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あんたの夢が見たい



星一つ見えない漆黒の冬空を何とはなしに見つめていたら、部屋の中からマスターが顔を出した。


「もう寝るけど燕青は起きてる?」


彼女を越して壁に掛けられている時計を見たら、マスターの普段の就寝時間を大幅に回っていた。仕事が残っていると夕食後から何やらパソコンに睨みを利かせていたようだったが、寝るということは終わったのだろう。それにしても目元がまあ酷いモンだ。画面に寄り過ぎンなって再三注意してたんだが聞かなかったな。その証にマスターの目付きは連続殺人犯よろしく狂いを秘めた強面になってしまっている。しょうがねぇ主だ。


「俺は眠たくなったら寝るぜ。それよりマスター、寝る前に温めた布でも当てておけよぉ、目、ひっでぇ有様になってからさ」


「別にいいよ寝るし。寝る時電気全部消してね」


「了解」


「んじゃおやすみ、燕青」


「おやすみ。いい夢見ろよぉ」


「燕青もね」


ひらひらと小さな手を振ってマスターは自分の部屋に入っていった。それを見送ってバルコニーの窓を閉める。マスターの声もなくなり、物音ひとつしない静まり返った夜の時間。あれだけ喧騒に呑まれていた繁華街も、生活音が時折聞こえてきた隣の部屋も、窓を打ち付ける風の音もその一切がまるで時間が止まったかのように音を立てない。俺だけ別世界に来たような感覚だ。鼻の奥を刺す寒さの中で、やんわりと思考を働かせてみる。俺がマスターと出会ってそこそこの年月が経つ。当初は互いに警戒を見せていたし、立場上俺はさほど警戒していなかったが、今では平然と遣いを頼むマスターも最初こそは全くと言っていいほど頼ろうとはしなかった。

唐突として現れた身ゆえ得心がいってしまうのは無理からぬことだが、それでも俺はマスターのサーヴァントであり従者だ。今の関係を築くまでに相応の労力があった。我がマスターは疑心深い方ゆえにそれも相まって様々な苦労も絶えない。だけどそれも引っ括めて俺は今のマスターを信用に足る主だと確認したし、マスターも俺を安心して頼れると認識した。従者の言葉に耳を貸し、受け入れる主。俺が求めて止まなかったものだ。それを手に入れた今、俺はこれ以上とないほどに充足を感じている。


「やっぱり外は寒ぃな、俺も寝るか」


白く染った息を払うように中へ入った。一転して暖かな空気に包まれる。指先までじんわりと溶かすような温かさだ。霊が温かさを求めるっつうのも滑稽な話だが、一度それを知ってしまえば現実に唯唯諾諾と平伏はできないというもの。聖杯なんざには興味はないと思っていたが、もし明日この日常を手放さなければならないのだとしたら、俺はそれを承服できるか解らない。できないかもしれない。だがマスターは、どれほど心を砕いた者だろうと世界にとって悪であればやむなしと殺す人だ、きっとそれを許さないだろう。だとしたら今夜だけは。今夜だけでも、この温かさに浸かっていたいと思った。コンコン、とマスターの部屋の扉を叩く。


「起きてるかい? マスター」


「燕青? どうしたの?」


やや遅く返ってきたのは微睡みに浸かりかかっていたマスターの間の抜けた声だった。起こしてしまったか。ちょっぴり申し訳なく思った。


「起こして悪いな」


「いいよ、で? なんかあった?」


「マスターが良けりゃなんだが、今日だけ一緒に寝てはダメか?」


言っていることも意味も十二分に理解している。だがあまりにも出し抜けだったのだろう、マスターからの返答はしばらくなかった。寝起きと寝入り端はいつも頭の回転が悪い。それを懸命に働かせて理解しようとしているのだろう。


「勿論変なことはしないって約束しよう。無頼漢にも誇りはある。ただ傍で寝たいってだけだ。嫌なら断ってくれても構わないさ」


硬い声音で喋ったのは多分マスターに改めて命を預けると誓を立てた時以来だ。そしてマスターから返事があったのは、たっぷり二分後だった。心臓が早鐘を打っていることにも気づかず、扉一枚を挟んで向こうにいるマスターだけに集中していた。


「いいよ、入って」


揶揄するでも何かを問い質すでもない、至って普通の声音だった。「入るぜ」と断って入れば、マスターは電気を消した真っ暗な部屋で、既にベッドの上でこちらに背中を向けて横になっていた。アサシンともあって夜目が利く俺は、ベッドに近づきそれなりにスペースが空いているベッドに腰を下ろす。そのスプリングが俺の重さに音を立てて軋む。端に寄ってくれたマスターがそちらを見ながら声を上げた。


「明日は早く起こすから早く寝た方がいいよ」


それだけ言うとしばらくして寝息が聞こえてきた。寝付くのが早いのもマスターの特徴だ。だけどその言葉が少し嬉しいと感じた。明日もマスターに起こされるのであれば、安心出来るだろう。小さく華奢であるその背中に安心したのは、俺も一緒だった。枕に頭を預けて瞼を伏せる。背中越しに聞こえてくるのはマスターの鼓動で。とくん、とくん、と一定の律動を刻んで脈動する。仮にこれが最期の夜だとしたら、俺はあんたの夢が見たい。