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不器用な優しさ



私は他人より比較的人の意見をきちんと聞く人間だと自負している。結論がその人の言う通りになるかは別として、私はきちんとその人の言い分を聞きその上で判断する。他人の意見程自分の知見を広げられる物はないと思っているからだ。


「だけどこれだけは許せないかな。燕青、そこを退いて」


「行かせねぇよマスター。たとえアンタの命令でもこればっかしは聞けねぇな」


かれこれ十分程彼と睨み合いをしている。その理由は十分前の一通の電話によるものだった。寒さに厳しさが増した夜の時間に、突然仕事用の携帯に着信が入った。応答すればそれは部下のものだった。聞けば「プレゼンのために用意した企画書やそのデータを誤って消してしまった」とのこと。因みにそのプレゼンは明日の昼から行うものだったので、当然明日の朝から一から作り直したとしても到底間に合わない。ぶつけたい恨み言は山のようにあったが、今それをぶつけても状況は好転しない。

ゆえに遅い時間であろうとすぐにでも会社に赴き、作り直さなければならないと判断した。慌ただしく準備する私を不思議に思い、「どこかに行くのか?」と尋ねてきた燕青に事のあらましを説明し、会社に行ってくると言った瞬間、彼に「ダメだ」と窘められてしまう。それからというもの、私と燕青の間で押し問答が繰り返されている。


「何も遅いからという理由で行かせないわけなんじゃない。マスター、ここのところ二日連続で徹夜して仕事に明け暮れたじゃねぇか。大切な会議なんだろうけど俺からしたらマスターの体の方が大切だね」


「徹夜した理由解ってる? 全ては明日の会議のためなんだよ。ここで捨てるようなことしたらそれも全てが水泡に帰してしまうんだよ? 時間は遅いけど今から作り始めれば終電前には帰って来れる。しかも今回は部下が一人手伝ってくれるし、大丈夫だよ」


「そもその会議って部下のなんだろ? マスターはただの教育係。自分のミスくらい自分で補わないといけない。なにもマスターが出る必要はないんだよ」


「入社したての新米部下だからなんだってば。自分のミスだったとしても、今は教育係の私がサポートしないとダメなの」


「そんな暗愚な部下を抱えるなんて大変だなマスターも」


「燕青!」


「解ってねぇのはマスターの方だろ!」


めったに声を荒らげない彼が乱暴に声を荒らげたことに驚いて口を噤んでしまう。怒りなのか心配なのか、彼の私を捉える双眸にはそれらが入り交じったような色が見て取れた。しかも私が知っているやんわりとした心配ではなくて、ダメだと言ったら私が嫌だと反抗しても無理やり抑えつけるような支配的な心配だった。彼の言い分は理解に苦しむところではない。真実私は二日間連続で徹夜し正直に言って頭の機転も通常みたいに速くない。体も睡眠しか欲していない。

それは彼以上に私が理解している。だからと言って徹夜の起因となったそれを易々と見捨てるわけにもいかない。むしろ私がここで休息を選んでしまったら、部下は一人で作成作業をするハメになり万が一間に合わなかったら、他のチームにも迷惑が及んでしまう。二日の徹夜も容易く乗り越えた私であれば三徹くらいどうってことは無い。なに、会議自体は部下だけが出席するので、その時に休みを貰えばいいだけ。辛いのも今だけというわけだ。


「今こうして対立してる時間すら惜しいの。一秒でも早く会社に行って書類作成に取り掛かれば、その分早く帰って来られるのに」


「そんなに使えねぇ部下なのか?」


「違うって! 使える使えないの話じゃないの」


「そうだろ。そいつが無能だから代わりにやってやるんだろ、その仕事。本来ならばそいつ自身で尻拭いしないといけねぇモンなのに、心優しいマスターに縋り付いてしまっている。それが無能だって証拠だ。マスターも理解してるんだろう、だから放っておけないんだ」


「違うってば。言ったでしょ、その子まだ新米なんだって。二進も三進も解らないんだからミスをしてしまうのは当前だし、それをフォローするのが教育係である私の務めなの。ねえ燕青、私の体を慮ってるなら退いてよ。そしたら少しでも早く帰って来られるんだから」


「ダメだマスター。通せねぇよ」


意地でも退こうとしない燕青に、私の中で何かがぷつんと音を立てて切れた。


「仕事の邪魔しないで、燕青」


零れるようにしてそれが口から滑り落ちてしまう。言った後にはっと我に返る。だけどそれは燕青の耳にもはっきりと届いていたようで、彼は顎を引いて俯いてしまった。長い前髪に隠されて彼の表情は窺えない。私ってばなんてことを! 心配してくれる彼に言うべき言葉ではなかった。いつもなら決して言わない、それどころかそんな気持ちも一切抱かないのに、今はそんなことを言ってしまった。自分の中で少しづつ焦燥が出てくる。


「ご、ごめん、燕青。そんなつもりは」


「俺の存在は邪魔か? マスター」


静かに上げた彼の顔を見て、心臓が鷲掴みにされたような痛みに軋む。そして自分の言った言葉を痛い程に悔やんだ。いつもは溌剌とした笑顔を浮かべる彼が、酷く傷ついた自嘲的な笑みを浮かべていた。ここで私が邪魔だと言えば彼はすぐにでも姿を晦ましてしまうだろう。子供のような天真爛漫な欠片はどこにも感じられない。そんな表情にさせたのは紛れもなく私なんだと悟る。違う。邪魔なんかじゃない。邪魔なわけない、そんなことあるはずがない。


「邪魔なんかじゃない」


いつも助けてくれた彼がどうして邪魔などと思えよう。ああなんてことを言ってしまったんだ私!


