私は、彼に愛されていたのだろうか。そんな懐疑を考えていた。夜も深まり、窓辺から見る賑わいを見せていた往来には人っ子一人居らず、しんと静まり返っている。はあ、と両手に生温い息を吹きかけて冷たさを和らげるも、時期が時期なのでまたすぐに冷え始めた。
「何してんだぁ?」
廊下の暗闇から姿をぬうっと出したのは燕青だった。窓外の市場から目を離し、彼を見遣る。多分彼は私が眠れないかなんだと思っているだろう。きょとんとしている表情の裏で、彼は私をどう思っているのだろう。
「眠れないので」
「一緒に寝よう、それなら寝られるだろ?」
白い歯を惜しげも無く見せそれが淡い月光に照らされる。そこに一切の秘め事がなければ、私は飴を求める童のように貴方に着いていくというのに。差し向けられた無骨で大きな手のひらに惚れたのも事実だが、その手が選んだものに泣かされたのも事実だ。馬鹿者、と一緒くたに失望できたら楽だったさ。私は床へ顔を落とす。
「どうしたんだい? 具合悪いのか?」
その心遣いにはなんの嘘偽りはない。それは解る。解ってしまうが故に歯痒い。
「燕青」
愛しき夫の名前を口にした声は酷く揺れていて、少しでも気を許せば口からこぼれるのは言葉ではなく、嗚咽となるだろう。ああダメだ。しっかりしないと。心配そうに顔を覗き込もうとする燕青より顔を上げる方が少し早かった。びっくりして肩が跳ねた燕青を、真っ直ぐと見据える。
「行くんでしょう、俊義様の元へ」
「なんであんた、それを」
「俊義様が捕らえられたことは前々から知っていました。燕青が、俊義様を助けるだろうということも」
私が嫁いだ男はそういう男なのだ。綺麗な顔をしていても中身は篤実そのもので、顔に似合わない筋肉が隆起した体躯や、全身を覆う鮮やかな刺青も、それらが全ては彼の主人である盧俊義様が為。本来なら彼は私の夫になる予定なんてなかった。彼は自身が死ぬまで俊義様だけに尽くそうと決めていたのだから。もし俊義様と私の父が交友関係にあり、尚且つ経済的取引をしていなければ、現にある私と彼の夫婦生活はないだろう。言ってしまえば燕青がこの縁談を引き受けたのは俊義様の為に他ならない。
「私が起きていたのは眠れないからではなく、貴方を待っていたんですよ」
政略結婚なのだから、私が心より彼を愛していても、彼もそうだとは限らない。だから俊義様より私が上になることは一生ないというのも骨髄に沁みるまで理解している。ここで私が号哭しようとも、無様に袖にしがみつこうとも、燕青の意思が僅かにも揺らぐことはない。とんだ女泣かせに惚れたものだ。俊義様の捕縛と共に離縁になる予定だった夫婦生活を、肉親の反対を押し切ってまで続けたのが馬鹿らしく思えてくる。全ては一方的に過ぎないのに。袖の中からひとつの包みを出して、それを燕青に押し付けた。
「包子と餃子です。どうせ俊義様の分しか作ってないだろうと思って、貴方の分を作っておきました」
「すまん」
「何に対してです? 貴方が俊義様一筋なのは今や他人にすら認識されている事実。今更どうこう思いませんよ」
「そうかい。手間をかけさせちまったな」
「何ということはありません。俊義様がどこに居るのか知っていますか?」
「ああ」
「燕青」
彼の袖の端をきゅっと摘む。どんな表情をしているか見たくなくて、見せたくなくて、顔を俯かせた。帰ってくる答えは解っている。解っているのに、聞けずにはいられない。
「ほんとうに行くんですか?」
父が俊義様と懇意な仲である以上、私もあの人と話したことはある。決して悪い人ではない。幼き頃粗相をしてしまった私が血の引いた顔で頭を下げたら、彼は気にもかけていないといわんばかりに呵呵大笑として流してくれたことを今でも覚えている。懐が広い人であることは解っている。そんな俊義様に拾われた燕青が、身命を賭してまで守る気持ちも理解できないところではない。だが俊義様が役人に捕縛されたのは、衣を着せずに言ってしまえば、彼が燕青の助言を聞き入れなかったからでもある。
そも出立する前にも燕青は彼に言ったのだ。行ってはダメだと。私からも何度も燕青の言葉を聞き入れるように言上してきた。此度の結果は、腹心である燕青の言葉も聞かず私の言葉も意に介さず、断固として意思を曲げなかった俊義様自身が招いた結果である。いくら拾われた恩義があるからとは言え、己の言葉に耳を僅かにも傾けない主人に、危険を冒してまで守る義理が果たしてあるというのだろうか。
