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愛の詐欺師



※百合描写注意。







私が抱き寄せた女は泣いていた。鈴を転がしたような嗚咽が漏れるたびに彼女の双肩は小さく跳ねる。長い髪が私の首筋に当たってくすぐったいが、今はそれもこの胸中に押し込んでおこう。しとどに濡れた黒い睫毛が持ち上がり秘奥にある双眸が、私を捉える。それは一色のはずなのに、濡れているせいで好き通った宝石よろしく光の入射角と比例して何色にも見えてしまう。そんな瞳は、縋るように私に向けられていた。


「ああどうしよう。私ってばほんとうに」


桃色に色付いたふっくらとした唇が震える言葉を漏らす。自責するようなそれに、彼女は続けた。


「いけない、こんなことほんとうはいけないのだわ。夫に見つかってしまったら」


離れないといけないと解っていながらも彼女はこの腕から逃れようとはしなかった。逃げられないのだ。当然と言えよう。彼女が心配しているのは、夫への露呈だけなのだから。その時点で彼女が自発的にこの手中から逃れるべくもない。気づかない彼女は、無意味に涙し胸を痛めている。私は慰撫するように柔らかな髪を撫でた。


「君を一瞥もしない夫と君を愛する私、どちらが君を大切にするか解るだろう?」


「きっと、きっと忙しいだけなのよ。仕事で忙しいから、それで」


「それで君を二ヶ月もひとりであの家に放置したと言うの?」


「国外だから家に居る方が安全だと思ったのだわ、ええ」


「私なら自分が守るけどなぁ。君にとっては他人である使用人に任せるよりも」


同性であるはずなのに私よりも華奢で柔い肌を持った体躯。三歩後ろを着いてくる愛らしくも奥ゆかしい雰囲気。そして弾むようにして常に変わっていく彼女の表情。大きな瞳も小さな鼻もその全てが均一に整えられ、ひとつの人形みたいだった。笑えばそれは大輪の牡丹が開くように可愛らしいだろう。だが曇ってしまっているのは、理由が彼女の夫にある。当初はそうでもないらしいが、最近ではもっぱら酒を煽るか寝るためにしか帰宅しないという。ゆえに彼女の顔には活気がない。磨けば羞花閉月たる彼女を沈ませるなんて、その男は一体どういう神経をしているのだろうか。


「寂しくない?」


「え?」


恭しく彼女の手を取る。細い指とシミひとつない綺麗な皮膚。それを愛でるように撫ぜながら彼女の指を自身のそれと絡ませた。強く、強く。離すまいというように。


「望んでもいない人と結婚しただけではなく、何も知らない場所に連れてこられて挙句ひとりにされて、君は寂しくない?」


彼女はきっと寂しいだろう。この上なく寂しく、辛いはずだ。その証拠に彼女は瞳を逸らした。だけど私はそれを許さなかった。顎を掴んでやんわりとこちらを向かせる。為す術なく再び重ねられた視線に彼女は言葉を詰まらせて今にも泣き出しそうな表情を作った。抜け出したいなら抜け出せばいいのに。私が受け止めるのに。


「ここには私と君だけだ。さっきのように泣いても、いつかの日のように私を求めても、誰にも見られていないし責める者も居ない」


「私はっ」


弾かれたように懐に飛び込んでくる。微かに振動する肩を慣れた手つきで宥めた。次第に嗚咽が零れ始める。頼る人がいない孤独な彼女。万人を微笑みで宥める彼女の素性は泣き虫そのもの。ほんとうは怖くて不安で寂しくて、泣きたいはずなのに、だけど泣けない彼女。だからこうして私が彼女を慰撫しながら泣かせるのだ、気が済むまで。


「私だけは君を愛せる。私は君をひとりにしないし、泣かせないよ」


彼女には私だけ。私が彼女の手を離さなければ、彼女は私の前でしか泣かないだろう。解っていて離すものか。彼女を愛すのは私しか居ないのだから。しばらく撫でていると、嗚咽が気づけば聞こえなくなっていた。訝しんで聞き耳を立てれば、規則正しい寝息が流れてきた。ああ、泣き疲れて寝てしまったようだ。苦しみに震えていた双肩は、穏やかな律動を刻む。しんと静まり返った私の部屋に微かな寝息が流れる。するとどこからともなく姿を顕現した者が居た。


「マスター」


視線をそちらへ転がせば、そこには厳格な面持ちのアルジュナが立っていた。いつものように、控えめでそれでいて毅然とした体勢で立っている。静謐な声音の中に秘められた感情には素通りはできない。それを赦す彼ではない。私は「相変わらずだな」と苦笑を漏らした。


「もうじき日付が変わります。その方を帰さなくて良いのですか?」


「帰そうにも寝ちゃったからね。朝まではこのままにするよ」


「では御客人は私の部屋に運んでおきます故、マスターは就寝されてください」


「辛辣だなぁ。一緒に寝るというのはダメ?」


「マスター」


厳しい語調は、さながら悪事を働いた子供を窘めるそれである。彼女の目が届かない場所での牽制は相変わらず鋭い。そもそもの話であるが、私が彼に実体化を許していない。魔力の温存の為でもあるが、彼女の前でこうも厳しくあからさまな牽制を見せられては困るのだ、私が。なので日頃彼には彼女の目が届かない場合にのみ実体を許し、他では霊体化させている。私から引き剥がすように彼女の肩を抱く。その痩躯の一体どこにそんな力があるのかと思ってしまうのも気にする風情なく彼は彼女を軽々と抱き上げて、私の部屋から出て行った。彼の部屋に彼女を寝かせることに対してはなんの異論はない。彼が手を出すことは大前提にないし、ここで彼女と一緒に寝る理由もないからだ。しばらくしてアルジュナが私の部屋に戻ってきた。


「暖房は付けてあげた?」


「全て恙無く行ってきました」


「良かった。アルジュナもお疲れ様」


「いえ」


伏せられた睫毛はまるで自身の言いたいことに無理矢理蓋をするかのようだった。なので私はそれを敢えて外す。


「言いたいことあるんでしょ? 言っていいよ」


たとえ片言隻語でも、彼の言うことには興味がある。「授かりの英雄」と謳われ御輿よろしく担ぎ上げられた厳格な彼が、一体私をどのようにその双眸に映し、どのように断罪するのだろう。長い睫毛が持ち上げられて、隠された黒い瞳が私を捉えた。静謐な闘志と正義をこれでもかというほど詰め込んだそれに、私が映る。


「恐れながらマスター」


「なあに?」


「いつまでこのようなことを続けるつもりですか?」


意外にも彼は断罪ではなく問いかけてきた。彼の性情を鑑みて言うのは「最低」の二文字だろうと思っていたが、全幅の推測をばっさりと切った彼の言葉にたっぷり一分間固まってしまった。それが緩むにつれて彼も人間なのだと身に染みて理解する。吊り上がった口を開く。


「私が飽きるまで、だよ」


掩蔽している一端を零して他は全て覆い隠せるように莞爾として笑んだ。