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ミイラ取りがミイラになる



私の村では古くからある言い伝えがある。それは村の後ろにある山には決して立ち入ってはいけないというもの。何やら恐ろしい鬼人に出会ってしまうらしいのだ。だけど今は二十一世紀。時代錯誤の伝習なんて今となっては誰もが迷信と決めつけ、まるで意に介さない。かく言う私もそのひとりであった。馬鹿馬鹿しさ満開な伝習の真偽をこの目で見るべくひとりで森の中に訪れている。日中ともあって視界は眩しいくらいに明るい。川のせせらぎ、木々の擦れる音、鳥の鳴き声。どれを取ってもただの森のそれと言えるだろう。

ふん、何が恐ろしい鬼人よ。それ見た事か、誰も居ないじゃない。だいたい森に住む物好きなんて居やしないわよ、耄碌爺め。鼻を鳴らしながら脳裏に浮かんだ老翁に悪態をつく。両親は早くも他界し私はこの村に住む祖父の手で育てられてきた。昔から何かと心配性で小うるさい祖父は、ついには私に見合い相手まで決めてきたのだ。私はまだ華の二十代。村を出て仕事したいし恋愛も楽しみたい。こんな森と田畑に四方を囲まれた村で一生を終えたくないのだ。と抗議しても馬耳東風、馬の耳に念仏。「お前ひとりでは危なすぎる」と言ってまるで相手にしない。なので私は再三口酸っぱく言われたこの伝習の真偽を身を以て確認したら村を出してくれるだろう、そんな考えに至ったのだ。


「見渡す限りの森だわ、凄いな」


二進も三進も木、木、木。天にさえ届くんじゃないかと思うほどの高い木々が青々と生い茂っている。地面から乱雑に生えた雑草や花、浮き出た木の根っこなどを注意深く踏みながら歩く。日が真上を過ぎた頃、脚が少しづつ重く感じ始めた。ここへ入って軽く二時間。休み無しで歩き続けたのでさすがに疲れてきた。どこかで小休憩を挟もう。腰を下ろせる場所はないかと辺りを見回せば、少し歩いた先に流れる川を見つけた。喉も渇いてきたしそこで休も。近付くにつれて土から石へ変わっていく。じゃり、じゃりと小石を踏む音が川の音と混ざる。川辺にどさりと全身を落とした。


「疲れた」


水を飲むためここに寄ったんだけど、正直指一本動かすのも億劫だ。大の字になったまま眠ってしまおうかとさえ思う。いかんせん私の顔を照らすようにして暖かな陽光が当たるものだから、眠気が首をもたげてしまうのも無理はないと言えよう。ここに入る前にも一悶着あったなと考えていたら、徐々に瞼が重くなってきた。いよいよほんとうに寝てしまいそうだ。少しくらいなら、いいよね。日が暮れる前に起きればいいだけだし。視界が真っ黒になって意識も手放そうとした時、じゃり、小石を踏む音がした。


「ほう、人間がここに入るとはいつ以来だ?」


太くて低い声が微睡みに浸かろうとしていた意識を引っ張り上げる。水中から引っ張りあげられたようにばっと勢いよく身体を起こした。後ろに立って私を俯瞰しているのはひとりの男性である。


「貴方誰?」


「人間に語る名などない」


うわ、すっごい傲岸不遜な人だ。だけど自然と目が離せなかった。瑞々しく美しい緑豊かな自然の中に、彼の出で立ちも雰囲気もどことなく合わないように感じたから。男の腰部まである癖だらけの黒い髪。墨で塗り潰されたかのように深く黒い双眸。袖の長い服が全身を覆っている。着物なのかな? 初めて見る格好をした男を見つめていたら、不快だと言わんばかりに凄まれてしまった。


「何を惚けている。喰われたいのか」


「もしかして貴方が噂の鬼人?」


小首を傾げたら男は何やら心当たりがあるらしく、指を口元に宛てがいへの字口にうっすらと弧を描いた。含みマックスな笑いに固唾を呑み込む。


「麓の老人共はそう言い伝えているのか」


そのまま何かを考え込んでしまう。あの、考えるのは自由だけど、いきなり初対面の人に放置される私の心境も慮ってくれます? めちゃめちゃ居た堪れないのよね。言葉の代わりに水の流れる音が響く中ようやっと話しかけてきたのはそれからしばらく後になってからだった。


「して女、何故貴様はここに立ち入っている? 見たところ贄ではないようだが」


贄ってなんだ、昔の人はそんな恐ろしいことをしていたのか。違う違うと意思表示するために首を横に振る。


「鬼人の有無の真偽をこの目で確かめたくて、ここに来たの」


「酔狂を通り越してもはやただの命知らずだな。それほど命が惜しくないのなら喰ってやる」


「待って、喰われるために来たんじゃないから! というかほんとうにあの鬼人なのね」


鼻で嗤笑する男はぎらりと眼光を鋭くさせる。それはまるで獲物を見つけた猛獣そのものと言えよう。だけどここで怯んでしまったら真に喰われてしまいかねない。恐怖に呑み込まれそうになった身体を叱咤して言葉を振り絞る。


「だってそうでもしないと好きでもない奴と結婚させられてしまうから」


もはや無いに等しい残りの時間であの頑迷な爺に自分はひとりでもやっていけるんだってところを見せつけないといけない。事は急を要するのだ。視線を石が敷き詰められた川辺に落とせば、頭上から冷たい声が降ってきた。


