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キューブから溢れて



我がマスターは良く言えば天真爛漫で、悪く言えば意馬心猿である。人柄に裏表がなく、誰にでも分け隔てがないのは彼女の最大の美徳と言えるが、だからといって言動に慎みも知性もないのは些か褒められたところではない。現に今もそうだ。本来ならば起床して朝の支度を終えていてもおかしくない頃合というのに、マスターは支度おろか瞼さえ開けていなかった。


「起きてくださいマスター。朝ですよ」


熟睡を妨げるのはほんの僅かに良心が軋むがこれも致し方ないことと思えばそれも瞬く間に風化した。横になって寝息を立てる彼女の肩を揺らす。シーツの擦れる音が部屋に響く中、それでも彼女は起きる気配を見せない。これでは台所の赤い弓兵に嫌いな食べ物を口に押し込められる未来は約束されたものとなってしまう。そのたびに足に縋りつかれるのは真っ平御免なので今度は粗めに揺さぶってみた。これで起きると思われたようだが、ベッドから出てきたのはマスターではなく一冊の本だった。足元に落ちた小さな本を手に取る。それを見て、何故彼女がここまで熟睡しているのかその原因を悟った。


「また懲りずに夜半まで起きていたのですか!」


これには普段は冷静沈着である私も声が少し張ってしまう。呆れた、なんて人だ。私だけでなく周りの英霊からも口酸っぱく言われ続けただろうに、尚もマスターは周囲の言葉を振り払って本に没頭したのですか。とんだ問題児だとこめかみに手を宛てがいたくなった。私がカルデアに召喚されて爾来、彼女のことについて周囲から様々なことを教えて貰った。その中でも極めて悪質と言われたのがこれだ。「誰がなんと言おうと、何をしようと、彼女という人間は極めて本の虫である」と。普段は徹夜しない彼女であっても興味が惹かれてしまうような本に会ってしまえば最後。

それを読破し徹底的に理解しようとするまで本から手を離さないというのだ。それは私も何度も現場に立ち会ってきた。徹夜も厭わず食事も抜いて他事を置いてまで本に夢中になってしまう。睡眠おろか体調さえ疎かになってしまうとのことで、最近は彼女の部屋から本という本の一切を没収したのだが、おそらく誰かの部屋に忍び込んで取ってきたか、あるいは彼女に甘い方が本を与えたのか二者択一だろう。


「いつまで寝ているんですかマスター。仮にもマスターとあろう方が夜更かしなど、周囲に示しが付きませんよ」


約束を破った人に情けは無用。今度こそはと意気込み、彼女の体を覆っていたシーツを剥いだ。すると今度こそ彼女の体が寒さに震える。そして「んー」と微睡みに溶けた声をあげながら体がもそっと動いて、彼女の両瞼がゆっくりと持ち上がった。ここまで五分と少し。何故こうも自立しないのか、全く呆れた人だ。


「ん、あれ? アルジュナ? なんでここに」


眇めた目を擦りながら「ふぁ」と悠々に欠伸をする。背中を伸ばした彼女は眠気も覚めやらぬ顔付きで私を見据えた。


「起こしに来ました。急がないと厨房が閉まってしまいますよ」


「えっ、ほんと!? やばっ」


「私が嘘を吐いているとでも?」


「ないね、うん、ありがとう! 助かったよ!」


枕にしがみついてまで眠っていた威勢はどこか、今や水を得た魚さながらの速さでベッドから飛び起きて洗面台に駆け込んだ。注意しなければならないことは山のようにあるが、今はひとまず彼女の支度が終わるのを部屋の外で待つことにしよう。以前起こしに来た時、私がまだ部屋に居るにも関わらず彼女は着替えを始めようとしたことがあった。曰く「着替えるって言っても中に一枚着てるし大丈夫」とのことだったが、あの時はいろんな感情を通り越してもはや絶句したのを覚えている。もう少し自身が女性であることを認識して欲しいと窘めたが、今はどうなんだろうか。

彼女のことだ、きっとそのままなのだろう。考えただけで肩が重く感じる。ここまできたら天真爛漫という言葉さえも温い。カルデアに来る前の生活は一体どんなものであったのか、それが知りたくなってしまった。広々とした廊下で待つこと十数分。マスターの部屋の扉が空気が抜けたかのような音を立ててスライドした。出てきたのはいつもの白い服を着用したマスターである。出てきて私を見るや否やへらりと笑う。


「待っててありがと。先行ってても良かったのに」


「食事は摂り終えています。それよりもマスター」


「えっ、なんでちょっと不機嫌そうなのアルジュナ」


「これを見ても解りませんか?」


彼女に突き出したのは先程拾った本。彼女の表情が一転して悪事が露呈した子供のような苦笑に歪んだ。重なっていた視線は遣る瀬無く逸らされる。自分でも何を言われるのか察したようだ。


「何度言えば解るのですマスター。夜半まで起きるなと私からも、他の人からも言われているでしょう」


「頭では解っているんだけど面白そうな本を見たらつい」


「弁解は無用。たった今から私が片時も離れず近侍を務めます」


「そこまでしなくてもこれから気を付けるよ」


「三日前も同じことを仰っていましたが、マスターの気を付けるとは何を示唆しているのですか?」


反論の余地もなくぴしゃりと言い返せば、彼女はしてやられたといわんばかりに「それは」と言葉尻を濁して口を噤んでしまう。ただでさえ彼女は物事を並行してこなすということに不向きな性格をしている。そしてそれに拍車を掛けるように本に没頭して徹夜。爛れた生活を容認してしまえばいずれ近い将来マスターは倒れてしまいかねない。昼のレイシフトだけでも生身の人間には疲労するというのに己の体に無駄に鞭を打つなんてそんなことは見過ごすわけにはいかない用件だ。


「話は後に。今は食堂へ急いでください」


「うっ、説教はまだ続くのか」


「己の生活を改めれば何も言いませんよ」


「ごもっとも」


苦々しく項垂れる。自覚しているようなら改善すればいい。彼女は一度は改めると口にするが、結局一日と持たずに悪癖が繰り返されてしまう。決めたことが持続しないのも彼女の瑕瑾だ。他にもあげたら限度がなくなってしまうが、それらも全て私がここに居るうちに直してみせましょう。心の内で意を決すると、隣を歩いていたマスターがこんなことを口にした。


「アルジュナって小言は多いけど面倒見いいよね」


阿るような人じゃないので今の言葉はおそらくそのままの意味だろうが、しかし自分は自分のことを面倒見が良いと認識したことはない。


「なんだかんだ助かってるよ。ありがとう」


屈託ない笑みを浮かべ頬を掻く彼女。何故だか少しくすぐったい気持ちになってしまい、頬が綻んでしまうのを感じる。彼女に釣られて失笑した。忖度なく他人に感謝できるところが、貴女の何よりの美点ですよマスター。