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全ては私の所有物



「遅い」


突き刺す寒さの中、待ち合わせ場所にて待ち人を待っている私の口から出た声は、怒りが滲んでいた。だけど無理もないだろう。なにせ待ち時間が三十分以上も過ぎているのだから。なのに待ち人からは一切音沙汰なしときた。もういい加減帰りたい。今日の晩御飯は彼だけ抜きにしよう。決めた矢先、私はいよいよ帰宅することを決心した。もう知らない、帰る。


「あんの馬鹿燕青。晩飯抜きじゃ気が収まらないわ、朝飯も抜きにしてやる」


ぶくつさとこぼれる愚痴は、痛いと解っていても唇を動かすのを止めずには居られなかった。何が有能な従者よ、このポンコツ従者。主人を極寒の中に待たせる従者がどこに居るっていうのよ。脳中で明瞭に思い浮かぶのはサーヴァントと名乗った一人の美丈夫な無頼漢だった。深緑の艶やかな長い髪を持った一見したら八面玲瓏な女性に見えるやもしれないが、首から下は漢そのものの体躯をしている。筋肉の主張が激しい肉体をしており、それには豪勢にも鮮やかな刺青を隅まで凾れている。明朗快活な彼が今日、私を食事に誘ったのだ。というのに当の本人が所定の時間を過ぎても現れない。


「全く、どこで何やってんだか」


私だって暇じゃないのよ。時間を徒労にさせるなんて全くいい度胸をしている。苛立ちを押し売りするように周囲を見渡したら、ふと何かに意識が傾いた。瘋癲者やごろつきなどが溜まっている退廃的な繁華街の細い路地に、見知った顔があった。間違いない。あれは燕青だ。雄々しい龍が刺繍されたスカジャンを羽織って、長い髪をうなじの辺りで一括りにしている。それは分かれる前に見た格好だ。ここに居たのかという苛立ちが増した気がした。

だが遠くに居る燕青は当然ながら私の気配に気づいていない。何やらけらけらと笑っている。そこで気づいた。燕青以外に誰か居る。目を凝らして見つめてみたら、思ったとおり二人の男が立っていた。着崩したダサい格好や派手な色に染髪したいかにもという男たちである。次の瞬間。一人の男が燕青の胸倉に掴みかかったのだ。それを見て得心がいった。どうやら喧嘩を売られているらしい。主人である私を待たせておいて喧嘩だなんて、あいつはどういうつもりなんだ。気づけば私は地面を蹴って渦中に割って入っていた。


「私の所有物に手出してるんじゃないわよ」


燕青の胸倉を掴み上げていた虫に回し蹴りを食らわせる。油断しかしていなかったそいつは、容易くも一メートルほど吹っ飛ぶ。大きな音を立ててそいつは地面に溜まっていた泥の中でうずくまった。もう一疋の虫は何が起こったのかさえ理解出来ていないようだった。情けない。こんな雑魚が私の所有物に容喙するなんて百年どころか千年早いわ。思考停止しているもう一疋の虫の首を掴絞め上げる。そいつは無様にも低く喘いだ。


「雑魚風情が随分図に乗っているんじゃない? 女ひとりに簡単に絞め上げられるなんて」


乾燥しきったカサカサの肌に爪を喰い込ませる。虫はさらに喘いだ。


「ごめっ、ぐぁっ」


「は? 何言ってんの? 全然聞こえないんだけど。はっきり喋ることもできない無能なの?」


「ぐるっ、じぃ」


「当たり前でしょ。人の物に手を出してなんで優しくしないといけないわけ?」


「あがっ!」


「苦しい? 痛い? 開放されたい? なら力で抵抗してみせてちょうだい」


ぐぐ、と腕に力を込めた。力がこもるたびに虫はさらに喘ぐ。後ろで気の抜けた呼ぶ声が聞こえてきた。


「それ以上やると死ぬぜそいつ」


「黙りなさい燕青。あんたに口出しを許可した覚えはないわ」


「へいへい」


事の発端は自分だということを理解しているのだろうか燕青は。してないだろうな。している奴がこの光景を見て面白そうに口元を歪めたりしないもの。立場というものが充分に理解していると思っていたようだが、どうやら足りないようだ。私はあんたを喜ばせる道化じゃないのよ。笑っている燕青を脳裏に浮かべただけで殺意が湧く。どうせこの繁華街での事件は警察だって嫌がってまともに取り合わないのだし、目の前の虫の一疋や二疋を殺したところで大事にはならない。決めた。


「力もないのに私の物に手を出したのが運の尽きね。死になさいな」


虫の首を絞め上げたままコンクリートの壁に力一杯打ち付けた。けたたましい音と共に何度もぶつける行為を繰り返す。虫の後頭部が壁に当たる度赤い血が飛び散って私の頬を掠める。激痛に叫んだ虫も五回を越したあたりからじょじょに声量を落とし、地面に落とした時にはもう一言も発さなくなった。コンクリートの壁にはそいつの血痕がべったりと付着している。タバコ臭かった路地裏はたちまち鉄臭さへと変わる。臭い。気持ち悪い。頬の汚れを落として舌打ちをこぼす。


「ご苦労さまぁ、マスター」


肩からにゅっと突き出た腕がそのまま垂れる。それをぱしっと払い落とした。忌々しそうに見遣る。


「馴れ馴れしいわよ。従者如きが許しもなく主人に触れないで」


「つれねぇなぁ。怒ってんのか? いやぁ、すまなかった。行こうとしてたんだが、ご覧の通りこいつらに絡まれちまってなぁ。許してくれや」


「の割には反省しているようではないわね。あんたまで殴られたいワケ?」


「それで気が済むってんなら一向に構わねぇが、マスター、寒くないかい?」


つまりさっさと帰ろうっていうことね。そう、そう言いたいのね。


「燕青」


「なん」


へらりと笑う彼の頬を容赦なく平手打ちする。ぱしんっ、という乾いた音が響く。さすがの燕青も静かになった。


「これで許してあげる。私が許すのは一度のみ。二度は許さない」


「解ったよ、主人様」


「ならいいわ。帰るわよ」


血塗れの路地裏から燕青の手を引いて家に帰った。