「俊義様は、貴方の言葉を聞き入れてはくれなかったじゃないですか。それなのに、そんなに大切ですか」
貴方を愛している人間よりも。
口にしてすぐに後悔した。ああ馬鹿らしい。私が愛しているとはいえ、向こうはそうではないかもしれないのに。迫り上がる圧迫感に喉が震える。目頭が沸騰するように熱く感じた。
「どんなに俺の言葉を聞いちゃくれなくても、俺にとっては命より大事な主なんだよ」
「今回と同じようなことを繰り返したら次はどうするんですか」
「何度でも言うさ。俺は主の従者だからな」
「嫌だとは思わないんですか、去りたいとは思わないんですか。失望、しないんですか」
だんだん俊義様へ苛立ちが募ってくる。これほど痛烈に慕ってくれる彼をどうして俊義様は僅かばかりにも聞き入れてはくれないのだろう。あの人とて燕青を大切と思っていたはず。なのにどうして。そして何故燕青はそこまで俊義様に執着するのか。自分のことを否定するような人なのに。
「主が火山に突っ込もうとするのを止めない従者は居ないのさ」
寂しそうな笑みにも見えた。ふと目を離せば消えてしまいそうなくらい儚げにも。これ以上何言ってもきっと無駄だ。掴んでいた袖をそっと放した。
「最期に、聞いてもいいですか?」
「なんだい?」
「私と結婚して後悔してませんか?」
愛していますか、とは聞かなかった。もしもの答えを聞く度胸は、今の私にはなかったから。だけど後悔してないのなら、たとえそこに私と同じものがなかったとしても、私はよかったと思えるだろう。それだけで満足出来るだろう。だから、お願いだから偽りの答えだけは言わないで。ほしいのはそんなものじゃないから。ふっと笑みを零した彼は手を上げ、私の頭に置いた。
「愛してるよ」
ゆっくりと目が見開かれるのが解る。言われたことを頭の中で反芻させても、硬直した体は指一本さえ動かせない。彼は今なんて言ったのだろうか。耳が可笑しくなければ彼は「愛してる」と言ったはずだ。一番欲しくて、でも諦めていた彼の言葉を聞いて、決壊した川のように私の双眸から涙が次から次へと流れ出る。
頬を伝う無数の涙を、彼は億劫とも疎ましくも思わず苦笑したまま太い指で拭ってくれた。心の隅でそうあってくれればと思って止まなかったが、どうやらその願いは彼に届いたようだ。ほんとうに? という懐疑の眼差しを向けても、彼は依然として真剣な眼差しを以てそれに応える。つまり彼の言ったそれには嘘も偽りも、私を喜ばせようとする意図もないということ。
彼の本心であるということ。たとえもう二度とこの手に触れないのだとしてもその言葉だけでこれから先も生きていけそうだった。あれほど息苦しかった肺は、声を押し殺しているにも関わらずさながら束縛から解放されたかのようにすっきりしていた。熱が指先からすっかり抜け落ちていた体には、彼の熱が移ったかのように温かな血が駆け巡る。
涙は徐々に勢いを無くし、しばらくして完全に止まった。涙の跡を袖で払拭する。一瞥した窓外の空は、少しづつだが明確に明るくなってきていた。これ以上ここに留まらせるわけにはいかない。彼を行かせなければ。深呼吸して体内の空気を入れ替える。つんと張り詰めた冷たい朝の空気が肺を満たす。
「もう大丈夫です。行ってください」
「おう、ありがとな」
「怪我しないように」
「解ってるよぉ。あんたも元気にやりな」
そう言った彼は歳には似つかわしくないほどの子供のような笑みを浮かべて、私の横を通り過ぎた。引かれるように振り返るが、そこには誰も居なかった。相変わらずの常人離れした俊敏さに改めて息を呑んだ。でも確かに先程までここに彼が居たのだ、私が生涯を賭けて愛すると誓った夫が。その熱は温度を持って私の頬に留まっている。朝の澄んだ冷気に奪われないように手のひらを宛がって覆い隠す。世辞にも綺麗とは言えないごつごつとした手だった。それもそのはず、彼は武道を嗜むのだから。角張った手のひらで主人を守り私を愛してくれた。その手に何度も泣かされたが、同時にその手に惚れたのも事実。だけど、それでも。
「やっぱりあの人の方が好きだったんですね」
顔を背けて誰にでもなくそう呟いた。