くすくすと笑む度に揺れる長い黒髪だ。燕青も長いよな。長い髪から連想したのは、家で待っているであろう同居人の燕青である。男だというのに艶やかな長い髪を持っていて、私が会ってきたどんな可愛らしい女性よりも可愛い笑顔を持っている。長い髪を見ただけで燕青を連想してしまう辺り彼に絆され過ぎているなと思うが、同居期間が長いゆえだと思いたい。
「ねえねえ」
私の肩をちょんちょんとつつきながら声を掛けたのは、薄い壁を挟んで隣に座っている女性社員だった。名前を
「貴女ってあの中だったら誰が好み?」
「また『白と黒の王子様』ですか」
「だってあの二人素敵じゃない」
頬を赤く染めながら視線を向けるのは、何やら難しそうな話をしている二人の男性社員だった。彼らもまた鱗瓦さんと同じように周囲とは一線を画す存在感を放つ人物である。性格云々を抜きにしてもこの二人はかなりの美男子に入るため、女性社員達の間ではかなり人気のある人達だ。例外なく隣の美女にも、だ。
「そんなに好きなら接触したらいいじゃないですか」
立ち上げたWordアプリを見ながらそんなことを言う。すると先程よりも強い力で肩をばしんばしんと叩かれた。
「そんなことできるワケないじゃない!」
「ちょ、痛いです」
「でも目の保養にはなるわよねぇ」
「はあ、そうですか」
「貴女はあの二人を美男子とは思わないの?」
「いや思いますけど、付き合いたいとかはないので」
「勿体ないわね」
「鱗瓦さん頑張ってくださいよ。鱗瓦さんが二人と並んだら美男美女カップルになりますから」
「もー、相変わらず口の上手な子ねぇ!」
嬉しいのは解ったから肩を叩くのを止めてくれませんか? 確かに美男二人組の
そういえば伊佐坂さんも百合鐘さんも燕青と比べて筋肉量は劣るものの、顔立ちや雰囲気はれっきとした男性だ。だけど燕青は逆に体付きや声は男性のものであっても、長い髪や顔立ちはどちらかと言うと女性の部類に入る。ゆえにもし彼が全身を覆い隠すような服、例えば着物などを着てそこに立っていたら、間違いなく女性だと勘違いしてしまうだろう。美人だもんな、燕青。
「ちょっと貴女、いつまで仕事してるつもり? もう定時よ」
「あ、ほんとうだ。ありがとうございます、お先に失礼します」
「ええ。さようなら」
鱗瓦さんに注意されていそいそと鞄を持って席を立つ。鱗瓦さんの言う通り定時になっていて、窓の向こうは太陽がほぼ沈みかかっていた。こういうのを黄昏時と言うのだろうか。またあの顔が痛くなるほどの冷風に晒されるのだと思うと、帰ることすら躊躇ってしまう。だからといってここに住むのも嫌だし帰ろう。ぶるりと震えた双肩に喝を入れて退社した。
案の定外は寒かった。ただでさえ気温が低いというのに、さらに刃のような鋭く冷たい風が強く吹いている始末。ああ寒い。乾燥したせいで指もまともに動かせない。そろそろ車でも買おうかな。いやでも先に免許取らないと。「はあ」と息を吐いたら真っ白に染まった。そして雲のようにしばらく空中に浮遊してやがて溶けて消える。
「さっさと帰ろう」
重い足を動かした時、背後から声を掛けられ同時に片方の肩を軽く叩かれた。
「お姉さん美人だねぇ。あのさ俺ここ来んの初めてなんだけどさ、オススメの店とか案内してくれない?」
面倒な人に絡まれてしまったようだ。振り向いたことを酷く後悔するはめになってしまったのは、声を掛けた人が思い切り顔を顰めてしまうような格好をしていたからだ。何をかっこいいと思っているかは知らないし知りたくもないが、だからってゴテゴテのシルバーアクセサリーや金ピカの角張った靴はダサいとしか言いようがない。悪い歯並びを白昼の元に晒しながらけたけた笑い声を上げる。嫌そうに顔を顰める私を見れば、誰だって嫌がられていると即座に理解出来るものだが、目の前の猿にはどう映っているのか、何故か謝ることなく尚も笑い続けている。
「予定があるので離してください。あと迷惑です」
「冷たいなぁ。一時間だけ! あっ、三十分だけでもいいから。ねっ?」
執拗い時点で無理だ。生理的に受け付けない。こういう人間はとことん消毒したくなるが、こんな猿に感けるのも時間の無駄というものだ。尚もべたべたと触ったり絡むようであれば、裏路地に逃げ込んで気絶させてしまおうか。公衆の面前で先に手を出したら私の方が暴行罪に問われてしまいかねないからそれは避けたい。というか家で燕青が待っているからほんとうに早く帰りたい。ご飯作らないと。
「あまり執拗いようでしたら警察呼びますよ」
