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これなんて無理ゲー?



今の今までごく普通の生活を送っていた私。誰もがしてる社会人としてのルーティーンを練度を積んだ玄人のように淡々と片付けていく、特に突出した変化のない日々を送る一般人。そんな私がなんの前触れもなしにありふれた生活を手放し、非日常的な世界に足を突っ込むことになってしまったのだ。ちょこんと座っている様は見るだけなら一風変わった可愛らしい狐も、口を開けば奇天烈な文言を怒涛の如く浴びせてくる。狐に摘まれるとはよく言ったものだがこうも堂々と騙されるのは後にも先にもこれが初めてだろう。けれども目を背けられない現実に変わりはなく、よくある目を瞑れば覚めるという脱出方法も現実においてはただの瞬きでしかないからいよいよ白旗を掲げるしかない。はあだの、ほうだの、心ここに在らずといった反応を狐が並べていく説明に打つ。

神妙な面持ちをしていると見えるが、内心全く着いていけてない。なんだ「審神者」って、なんだ「刀剣男士」って。「時間遡行軍」がなんだって? 歴史を変える? つまるところ死ぬべき誰かが生き長らえたり、定められている死に方が変わったりするということだろうか。しかも相手は歴史の教科書に出てくるような名だたる武人たちときた。うーん、悪い夢なら早く覚めてほしいものだ。適当に返事していたのがバレたのか、「こんのすけ」と名乗る管狐は「聞いているのですか名前さま!」と喝を入れた。話を聞いても理解したとは言えないのだが、狐の勝ち誇ったようなドヤ顔を見て心根は喉の奥にしまいこんだ。私としてはあまり本意ではないし気も乗らない。その「刀剣男士たち」を率いて「時間遡行軍」を討つという某勇者ゲームを連想させる激務は、波風立たない平穏な人生を送りたい自分からしたらまさに逆を往く世界なので断りたいこと千万だ。


「審神者とはその職種から誰にでもできるようなものではなく、かつ厳しさから実情人材不足なのです。しかし本丸に行ったら一切干渉しないわけではありませぬゆえご安心ください! このこんのすけめが誠心誠意尽くして名前さまの手助けをいたしますので!」


大きな射干玉が可愛らしく見つめてくる。私はその瞬間、頭の中に「諦念」という二文字が映し出された。なるほどつまり選ばれし者に選択肢はないということか。求人数が多い仕事は定着率が低い、つまりブラックだったりするから目を光らせろといつの日か友人に言われたのだが、ありがとう友人。君の教えがこんな時に役立つなんて。でもどうやら目を光らせることは無理そうだ、にこにこ笑う管狐を改めて見下ろして静かに息を整える。射干玉の目に背くこと能わず。ならば腹を括って向き直るしかない。「私で宜しければ審神者の職、謹んでお引き受け致します」そう言って築き上げてきた積年の桃源郷に手を振った。長い付き合いになるこんのすけに連れられてやってきたやけに重々しい空気が流れる一室。境内に漂うそれによく似た空気だ。入っただけで背筋が正される。厳かな空間に多少なりの緊張を帯びるも、熟れた様子で立っているこんのすけを見たらなんかそれも緩まってきた。誰だこんな可愛い狐を案内役にしたのは。ふらり、ふらり、逍遥する足がぴたりと止まる。こんのすけが止まったからである。綿飴のような尻尾を揺らめかせて振り返る。


「さてさて名前さま。本丸に向かう前にあなたさまの初期刀をお選びになってくださいませ」


「しょきがたな?」


「はい! 鍛刀するためには資材が要ります。けれども初期の本丸にそれらはありませぬ。ゆえに最初に契りを結ぶ男士に集めてもらうのです」


「それをこの五振りから選ぶの?」


「そうでございます」


「適当に選んでいいの?」


「名前さまの直感にお任せします」


目の前に並ぶのは五つの刀掛け。抜き身の刀と鞘が飾られているが、刀を生まれて初めてお目にかかる素人意見としてはぶっちゃけ誰でもいい。というか区別がつかない。こんのすけは自由に選べと言っていたが、この刀が人の形を模してこれからよろしくやっていくんだよなと再確認すると、伸ばす手が行き場に迷ってしまう。人間なら初対面の挨拶で選べるが、刀だとそうもいかない。ええいままよ! 湯水の如く湧き出る考えを振り切るようにひとつの刀に手を翳す。こんのすけが「おおっ」と歓喜の声をあげて、いくつもの逡巡が瞬く間に切り落とされる。


「加州清光にしましたか!」


「どうすれば化現してくれるの?」


「刀に向けて手を翳して、念じるように力を送るのです」


「念じるように」


いやいや、どこのファンタジーだよ。と、昨日までの私なら間違いなく手を叩いて笑っているそれを実行に移した。手を翳して、念じる。影を差す刀身の前で瞼を伏せた。念じる、念じる、念じる。念じるってどんなふうに? 何を念じるの? どうしようと決めあぐねた私が最終的に導き出したのは唱えることだった。口に出すのではなく内心それを繰り返すのである。アニメや小説ならここでなんかそれっぽいセリフを吐くだろうけど、あいにく私は二十歳を過ぎた大人で、かっこいいセリフにも甘酸っぱい少女時代にも別れを告げた身であるゆえに無難に来てください加州清光さまと唱えることにした。振り返れば甘酸っぱい少女時代なんてなかったな、あったのは眠気と問題に四苦八苦する苦痛だけだった。加州清光、加州清光、加州清光。こんのすけに言われた名を心中で繰り返し呼んでいたらなんだか手のひらが温かくなってきた。カイロを触っている温度から焚き火に当てられている温度に急上昇して、びっくりして思わず「熱っ」と手を引っ込めてしまう。顔を上げた先に飛び込んできたのは淡い桃色の花びら。


「あー、川の下の子です。加州清光。扱いづらいけど、性能はいい感じってね」


これこそ夢だろと切望するほどの美男子だった。黒い洋装に、髪に、よく映える赤。切れ長の睫毛に閉じ込められた赤眼が私を捉えて愛想良い笑みに細められる。白い手が差し伸べられた。現代っ子のそれとは比べるべくもないくらい形の良い爪は瞳と同じ色が移っていて、握手した私の肌の上で綺麗に輝く。


「よろしくね、主」


これでナンパされたら誰が断るんだよってくらい美しい笑顔に、区切りをつけたはずの帰りたい気持ちが首をもたげた。加州清光、名前もさることながら容姿も端麗とは天は二物を与えずという言葉に首を傾げたくなる。そういえば彼は神だったな。えっ、じゃあ鍛刀するひとみんな容姿端麗なの? 主さんちょっと着いていけないんですけど。帰りたくなったんですけど。帰らせてくれませんか、そうですか。よろしくと投げられた言葉に首を振るのがやっとな私は、彼の瞳の奥に揺らめく灯火に気づくはずもなかった。