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次はどこへ行こうか



人間みんな生きていたら歳をとるし最終的には平等に死が訪れる。それはサーヴァントの力や聖杯なるものがあっても避けられぬ道だ。言い換えれば死があるからこそ私を人間たらしめてくれる。だから死ぬのが怖いとかは思わないし、永遠に生きようとも思わない。ただ、最期に「生きてて良かった」そう思えたならそれ以上の最高の人生の締め方はないだろうと考えている。


「もう六十五か」


住み慣れたアパートの一室にある窓から見える向こうの景色を眺めながら、感慨深い呟きが零れた。透明な窓に映る自分の顔は、二十代の時より目に見えて年月を食った風貌をしている。目元の垂水や眦の皺、そして白髪混じりの髪。それらが私の年齢を正確に伝えてくれる。ベッドで読書をしている私の傍には何十年も前から一緒に居る、燕青が椅子に座っていた。


「なんだいマスター、どこか行きたいのか?」


「行こうにも体力がもうないからね。行かないよ」


「随分弱気だなぁ」


「事実だから」


霊体なのだから当然といえば当然なのだが、傍らに居座る燕青は私が出会った時となんら変わりない容姿をしている。艶やかな深緑の長い髪も、長い睫毛も血色の良い肌も、色鮮やかに彩られた漢らしい肉体も、その全てが当初のままだ。羨ましいを通り越して憎らしささえある。誰が見ても燕青は十代後半から二十代前半の青年にしか見えないだろう。見た目通り彼の体力さえ衰えていない。今や電車に乗って遠出することさえ少し躊躇われる私を、荷物よろしく横に抱えて軽々と外に繰り出す。今ではすっかり老人と介護人だ。しかも彼はそれを酷く嬉しがり喜んでいる。彼の根底にある従者精神には感服せざるを得ないだろう。


「あとは死ぬだけかな」


「どうしたんだよ、らしくねぇな」


「いや、もうやりたいことがないからさ。四肢が活発に動く時はあれよあれよと飛び回っていたけど、今じゃすぐ疲れるからね。どこにも行きたいとは思わないんだよ」


「だからって死しかないわけじゃない」


きっぱりと断言した彼を見て、やってしまったと気づく。彼は多分誤解をしている。多分前の主を私に重ねてしまっているんだろう。彼はまたしても置いて行かれると恐怖して焦っている。また生来の言葉足らずが出てしまった。私が死ぬことも彼と別れることも必然なことで、私でも彼でもそれを変えることは決して適わないが、私が言いたいことはそうではない。


「燕青は行きたい所や行ってみたい所はある?」


「俺か? んー、ぱっとは思い付かねぇな」


「なら思いついた時でいいよ。行こう」


「それはいいが、マスター、体の方は大丈夫なのか? 無理は禁物だ」


「そろそろ隠居しようかと思って」


これは五十半ばから考えていたことだ。自分の体のことは医者以上に自分が一番理解している。歳を重ねるごとに重くなっていく自分の指と容易く膝を突いてしまう己の二本の支柱の脆弱さ。これは今となってはどうしても改善できないものになってしまって、多分七十を越える時にはもしかしたら両脚はぴくりともしないかもしれない。そうなったらほんとうに寝たきり生活になってしまう。だからその前に私と出会った二十年前から、何も変わらず忠誠を誓い、誰よりも長く一緒に居てくれた燕青に、何かをあげたいし自由にさせてやりたい。だからと言ってマスターとサーヴァントの契約を切ることはできないし、なにより彼がそれを嫌がるだろう。そうしたら私が彼にくれてやる自由は私の全てだ。体も時間も、命までも。言葉通り全身全霊を彼にあげよう。老い先長くないだろうこの人生でも、最期に彼が傍に居てくれたら私はそれでいい。


「定年退職前にかなり貯金したから、この先ゆったりと何も考えず好きなことができる。燕青には今まで助けてもらったり支えてもらったりしたからね、散々振り回したけどここいらで腰を下ろそうかと思うんだ。だからここから先は燕青が私を振り回して欲しい。残された時間、全て君にあげるよ」


