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好きな音



ビニール傘を打つ音、薄暗い天気の中を走る車の音、海面を打つ音。しとどと降り続ける雨の中、私は漫ろとして海辺の砂浜に赴いていた。特にこれと言って何も考えずにぼうっと立ち尽くす。傘を差しているので濡れることはないものの、やはり冬の雨天は寒い。雨に濡れずとも暖かい格好をしていようとも容易く体温を奪われてしまう。熱の微塵も感じない指先を動かす。そういえばここに来てどれくらいになるんだっけ。そんなことをふと思った。


「寒いなぁ」


かじかんだ唇から零れた言葉も震える。寒いけど帰ろうとはしなかった。格段落ち込んでいるわけでも途方に暮れているわけでもないが、私は昔からたびたびこのように何も考えずぼうっと立ち尽くすことがある。ある日は雨の中、ある日は人混みの中、またある日は森閑とした森の中。その時に行きたいと思った場所に赴き、何もせず突っ立つ。それがたとえ周りからしたら無意味な行動のように見えるかもしれないが、私からしたら有意義この上ない時間といえる。至高の時間、とでも言えよう。

それは単純に頭の中の蟠りや胸の中の胡乱な喧騒が一切取り除かれるからだ。ゆえに私は寒い雨の中でも暑い炎天下でもこうして虚空を見つめて突っ立つのだ。ざあざあ、と雨の勢いは増す。冷気に混じった雨の日特有の匂いが鼻の奥を刺す。一瞬眉を顰めるが、波が去ったのを感じてゆるゆると力が抜けた。どうしようかな。そろそろ帰ろうかな。なんて考え始めた時、後ろから何かが私の双肩を沈めた。


「やぁマスター。こんなところで何してんだ?」


子供のような無邪気で軽快な声に振り向くと、そこにはしとどに濡れた燕青が立っていた。いつもは風にたなびく軽やかな長い髪も、今は水分をどっしりと含んだせいで、彼の、筋肉が著しく隆起した双肩に、ぐったりと張り付いてしまっている。毛先から絶え間なく水滴が零れ落ちるが、燕青は何故かそれを拭う素振りもしなければ気にする様子もなかった。いくらサーヴァントとは言え見ているこちらはそんなことはお構い無しに心配してしまう。なんで傘を持っていないの貴方は。本来ならば彼のような長身は入れないのだが、見ているとこちらまで体が冷えそうになるので、仕方なく未だ笑っている彼を自身の傘の下に入れることにした。


「おっ、いいのか? ありがとな」


「今日雨だって言ったじゃん。外出るなら傘くらい持って行きなよ」


「そうだっけか? いやぁ忘れてたわ」


「こんなところに来るなんてどうしたの燕青」


確か彼は麻雀やりに行くと言っていなかったか。


「そりゃこっちのセリフだぜマスター。雨の中海なんかをじっと見てどうするつもりだったんだよ」


ああそういうことか。うん、確かに、彼のように私の性格を知らぬ人が見れば入水しようとする人に見えるだろう。なるほど、心配してくれたのか。彼の過去も生い立ちも詳しくないが、どうやら過去に大切な何かを失ったらしく、私の元に顕現した時から何かと心配してくれたり無茶しようとする私にブレーキを掛けてくれたりする。言葉で彼を諭しても彼はその心底では私の言葉を信用していない。ゆえに私が一人で何かをする時は今みたいに、眉間に皺を寄せて酷く訝しんでくるのだ。


「死ぬつもりなんてないよ、燕青。音を聴いてるだけ」


「音ぉ? なんでまたそんなのを聞いてるんだよ」


予想もしなかった返答に彼は鳩が豆鉄砲を食らったような表情をする。鞄からタオルを取り出し、少し背伸びをしながら彼の濡れた頭をガシガシと拭く。彼は嫌がる様子もなく黙って私を見ながらされるがままになっている。


「生活音や自然の音を聴いてたら、なんか落ち着くんだよね。いや、落ち着くっていう表現もちょっと違うな。なんだろう、体の中にあるノイズが懸かった嫌な感情から意識を逸らせることができる感じ。だからこうやって立ち尽くして聴いてるんだよ」


予想以上に彼の髪は水分を含んでいたらしく、数分と持たずにタオルはしとどに濡れた。これ、このまま鞄に仕舞い込んだら他の物も濡れてしまうよね。どうしようかな。タオルを見つめて考え込む私の手からひょいとそれを拐ったのは、先程まで大人しく頭を拭かれていた燕青だった。濡れたタオルを肩にかけて私の手から傘も拐う。どうやら持ってくれるらしく交代とのことだ。


「考えたくないことは寝た方が良くねぇか?」


「私はこっちの方が好きかな」


「そういうモンかねぇ。ま、マスターにとってそれがイイってことなんだろうな。でもさマスター、さすがにこんな寒い日に見なくてもいいんじゃねぇの? 俺と違ってマスターは生身の人間なんだから風邪引くぜ?」


「まあ確かに」


空を見上げてみれば先程より雲の色の灰色が濃くなっていた。このままここに居続けると、そのうち豪風に見舞われてしまい挙句傘が壊れてしまう事態になりかねない。雨に濡れた指先から徐々に冷たさが全身に波及していく。風邪をひくのも嫌なのに、それでも見たいと思ってしまう自分が居ることに首を傾げていると、燕青が「ならさ」と口を開いた。


「今度は俺も一緒に来るからそん時見よーぜ」


八重歯を光らせてはにかんだ彼に、悩んでいた私はすぐに答えを出す。


「うんそうだね、そうしよう」


「帰ったら飯作ってくれよマスター!」


「はいはい」


「中華な」


人が起こす音もいいけど、彼との他愛もない会話の音もまた好きかもしれない。