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苦味のあとは甘さを



ふと気になった。だから聞いてみた。


「その刺青って彫りたくて彫ったの?」


風呂から上がったばかりの燕青は、下だけズボンを履き上半身はそのままという格好で酒を煽っていた。しとどに濡れた髪は彼の太い首筋にぴったりと張り付いている。肩にかけているタオルで拭けばいいのに何故拭かないのだろうか。風邪を引くよと言っても「サーヴァントだから心配ねえよ」と言って取り合ってくれないと思うので、やむなしに私が彼の髪を拭くことにした。


「気になるか? コレ」


子供のようにされるがままな燕青が艶やかに笑んだ。タオルと長い髪から覗く鶸萌黄の双眸は、翳りを帯びていたが妖しい眼光を放っていた。先程の子犬のような人懐っこい笑みを浮かべていた彼とは違う一面に、ごくりと喉が鳴る。何か拙いことでも聞いてしまったのだろうか、地雷を踏み抜いてしまったのだろうかと脳内に警鐘が響く。彼のその人を試すような視線を見ると、必ず背中がぴりぴりと痛く感じる。


「言いたくないなら」


「冗談だよ冗談! ちと揶揄っただけだ」


「は?」


「あまりにも真剣に見つめてくるもんだから遊んでみよう、ってね。いやそんなビビられるとは思ってなかったが」


呵呵大笑する燕青を見て肩透かしをくらった気分になってしまった。なんなんだ彼は。茶化されるのも遊ばれてしまうのも悔しいことに今に始まったことではないが、それでも種明かしされたらいつだって今のように少しのむかっ腹が立ってしまうのだ。遊ばれる自分の不甲斐なさも悔しいが、人を茶化す彼にもイラつきは覚える。今日のご飯彼だけに唐辛子百倍にしよう。せいぜい苦しめ。日頃の恨みを晴らすと内心誓った矢先に燕青は自分の腕を軽く持ち上げ、視線を滑らせた。そして口を開く。


「前の主がいれろと言ったんだ」


呟きのようなそれにどこか哀愁が漂っているのは私の気の所為だろうか。またいつもの茶化しかとも思ったが、今度ばかしはそうではないらしい。腕を流れる色鮮やかで華麗な刺青を見つめる彼の面持ちは、まるで帰らぬ恋人を想う女のそれと似ていた。こんな感想を抱くなんて私昨日見た昼ドラに影響されたな。だが事実ほんとうにそれと近しい表情をしていた。彼から前の主のことはあまり聞かないが、私はそれを勝手に「好きでない人」と決めつけていた。だがこの顔を見るに、好きでないというより、その人を信用していたからこそ諍いによってたとえ決別しても完全には嫌うことができないのだろうと思った。決別するほどの諍いが何かとは知らないが。


「今でもその人のこと好きなんだね」


滴り落ちる水滴もあまさずタオルで拭き取って、ドライヤーのプラグをコンセントに挿し込んだ。すると燕青は私の言葉に顔を歪めてげえっと嫌そうに「好きじゃねえよ、あんな人」と声を上げる。それなのに刺青を見つめる視線はとても柔らかいもので、哀愁の中にも愛が見え隠れしていた。言葉とは裏腹にまだ前の主を慕っているのだろう。否定する燕青を見ていて私はそう感じた。いいことのはずなのに気持ちが晴れないのは何故だろう。心にできた一点の翳りが言い知れぬもどかしい気持ちにさせる。それは手の動きに出ていたようで、動かしていた手が無意識のうちに止まっていた。燕青の「熱っ!」という短い悲鳴ではっと我に返る。


「あ、ごめん」


「大丈夫だぜ。どうしたんだぁ? マスター」


「ううん、なんでもないよ」


なんでもないはずだ。だけど小さな翳りが上手く嚥下できなくてまた黙り込んでしまう。なんでだろう、彼が前の主を慕うのも誰を慕うのも、どう評価するのも彼の自由なはずなのに、刺青を見つめていた彼の視線が頭の中にこびり付いて離れない。あんな顔見たことない。見たことない一面を見たから消化不良になっているのだろうか。いろいろ考えても胸の靄は全く晴れない。ぼうっと焦点の合わない虚空を見つめていたら、燕青に顔を覗き込まれた。


「様子が変だぞ、マスター」


「なんともないよ」


「ははーん、さてはマスター」


「な、なに」


心配そうだった彼の表情はたちまちさながら面白いものを見つけた子供のような顔へと変わる。どきりと心臓が軋んで背中に冷や汗が伝う。嫌な気がするのは杞憂だろうか。知らず知らずのうちに肩に力が入ってしまっていた。


「嫉妬してんのかぁ?」


それは彼にとってはいつもと同じく単なる揶揄いの一環のつもりだったのだろう。だが「嫉妬」と言われた時、その言葉がすんなりと胸に落ちてきた。ああそうか、つまり私は前の主に嫉妬していたのか。だからあんな顔をした燕青に素直に喜べなかったのも、あんな顔をさせた前の主が憎らしくも羨ましいと思ったのも、全ては嫉妬が故か。我ながらなんとまあ浅はかな。仮にそうだとして、これを彼に言えば間違いなく遊ばれることだろう。笑われるかもしれない。自分がこんなめんどうな奴だとは思ってもみなかった。刺青のひとつくらいで嫉妬するなんて。次第に刺青そのものも恨めしく思えてきた。さっさと消えちゃえバカ刺青。


「マスター?」


何も言わない私に、もしやの顔付きで恐る恐る声をかける燕青。そのたどたどしい態度が逆にむかっときた。なので私は遊ばれた仕返しとしていっそのこと開き直って困らせてやろうと思い立つ。彼の両頬を挟んでぐいっと引っ張る。


「うわっ」


「そうだよ、少しだけ嫉妬した」


引っ張られたことに瞠目する燕青を畳み掛けるようにして言ってやった。私の手のひらに感じたのは、花に隠れた乙女もかくやの可愛らしい熱だった。