警察という言葉を口にした途端、相手の顔色がさっと変わった。おちゃらけていた雰囲気から一転してピリッと張り詰める。にたにた笑っていた男は眉間に皺を寄せ、私を睨んできた。そして低い声で言う。
「サツを呼んだらどうなるか解ってんだろう
な」
ポケットに突っ込んだままの手がポケットの中で動く。得物を所持している可能性アリ、か。これは確かに拙い。見たところそれほど強いふうには見えないが、激情に流された男ほど厄介な者はない。無造作にナイフを振り回してきたりしたら反撃のしようがない。間合いに入り込もうにもナイフが邪魔だし、男の力で押さえ付けられでもされたらそれこそ一巻の終わりだ。ああもうなんでこんな目に遭わないといけないんだ。苛立ちを覚えてしまうがそれをぶつけるのはダメだ。全く以て不本意ではあるが、ここは男の言うことを聞くしかない。
「遅いと思ったらこぉんなところで油を売られてたのか、マスター」
諦めかけたその時、どこから現れたか知らないが、燕青が姿を現した。家でする半裸状態ではなく上下共にきちんと服を着ていた。燕青が現れたことで全身を縛っていた危機感という拘束具から解放される。まさに蜘蛛の糸と言えよう。男の今にも飛びかかってきそうな雰囲気にも動じることなく彼はいつもの子供みたいな笑みを浮かべて近づいてくる。まず彼に相手が武器を持っていることを知らせなければ。
「燕青、この人武器を持っているかもしれない」
「ふぅん。でも見たところ大した奴には見えねぇけどな」
そう言って嘲るような笑みを薄らと浮かべた。挑発している。間違いなく燕青は男を挑発している。ちょっと待って、なんでそんな好戦的な物腰なの燕青。君なら威圧するだけで退治できるじゃない。武力行使なんてやめてほしい。完全にこちらが過剰防衛になってしまう。
「なぁアンタ。痛いのは嫌いか?」
「あ? んだよ、俺と殺り合おうってんのか?」
「いやいや。我がマスターはそれを望んじゃいないようだからねぇ。ま、ここが無法地帯だったら聞かねぇけど。アンタじゃ俺には勝てないよ。だから投げ飛ばされる前に帰りな」
「ふざけ」
「最後の警告だ。帰れ。聞かねぇってんならマスターが望んでなくてもお前を完膚なきまでに叩き潰す」
男だけではない、私も思わず背筋がピンと張ってしまった。嫌な汗が滲む。男には解っているのだろうか。これが脅しでも挑発でもなく、宣言であることに。男がもしここで帰らず燕青に食ってかかるようなことをしてしまえば、間違いなく男は指先一本動かせない程までに叩き潰される。燕青は嘘を吐かない、戦いの場では必ず。挑発しても戦いで潰さないなんていう選択肢は彼にはない。逃げてくれ。
誤解を招かないように言っておくが、決して男のためではない。燕青のためだ。ここで事を起こしたら間違いなく燕青が罪に問われる。それだけはなんとしてでも避けたい。逃げろ、逃げろ、逃げろ。睨むように相手を見つめれば、男は血相を変えて逃げ出した。姿はあっという間に人の波に呑み込まれてしまった。逃げ足だけは速いな。
「怪我はないかい? マスター」
殺気立っていた空気は一瞬で解かれ、燕青が心配そうに駆け寄ってきた。
「ああうん、大丈夫。何も無いよ」
「ほんとか?」
「ほんとだよ。それより燕青、よく殴らなかったね」
「マスターが嫌がるからな。と言ってもマスターに怪我の一つでもあったら、マスターと言えど命令は無視してたけどな」
うん、君ならそうだと思ったよ。良かった、怪我しなくて。怪我していないと言っているのにこの心配性は信用しない。私の手なり肩なり触って怪我はないか何かされていないか念入りに確認している。さり気なく鞄を奪わないで。取り返そうとしてもさせないので諦めた。君ね、私だって護衛術くらいは嗜めてるから自分の身くらい守れるよ。だからそんな蒼い顔をしないで。子供だなぁ。私は真剣な眼差しで齷齪する彼の滑らかな髪を軽く撫でる。
「ほんとうに大丈夫だから安心して燕青」
「そうかい。ならいいが、今度からああいうのに絡まれたらすぐ逃げてくれよ」
「善処する」
ほっと胸を撫で下ろす燕青を見てると先程の、獲物に食らいつきそうな程に殺気立っていた彼はほんとうに同一人物なのかと疑いたくなってしまう。だけど紛れもなく先程の彼も今の彼も私の知る燕青に他ならない。燕青って女性みたいと思っていたけど、その認識はあまねく改めなければいけないようだ。間違いなく燕青は男であり漢だ。それも、一歩違えば檻から逃げ果せてしまうほどのとびきり危険な竜だ。でも誰よりも信頼出来る、頼れる男でもある。