんだよ!」


「だってほんとうに美人だし」


「解ったって!」


「あ、燕青」


「なんだよ」


「化粧もしよう。髪飾りも付けよう」

私の提案に項垂れていた燕青はぴしりと音を立てて固まる。髪飾りとかってどこに仕舞ったっけ。化粧台を探り始めた背後で、燕青が後退りするのが解る。


「動いたら今度は令呪を使ってさせるからね」


「令呪の無駄遣いっ!」


「と思うなら大人しくして」


「なんで乗り気なんだい、マスター」


「綺麗だから隅まで飾りたくなった」


「マスターのツボが解らねぇ」


おっ、あったあった。化粧品はあまり多く買わないのでとりあえずここにある物でやってみよう。渋る燕青を椅子に座らせて髪を櫛で梳いていく。蟠りもなく水を掬い上げるように抵抗もない燕青の髪は、一体どんな手入れをしたらこんなふうになるのだろうか。もしかしたら燕青は女性以上に女子力が高いのかもしれない。