「ほんとうにごめんなさい。悪気があったわけでもほんとうにああ思ってたわけでもないの。邪魔なんか一度だって思ったことない」


「じゃあどう思ってる?」


「どうって、居て欲しいって思ってるよ。燕青が出て行きたいと思うなら別だけど、そう思ってないならずっと居て欲しいくらい」


「嘘じゃないんだな?」


「燕青に嘘は言わない」


「なら休め、マスター。行くって言うなら俺はマスターの両脚を折る」


燕青の私を見る双眸は真剣味を帯びた。鉄のように強くて頑固な意思がひしひしと伝わってくる。だけどその中に、小さな別の気持ちもあった。命令するような口調なのに、彼の感情は部下が私に頼ってくるように、燕青もまた私に縋り付いてくるように感じる。今にも泣き出しそうな子供のようだ。私がここで変わらず我を貫けば、彼は言葉通りに行動するかもしれない。脚を折られるのは勿論嫌だが、それを彼にさせてしまうのも嫌だ。

燕青だって心の根から心配してくれてるだけで脚を折りたいだなんて望んでいない。解ってる。解ってるけど、彼には彼の譲れないものがあるように私にも譲れないものがあるのだ。休むのは簡単な事だが、後日責任を負うのは、部下ではなく監督不行届と称された私である。教育係としての責務と一社員としての義務を放棄することこそ私の中では最も私らしくないと思うことであり、そして最も忌み嫌うことだ。


「二時間だけちょうだい。二時間で必ず仕事を終わらせて帰ってくるから」


「マスター」


「その代わり明日は会社を休むよ。私の一日をまるごと燕青にあげる」


今度は燕青が私の言葉に驚く番だった。目を丸くしてぱちくりと瞬かせている。まさか時間を貰えるとは思っていなかったのだろう。だけど私はそれでいい。心優しき燕青を傷つけてしまっただけではなく両脚を折るなんていう言葉まで言わせてしまったその贖罪をしたい。


「どこか行きたいなら行くし、一日中寝たいって言うなら寝るし、なんでもいいよ。明日だけ私の決定権は燕青にあげるよ」


「俺はマスターに今休んでほしいんだが」


「お願い、燕青。もう少しだけ頑張らせて?」


大丈夫。寝不足で会社で倒れたりしない、倒れそうな程酷かったら流石に行かないけどね。仕事が終わったら真っ先に帰って来るよ。約束するから。しばらくの静寂の間視線を交差したが、最終的にそれを破ったのは燕青の深い溜息だった。双肩が下がり彼は額にやれやれといった風情で指を宛てがう。宝石の粉を塗したかのような艶やかな長い髪はその動作にさらりと揺らめく。


「ったく、しょうがねぇなぁこのマスターは。俺の負けだ」


白旗を掲げることを了承した彼は双眼を細めてはにかむ。それはもうあの時みたいな自嘲じみたものではなく、いつも私が見る子供のような笑顔だ。折れたことも嬉しいけど燕青が納得してくれたことにも嬉しさを感じた。


「ありがとう、燕青」


「ただし! 二時間だけだからな! それ以上は俺を裏切る行為になるからな」


「約束は絶対守るよ」


「あと、ほんとうにいいのか? マスターの貴重な時間を従者である俺に丸一日もくれてやって」


「燕青を傷つけたお詫びみたいなものだよ。ごめんね、両脚折るなんてこと言わせちゃって。それに従者云々よりも、私を大切に思ってくれてるからこそ燕青にあげるんだよ」


思っていることを素直に有り体のまま伝えただけなのに、燕青は何故か目を瞬かせて固まってしまった。手を振るも彼は微動だにしない。


「燕青? 聞いてる? おーい」


ダメだ、応答がない。ふむ、無視して行こうかな。時間も押してるし。結論に至った時に彼はようやく動き出した。と思ったら今度は金魚みたいに何を言うでもなく口を開閉させている。えっ、何がしたいの君。だが最後は再度の溜息に終着した。心無しかさっきよりもやや長く深い溜息に感じる。機嫌を損なうようなことを言った覚えはないんだけどな。こっちは説明してほしいと思うのに、彼はそれをするつもりは無いらしく、深い溜息が終わったと思ったら今度は笑い出した。ええ、ちょっと怖いよ燕青。


「いいよぉ、頑張っておいでマスター」


「よく解らないけど頑張ってくる」


幸せオーラを撒き散らす燕青に見送られて、私は寒さが深まった夜の空に飛び出した。