「俺の知ったことか」


そりゃそうだ。私の友人だって頑張ってと諦めているのだから、見ず知らずの人なら尚更関係の無い話だろう。だけど収穫はあった。鬼人は紛れもなく居る。これさえあの爺に突き出せばきっと独り立ちを許可してくれるはずだ。逆にこれでしてくれなかったらもう打つ手はない。諦めて写真でしか見たことのない男の元へ嫁ぐしか残されていない。ううん、大丈夫よ。きっと認めてくれる。視界を隠すようにして現れた不安の靄を強い気持ちで跳ね除ける。こうしてはいられない、早く帰らないと。


「じゃあ私」


「むざむざ帰すと思ったか?」


目が赤く光ったと思った瞬間、強い力で首を絞められていた。硬い指が少しづつ、少しづつ柔らかな皮膚に食い込んでくる。それと比例するように気道も狭まってきて呼吸しづらくなり苦しくなった。痛いより苦しい。男の腕を持ちうる限りの力で叩くがまるで意味が無い。痛がる様子もなく、意に介す様子もない。このままだとほんとうに殺される! ぐにゃりと視界が歪み白い靄がうっすらとかかる。くそう、殺されるために入ったんじゃないのに。こんなことだったら入らなきゃ良かった。馬鹿なのは私の方だ、言うことを聞いていれば。走馬灯のようにいろんなたらればが脳裏を駆け巡る。私を絞め上げる男に露ほどの迷いもない。ここまでか。抗う意思がすっかり消えて腕は力を放棄した。たらん、と両手が力無く揺れる。すると宙に浮いていた身体が地面に叩き付けられた。


「くだらん、興が醒めた」


解放されたことで大量の空気が瞬く間に肺を満たす。げほげほと噎せ返る私を見下ろしながら、男は至極つまらなそうにじっと見つめた。だけど今の私に睨み返す余裕も反論する気力もない。息を整えるだけで精一杯である。額から流れた雫が眦をなぞって小石に滴り落ちる。何故私を殺さなかったのかは解らない。だけど今のうちに体勢を整えておこう、次のために。平静を取り戻した私は立って男を見つめ返す。男は何かを閃いたようで、上機嫌気味に相好を崩した。なんだかとてつもなく嫌な予感がするのは気のせいだろうか。


「女、俺の妻になれ」


どんな危ないことを言われるかと待ち構えていれば、あまりにも予想の範囲外のこと、しかも脈絡すらないことを言われて思わず「は?」と普段にしては低い声が出てしまった。だけど言った本人は何を驚いていると逆にこちらを責め立てるような顔をする。私が可笑しいの? 違うわよね、どう見ても可笑しいのは貴方でしょ。


「喰われるか嫁入りするか選べ、女」


「因みに貴方に嫁いでも山は降り」


「られんな」


本末転倒!結婚したくないからここに来たのに。しかもよりにもよって鬼人に嫁ぐなんて。今からでも想像出来る夫婦像に乱癡気騒ぎを起こしたくなった。絶対無理難題を押し付けて苦しむ私を見て嘲り笑うんだわ!なんて最悪な結婚生活なの。爺さんの大好きなプリン食べてごめん。襖を破壊したの私ですごめんなさい。あと嫌がらせで爺さんの眼鏡を伊達に変えたのも私です、ごめんなさい。うわあん帰りたいよー。

神さま仏さまお狐さま、どうか私を助けて。私まだ二十代なのに、全盛期真っ只中なのに、こんな木と川と鬼が居るところで花を枯らせたくないよー。ぐすぐすとべそを掻きそうになるのをぐっと堪えて逡巡する。だけどそんなのするだけ無駄なのはどこかで理解していた。だって彼がどっちも嫌ですなんて選択肢を許諾してくれそうにないってことくらい、無知な私でも解る。喰われるって相当痛いんだろうな。もしかして自分の血肉とか見てしまうの?嫌だ嫌だ、そんなの嫌すぎる。


「ふ、不束者ですがよろしくお願いします」


こうして山の中で出会った恐ろしき鬼人に嫁入りすることを泣く泣く決心した。さようなら爺さん。さようなら私の華の二十代。さようなら幸せな結婚生活。私はこの黒髪鬼人さんとよろしくやっていきますので、爺さん、お達者で。結婚式に呼べなくてごめんよ爺さん!男は私を軽々と抱き上げるとさながら面白い玩具を拾ったように笑んで、頬にかかる髪の下に手を滑り込ませた。


「せいぜい俺を飽きさせないことだ」


「一応夫婦になるんだし、名前を教えてくれてもいいんじゃない?」


いつまでも怯える小鹿だと思わないでよね。今度は少し強気で聞いてみた。男もそうだなと頷く。傲岸不遜な男をついに肯定せしめたことに小さな優越感が湧いた。


「氏をうちは、名をマダラと言う」


「うちはマダラ? 変わった名前ね」


「好きに呼べ」


「うちはさん」


「名前で呼べ、女」


つい先程好きに呼べって言ったのに指定してくるなんて、わがままか。不服を隠さない表情に、仕方なく折れることにした。親しくない相手を名前呼びするのは少し気が引けるのだが、本人たっての希望とあれば致し方ないというものだ。


「解ったわよ、マダラさん」


ご希望通りに名前で呼んだというのにまだマダラさんの表情は晴れない。今度は何が嫌なんだ。


「敬称を付けられるのは、気持ち悪いな」


「ダーリンって呼んであげましょうか?」


「やめろ」


ともあれ呼び名は正式に「マダラさん」と決まった。子供っぽくてこの先思いやられる節が見えつつあるけど、とりあえず鬼人の妻を頑張ってみようと思います。見守っててね爺さん。