レイシフトからの帰りで、酷く疲れきった私はダ・ヴィンチのメディカルチェックを受けた後、自室に戻ってベッドに全身を投げ打った。底なし沼に沈むが如く襲いかかる猛烈な微睡みに瞼を下ろそうとした、その時。
「マスター、居るか?」
「カルナ?」
感情を孕まないどこまでも落ち着き払った低い声。それまで襲い掛かっていた眠気も、突然の来訪者のおかげで嘘のように掻き消えてしまった。本音を言えば寝たかったのだが、それは非礼に値するため一旦は良しとすることにした。「入ってどうぞ」と促せばスライド式の扉は、空気を抜くような音を立てて横に滑った。
「失礼する」
百七十を超える長身は頭を僅かばかり下げて入室した。珍しいこともあるものだ、彼から来るなんて。基本彼から出向くことは無い。多分ひとりで何かしているのだろう。だがあいにく私は今物凄く眠たい。ゆえに珍しいことに遭遇しても今は思考が少し飛んでいる。どこかふわふわした面持ちで彼の話に耳を傾けた。
「先程レイシフトを行ってきた」
「うん」
「珍しい物を見た」
「そっか」
彼も珍しい物を見るとは。偶然の合致というものだろうか。
「ほんとうは手折るべきか迷ったのだが、考えた末俺は手折ることにした」
「うん」
「俺がここに留まることができるのはお前の力あってのこと。その返礼として何が喜ばれるか考えたのだが、出た答えはこれだ」
「うん。うん?」
睡魔のせいで右から左へと聞き流していたが、最後の言葉ではっと我に返った。返礼? 答え? なんのことだ? 先の言葉を抜かりなく頭から滑り落とした私は目を瞬かせながら、がらんどうとなった頭を急いで稼働させて、言われたことを咀嚼した。えっと、なんでいきなりそんなことをしようと思ったんだ?
「唐突だね」
「なにかマズかっただろうか?」
「そうじゃないけど」
「それならば受け取って欲しい」
私が迷惑がっているように受け取ってしまったようで、少し眉を下げた彼に急いで訂正すれば、嬉しそうにして何かを差し出してきた。
「花?」
赤い花だった。真っ赤な絵の具を大量に被せたかのような見事なまでの赤一色。それはまるで向日葵のように花弁を開かせ、十二単のように小さな花弁を幾重にも重なっている。なんて言う花なのだろう。一応名うての花達は知っているつもりだが、これは見たことがない。そも、私の花知識なんて素人に毛が生えた程度にも満たないのだが。小首を傾げた私にカルナは見計らったように付け加えた。
「キクというらしい」
「ああ、菊か。名前は聞いたことあるけど見たことはないんだよね」
「本来ならば手折るのは是ではないが、これを一目見た時にどうしてもお前に渡したかった。これはあくまで俺の自発的行為によるものゆえ、要らぬのであれば捨てても構わん」
「捨てるほど人情に欠けている奴とは思ってないんだけどな、私。大切にするよ」
ともあれ睡魔は何処かへ逃げてしまったことだし、滅多に来ない珍客も居ることだし、せっかくだからお茶にしようか。情緒もへったくれもない真っ白な部屋に赤い花を添えるのも悪くないだろう。多少なりとも変わり映えはするだろうし。