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もう一度手を取って



昔は昔、今は今。過ぎたことをいつまで引き摺っていてもそれは何にもならない。過去がどうであれ、今の俺は戦争など縁遠い、想像さえ難いほどの平和な世界に産まれたひとりの人間に過ぎない。


「だからいつまでも過去に囚われるな」


「そんな簡単に流せるわけないでしょ」


語尾が吐息に交じって掻き消されそうなほど弱くなっていく。眼前で顔を俯かせる彼女もまた、俺と同じく過去つまり前世の記憶を持つ者である。そして前世の心配性の性格をままに受け継いだ俺の恋人でもある。俺よりも一足早く大人になった彼女は、学生であることを逆手にとってはやれ駄賃だの、やれ暇だのと言ってはまるで俺の護衛じみたことをしてくるのだ。それはもう子供の扱いに近しい。前世の彼女もこのままに心配性で、俺の「大丈夫」を聞き入れた試しがないのだが、記憶を持っているからかはたまたそういう性分でもう一度産まれてしまったからか、今の世でも俺の「大丈夫」は全く聞き入れてもらえない。

前世が前世だけにやたらめったら俺を保護しようとする。以前はガラの悪い巨漢に囲まれた時俺に手出しさせまいと、二回りも細く華奢な体躯を持つ彼女が先手を仕掛けたのだ。いくら俺を大切に想い、護ろうとしたからと言っても目の前で危ないことに飛び込むのはみすみす看過できるものじゃない。彼女が俺を想うように、俺も彼女を大切に護りたいと想っているからだ。


「やだね。今世こそイタチは私が護る。もう二度と傷付けさせないし、泣かせたりしないんだから」


「それが裏腹に出るのだと何度言えば理解してくれるんだ」


「イタチでもここは絶対譲歩しないから! いつかイタチを片手で抱えられるほど強くなってたくさん恩返しするって決めてるもの」


「女に抱えられるほど柔いつもりはないんだが。それに恩返しなどしようとしなくていい、お前が居てくれればそれで」


「私は嫌、イタチに護られるのなんて真っ平御免よ」


考える様子もなく一刀両断した彼女を見て、俺は息を飲み込んだ。俺を見据える彼女の双眸は潤みやがて一筋の線が眦から引かれる。溢れたそれを拭うためかそれ以上流させないためか、彼女は手のひらで粗雑にそれを拭う。けれども涙の勢いは結果堰を切ったように溢れ出して彼女は拭うことを止めて前髪が泣き顔を隠すように覆う。小さな手のひらは力強く拳を作る。彼女の嗚咽は僅かとしても聞こえてこない。泣くまいと意固地を張る姿もそのままに、驚き半分懐かしさ半分のなんとも言えぬ心情を抱く。


「貴方が抱えていたものを露知らず浮かれていた自分が死ぬほど嫌いなの。恋人であっても私は貴方にしてやれたことなんて何も無い。いつも貰ってばかりだった」


そんなことはない、その気持ちが反射神経のように喉元まで込み上げてきた。彼女はおもむろに顔をあげて俺を視界に映す。揺らめく双眸の奥には固い意思が見え隠れしている。何かを決断した時のそれだった。溢れ流れていた涙はいつしか止み、目元がほんのりと赤く腫れている。


「だから今度こそ私が貴方に返したい。貰ったもの、あげたかったもの全部。今回は死ぬ間際じゃなくて」


俺はその気持ちだけで十分だと言うのに。今でもたまに夢に見てしまう。月が赤く濡れたあの夜を。犇めく悲鳴、身体にまとわりつく生暖かい血液、俺を恐怖の目で見る同族たち。最愛の弟を泣かせ、親をこの手で殺めたあの夜。俺は同じように彼女をも己の武器で殺した。震える唇が「ごめんなさい」と謝り「愛してる」と紡いだ言葉は決して忘れることはない。どうしたら忘れられようか。今世で再び彼女を見かけた時らしくもなく湧き出る嬉しさと同じように湧き出る恐怖に声すらかけられなかった。

だが彼女から俺の手を取ってくれた時、ほんとうはそれだけで満たされたのだ。恋人を殺した俺を彼女は覚えていながらもまた「愛してる」と言ってくれたのだから。跳ねる肩を包むように抱き締める。最初は渋っていた彼女も顔を埋め、背中に腕を回した。それはまるで母親から離れまいとする赤子のようでもあった。


「俺は今こうしてお前に抱き締められている。これだけで満ち足りるんだ」


「でも」


「生き急ごうとするな。あの時とは違って時間はまだまだある。ゆっくりでいい、少しづつ俺たちの時間を作っていこう」


宥めるように髪を撫でる。絹ようにさらりと指の間から零れる髪がぐりぐりと俺の腹部に押し当てられた。深い溜息を吐いた彼女は小さく首を縦に振る。今はまだ昔に囚われているだろうが、次第にそれから解放されていけばいいと、どこまでも青く澄み渡る天空を仰いで願った。この一件で少しは変わるだろうと踏んでいたがある意味俺の想像を裏切ることをしてくれた。少しでも一緒に居るためにと同棲できるアパートを探し始めたのだ。お前の薄給の限度を知ってくれ。そして物事の順序を知ってくれ。