もちろん他意も装飾もない、有り体の気持ちだ。燕青はまるで映画のワンシーンを停止させたかのように瞬きもせず驚いたように、でもどこか信じられないといったようにじっと私を見ている。鶸萌黄色の瞳は徐々に硝子のように透き通って七色に反射させて、って。


「えっ、なんで泣いてるの? 燕青」


泣いていたのだ。綺麗な双眸は涙に揺らぎ、彼の頬の上を大粒のそれが止めどなく溢れ出ている。驚いたかと思えば泣くだなんて、とことん燕青は変わり者だ。彼の溢れ出る涙を震える手でそっと拭う。だけどそれ以上に彼が篭手をはめた両手で随分荒く拭く。それでは目元が腫れてしまうと言っても、「構わないさ」と言って聞きやしない。後で痛い思いするのは君だからね、私は知らないよ。


「慣れてねぇんだ、主からそう言ってもらうのは」


「ああ、酷い主だったって言ってたね」


「俺の助言も助力も全く耳に入れてくれない人でね、勝手に決めるし勝手に誰かを伴ってるし、勝手に死んじまった」


そう言った彼の表情は、一見穏やかに見えてとても寂しそうだった。一人置いていかれたと寂しがると同じように、そこには愛があった。前の主はついぞ燕青のことを眼中に入れていなかったようだが、でも確かに燕青がそれでも主を想うくらいには主も燕青を可愛がっていたのだろう。だからこそ、なのかもしれない。溺愛され大切にされてきたからこそ、燕青はその恩に報いるため主を主以上に慮っていたのに、主は重要な時に燕青を省いた。彼をまるっきり否定した。最期の時も。

ゆえに彼は見切りをつけて主の元から去った。心を残して。燕青は最愛の人に否定されてどう思ったのだろう。大事な時に省かれてどう思ったのだろう。また、主は燕青を否定して痛みを感じなかったのだろうか。だけど燕青の痛みも心情も本人にしか解りえないことであり、痛みを理解することは私にはできないししようとも思わない。その痛みを理解することは即ち私が彼の元を去るか、前の主と同様に彼を否定しなければならないからだ。私はそんなことはしない。


「私の最期を燕青に看取ってほしい」


力の入らない自分の両手を震えながらも上げて、彼のごつごつとした固い手を握る。誰よりも傍に居たはずなのに、誰よりも遠ざけられてしまった燕青。ほんとうは主の最期まで一緒に居て看取ってやりたかったはず。でも叶わなかった。ならば、それを叶えさせてやるのは今の主である私しか居ない。それがせめてもの返礼だ。今までありがとう、燕青。だけどもう少しだけ付き合ってくれる? ああ、それとも、君の旅に私が付き合ってあげるとでも言う方が正しいかな? 燕青は私の言葉に簡単に崩せてしまえそうなほどの繊細で純粋な笑顔を浮かべた。


「ほんとうに俺にくれても後悔しないんだな? マスター」


「燕青になら」


「解った。では主よ、この天功星燕青、貴方様の身命をあまねく頂戴し、我が身命に替えても潰える最期の一瞬まで守護すると改めて誓おう」


荘厳な言い方と雰囲気に一瞬で変わる。燕青は自分の手の平に拳を当て、厳かに言い放った。私を射抜く眼差しはまるで熱された刃のようだった。灼熱を帯び尚もそこには研ぎ澄まされた忠義がある。世界中どこを探しても手に入らない絶対的な信頼は、今目の前にある。言葉どおり彼は私に全てを託し、また私の全てを貰い受けた。


「ああ。最期まで頼んだよ、燕青」


彼の肩に手を置く。揺るぎない信頼、安心、期待、他にも。筆舌に尽くし難いほどの感情を私は手の平に込めて、彼の肩に置いた。私達の間に、綺麗な言葉も優しい接触も要らない。逐一言葉にせずとも彼はもう解っている。ゆえに言わないし聞かれない。やはり最期は唯一無二の友人であり従者である燕青の満ち足りた顔が見たい。それだけでマスター冥利に尽きるというものだから。